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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[5]     2013年 06月 11日
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Ⅰ、帰敬序(承前)  ・・・正信偈講読[151]をご覧ください。

【補遺】

 「阿弥陀仏」について、「「阿弥陀仏」というのはサンスクリット語のAmitayur Buddhaの音写であり、意訳して「無量寿仏」といわれるが、「無限のいのちあるもの」という意味である。この仏には、またAmitabha Buddhaという別名があり、「無量光仏」と訳されるが、「無限の光明あるもの」という意味である。」(中村元選集[決定版]第2巻『シナ人の思惟方法』一七四頁)といわれます。
 また、「阿弥陀」の原語について、「ところで、この語(「阿弥陀」・池田注)が用いられている経典について、サンスクリット本やチベット訳、あるいは他の異訳があるものを調べてみると、この原語と考えられるものは、ある経典にはAmitayus、ある経典にはAmitabha、ある経典にはその両方であるけれども、しかしそれ以外のものは見出されない。われわれが調査した限りにおいて、この点について例外は一つも認められなかった。したがって、漢訳経典に現われる「阿弥陀」の原語は、AmitayusまたはAmitabhaに相当するものであって、それ以外はない、と言い切ってよいであろう。」(藤田宏達『原始浄土思想の研究』二九五頁)といわれます。

 「阿弥陀仏」の「仏」は梵語のブッダ(buddha)の音写です。
 『観経四帖疏』「玄義分」には「「仏」といふはすなはちこれ西国(印度)の正音なり。この土(中国)には「覚」と名づく。自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす。「自覚」といふは凡夫に簡異す。これ声聞は狭劣にして、ただよく自利のみありて、闕けて利他の大悲なきによるがゆゑなり。「覚他」といふは二乗に簡異す。これ菩薩は智あるがゆゑによく自利し、悲あるがゆゑによく利他し、つねによく悲智双行して有無に着せざるによる。「覚行窮満」といふは菩薩に簡異す。これ如来は智行すでに窮まり、時劫すでに満ちて、三位を出過せるによるがゆゑに、名づけて仏となす。」(七祖篇三〇一頁)と、仏とは自利利他悲智円満の妙果をいいます。

 また、阿弥陀仏は「阿弥陀如来」とも表現されますが、「如来」とは梵語のタターガタ(tathagata)の漢訳で、修行を完成した者の称であり、真実(「如」)なる世界から衆生の世界に来る意で、「如」なる「自然(ジネン)」の世界から来た覚者を「如来」といいました。

 『論註』には「諸仏如来に、徳無量あり。徳無量なるがゆゑに徳号また無量なり。もしつぶさに談ぜんと欲せば、紙筆も載することあたはず。ここをもつて諸経に、あるいは十名を挙げ、あるいは三号を騰げたり。けだし至宗を存ずるのみ。あにここに尽さんや。いふところの三号は、すなはちこれ如来と応と正遍知なり。「如来」とは、法相のごとく解り、法相のごとく説き、諸仏の安穏道より来るがごとく、この仏もまたかくのごとく来りて、また後有のなかに去らず。ゆゑに如来と名づく。「応」とは応供なり。仏は結使除尽して一切の智慧を得て、応に一切の天地の衆生の供養を受くべきがゆゑに応といふなり。「正遍知」とは、一切諸法は実に不壊の相にして不増不減なりと知る。いかんが不壊なる。心行処滅し、言語の道過ぎたり。諸法は涅槃の相のごとくにして不動なり。ゆゑに正遍知と名づく。」(七祖篇一〇一頁)と解説しています。
 ちなみに「十名」とは、『大経』には「応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊」(註釈版一一頁)とあります。詳しくは『浄土真宗聖典(註釈版)』「巻末註」の「如来」を参照下さい。

 参考までに、「南無者有限也、阿弥陀仏者無限也、故南無阿弥陀仏者有限無限之一致也」「南無者生死也、阿弥陀仏者涅槃也、故南無阿弥陀仏者生死即涅槃也」「南無者主観也、阿弥陀仏者客観也、故南無阿弥陀仏者主客一致之知識也」(清沢満之「南無阿弥陀仏」、岩波『清沢満之全集』第一巻四九~五〇頁)という、独自の領解もあります。
by jigan-ji | 2013-06-11 01:02 | 聖教講読
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