浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
デマと虐殺     2017年 10月 17日
『読売新聞』(2017年9月4日)の記事を紹介します。
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# by jigan-ji | 2017-10-17 01:02 | つれづれ記
内手弘太・有佐さん結婚披露宴     2017年 10月 16日

 10月14日(土)、リーガロイヤルホテル京都にて内手弘太さんと有佐さんの結婚披露宴が行われました。龍谷大学の友人、有佐さんの職場である京都女子大学の同僚など、大勢の皆さんが出席し、二人の結婚を祝いました。

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       新郎・新婦紹介・祝辞
      龍渓章雄龍谷大学文学部教授


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         祝辞 池田行信浄土真宗本願寺派総務

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        祝辞 吉川大栄京都女子大学総務部長

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        乾杯

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         祝辞 岩田 恒新郎・新婦大学院時代の友人代表

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        披露宴での一コマ



# by jigan-ji | 2017-10-16 01:02 | つれづれ記
全日本仏教会財団創立60周年記念式典並びに第44回全日本仏教徒会議福島大会     2017年 10月 15日

 10月13日(金)、福島県郡山市のホテルハマツを会場に財団創立60周年記念式典・法要が挙行されました。記念講演は玄侑宗久師でした。
 翌14日(土)、郡山市のビックパレットふくしまを会場に第44回全日本仏教徒会議福島大会が開催され、復興祈念法要並びに加藤登紀子さんのお話と歌がありました。

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 松原功人師(右・全仏評議員)とお会いしました。


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 式典会場


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 壇上の来賓各氏

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 主催者挨拶(石上智康理事長)



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 パン・ワナメッテイWFB(世界仏教徒連盟)会長挨拶



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 懇親会(来賓紹介)



# by jigan-ji | 2017-10-15 01:02 | つれづれ記
戦後仏教者の憲法論ノート[8]     2017年 10月 14日

 二、新憲法の理想と現実

 3、再軍備問題について(承前)


 その後、昭和三十五年一月、「旧日米安保条約」は改定され、「新日米安保条約」が成立した。
 『中外日報』(昭和三十七年五月十三日号)は「憲法前文を見直お(ママ)せ」と題した「社説」を掲載した。

 現在の日本国憲法が施行されてから十五年を経過した。憲法記念日を中心に種々の会合が毎日のように持たれたが、最近とみに憲法論議がさかんである。改憲論と護憲論の対立が激化すると「二つの日本」という悲劇も起こりかねない、と憂慮する知識人もいる。
 それを防ぐためには、国民がハッキリとした認識をもつ必要がある。たとい「押付け憲法」であるにしても、内容をもっとじっくり検討したい。ここに改めて着目したいのは、異例だといわれた「憲法前文」である。冷静に今日これを読み返してみるとき、そこに、人世や人間がうたわれていることに、改めて気づかされる。
 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」との一段を念頭において、問題の条項を読み直すべきである。
 平和を念願するとともに、具体的に、人間関係を支配する崇高な理想の自覚である。それは小さくは個人間、家庭人間、そして社会、国家と世界にまで延長されるであろう崇高な理想の自覚を、私どもは目標にしている。
 巷間の素朴な改憲論者が「いまの憲法では、夫婦の協力とか、夫婦のことが強調されていて、こどもが親孝行をしたら憲法違反になる」というような、とり違えを一笑に付してはならない。たしかにそうした論義の成り立つことを、憲法学者も認めている。けれどもこの前文を読んだら、正論に帰ることができよう。
 親子間の相互関係を支配する崇高な理想を深く自覚することは、何をどう深く自覚するかを考えようと憲法は命令する。ここに透徹した人世観と人間観とが必要になってくる。さらに前文にいう「政治道徳の法則は、普遍的なものである」と。それは同時に妥当、必然なものであることを指示している。
 「われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏からまぬがれ平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とあるのは、日本人が「施無畏」の行願を保持する、と受けとるべきではないか。前文は、ほかのところで具体的に「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」とも述べている。
 ところが現実の国際社会の景観は、私どもの念願とは全く相反している。歌壇に「原爆を持てるが故に信じ得ず、持たざるが故に声のかぼそき」の一首があったが、それはいつわらない庶民の嘆きにちがいない。
 憲法前文は最後に「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と結んでいる。まことに多難な前途で、恐らく十五年前の憲法制定当時にも増す、困難の多い現状である。それだけにまた「誓願」としての憲法の意味は深い。
 前文には上記のように自覚、念願、誓願などのことばが出ている。そこに憲法の基底に流れる一脈の何ものかの把握が肝要になる。憲法論議をする前に、いま一たび、前文に目を向けるべきである。
 同時に、新しい時代の宗教的性格が、どうあるべきかを前文のなかからくみとりたい。 (『中外日報』昭和三十七年五月十三日)

 『日本国憲法』が施行されて十五年が経過し、改憲論と護憲論の対立が激化しているが、たとえ「押付け憲法」であるにしても、その異例だといわれた「憲法前文」に明かされた内容は「誓願」であり、恐らく十五年前の憲法制定当時にも増して困難の多い現状であるが、新しい時代の宗教的性格がどうあるべきかは「憲法前文」からくみとらねばならないという。昭和三十七年当時の仏教者(=中外日報社説)は、「改憲論」と「護憲論」の対立の中にあったが、『中外日報』の社説は、「押付け憲法」かもしれないが、「憲法前文」から「新しい時代の宗教的性格」をくみとるべきだと主張した。
 昭和三十年当時、「再軍備問題」については、「仏教徒は何よりもまず国際間の国家利己主義に対して、警告と、列強の軍備撤廃を要求すべきである」(遊亀教授)と主張するのが精一杯であった。
 まさにここに、篠田英朗のいう「戦後日本の国体」(④)、すなわち、「表」の憲法九条と「裏」の日米安保により成り立つ日本国の仕組みに、完全に絡め取られ、その原理的な批判根拠を打ち立てることが不可能となっていた。


④ 篠田英朗『集団的自衛権の思想史-憲法九条と日米安保-』(二〇一六年七月十六日)、同「読売・吉野作造賞に決まって」(『読売新聞』二〇一七年七月五日)参照。



# by jigan-ji | 2017-10-14 01:02 | つれづれ記
戦後仏教者の憲法論ノート[7]     2017年 10月 13日

 二、新憲法の理想と現実


 3、再軍備問題について


 昭和二十五年六月二十五日、朝鮮戦争の勃発を契機に同年七月「警察予備隊」が創設された。その後、昭和二十六年九月、サンフランシスコ講和会議で「旧日米安保条約」が調印され、さらに昭和二十九年七月、「自衛隊法」が制定された。まさにそれは、敗戦後の「武装解除」「民主化の促進」から「経済復興」「限定的再軍備」への方針転換であり、「逆コース」と呼ばれた。
 翌昭和三十年九月、大友抱璞・遊亀(ゆうき)教授(さずく)・山崎昭見による共著『転換期の佛教』(昭和三十年九月十五日)が発刊された。同著にて、遊亀教授は「再軍備問題について」と題して、次のように論じた。

  再軍備問題について(解答)
 軍備を仏教が認めるかどうかの問題であるが、いま問題になつている点は我国の再軍備の問題である。再軍備の可否については、(1)憲法上の問題、(2)わが国の経済上の問題、(3)国際道義上の問題、(4)宗教上の問題、の四点から、論ぜられている。
 (1)(2)(3)の問題については憲法学者経済学者政治家の論争すべき点ではあるが、今は(4)の立場からこの問題を論じよう。
 軍備が戦力であり且つそれが人間殺戮を目的とするものである限り、宗教、特に仏教の立場からは許されない。仏教の立場は人類の平和であるのみならず、動物植物をも含めて各々その處を得させ、他を犠牲にすることなく、夫々の立場を生かしてゆく慈悲の立場である。仏教の慈悲はキリスト教のように人間中心の愛ではない。あらゆる生物、生きとし生きるもの、更には広く物の世界までも(道元はこれを瓦礫成仏とよんだ)、同一生命の連続を認める。こう云うとすぐそれは原始宗教のアニミズムではないかという者があるが、これは仏教における慈悲の広さを現はしたもので、キリスト教的な人間中心の愛を否定し、一切の存在の共存を祈る立場である。これは勿論仏教の縁起観からくるものであるが、仏教的共存共栄は、自己の原理を至上のものと考え、他国にその通りのデモクラシーを押しつけて、以て国際正義が実現すると考えている、そう云う立場に仏教は鉄槌を下すのである。今日の世界は各々国家利己主義に陥り、自国の政治的原理を以て他国に及ぼそうとしている。実はここに反つて抗争と不和が起るのである。他国に負い目を与えるような干渉は人間中心的愛から屢々出る欠陥である。仏教の慈悲とは平等に頭を撫でることではなく、各々の世界(存在)に夫々處を得しめることである。寛容と育成――それが慈悲である。
 この仏教の根本的願い(衆生無辺誓願度)からみても、自国を正義として他国を侵略する国家利己主義や、他の生存を否定する人間相互の殺戮を極度に戒める(殺生罪)は勿論、抗争や憎みを否定し、平和と共存の世界を目的とする。この意味から仏教は一切の軍備に反対しなければならぬ。戦時中仏教徒が暫(ママ)々口にした一殺多生という言葉は僭越な言葉で、一殺多生はただ覚者の立場、仏の世界からだけ云はれるのであつて、迷える凡夫の立場から云うべきものではない。一殺多生は仏智見の立場で、人間の立場では一殺多生すべてこれ殺生業であつて悪業以外の何ものでもない。
 夫故に、仏教はどの点かえらみても戦争を否定すべきであり、従つてそれを目的とする軍備の撤廃に仏教徒は努力しなければならぬ。
 しかしこのことは、いま我が国の再軍備反対論者の、それとは根本的に異なる立場に立つのである。我国の再軍備反対論者は、どこまでも我国だけの再軍備に反対し、世界そのもの軍備については不問にしている。これは甚だ良しからんことで、軍備とは相対的なもので、一国が軍備を撤廃しても、それは目的を達成しない。世界の各国が軍備を縮少(ママ)し、又は撤廃するとき、初めて世界の平和が実現されるのである。然るに彼等は我国の再軍備に反対しながらも、米・ソの軍備については一言もせず、むしろあるのが当然の如く考え、我国だけを真空状態にしておけば、それで世界平和が実現するように考えている者がある。
 仏教は何よりも人類という開かれた立場に立ち、仏教徒はこの開かれた立場から提言しなければならない。仏教徒は我国の再軍備に反対するのは勿論、同時に我々は米国やソ連に対しても人類平和の立場から軍備撤廃を要求する義務があるのである。けだし世界の平和は我国だけの軍備の否定だけでは意味をなさない、否、我国だけ軍備を撤廃することは、反つて軍備をもつ列強の国家利己主義を益々強め利便を与える結果ともなるであろう。ここにおいて仏教徒は何よりもまず国際間の国家利己主義に対して、警告と、列強の軍備撤廃を要求すべきである。(遊亀教授)

 遊亀は「軍備が戦力であり且つそれが人間殺戮を目的とするものである限り、宗教、特に仏教の立場からは許されない」という。つまり「人間殺戮を目的」とするものである限り「軍備」「戦力」は認められないという。さらに遊亀は仏教の「慈悲の立場」は「一切の存在の共存を祈る立場」であり、「仏教の根本的願い」は「平和と共存の世界を目的とする」といい、その意味から「仏教は一切の軍備に反対しなければならぬ」という。だから「戦争」を「目的とする軍備の撤廃に仏教徒は努力しなければならぬ」という。しかし遊亀は、「我が国の再軍備反対論者」とは一線を画すという。すなわち、「我が国の再軍備論者」は「我が国だけの再軍備に反対し、世界そのものの軍備については不問にしている」。だが、「軍備とは相対的なものであり、一国が軍備を撤廃しても目的は達成しない」。だから、「仏教徒は我国の再軍備に反対するのは勿論、同時に我々は米国やソ連に対しても人類平和の立場から軍備撤廃を要求する義務がある」。けだし、「世界の平和は我国だけの軍備の否定だけでは意味をなさない、否、我国だけ軍備を撤廃することは、反つて軍備をもつ列強の国家利己主義を益々強め利便を与える結果ともなるであろう。ここにおいて仏教徒は何よりもまず国際間の国家利己主義に対して、警告と、列強の軍備撤廃を要求すべきである」と主張した。
 つまり遊亀は、「人間殺戮」を「目的」とする「戦争」「軍備」「戦力」は認められないと、目的論の視点から論議を展開する。しかし、その「目的」を実現するための手段・手続きとしては、「仏教徒は何よりもまず国際間の国家利己主義に対して、警告と、列強の軍備撤廃を要求すべきである」という。遊亀は、「米国やソ連」に対する「仏教徒」による「警告」と「要求」の具体的な手段・手続きについては全く語っていない。「仏教徒」の平和論は、とかく「目的」については饒舌であるが、その手段・手続きについては中身が無く、バンスのいう「本質的な規範」「永遠なる平和の基礎」を語ることも出来なかった。



# by jigan-ji | 2017-10-13 01:02 | つれづれ記