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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[15]     2013年 07月 07日
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       『真宗全書』第四十巻

正信偈講読[15]・・・正信偈講読[164](2015年12月18日)をご覧下さい。

2、釈尊の教え
(1)出世の本意(承前)

◎唯説弥陀本願海
 『尊号真像銘文』には「「唯説弥陀本願海」と申すは、諸仏の世に出でたまふ本懐は、ひとへに弥陀の願海一乗のみのりを説かんとなり。」(註釈版六七一頁)と釈しています。「本願海」とは、仏願の深広にして涯底なきことを海に喩えました。『大経』「往覲偈」には「如来の智慧海は、深広にして涯底なし。二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり。」(註釈版四七頁)とあり、善導の『往生礼讃』には「弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。」(七祖篇六七一頁)とあります。『論註』には「「海」とは、仏の一切種智は深広にして崖りなく、二乗雑善の中・下の死尸を宿さざることをいひて、これを海のごとしと喩ふ。」(七祖篇八四頁)とあります。月筌師 の『正信念仏偈勦説』には『涅槃経』の海の八徳を挙げて「一に漸々転た深し、二に深にして底を得難し、三に同一鹹味、四に潮限りを過さず、五に種々寶蔵あり、六に大身の衆生も居る所、七に死骸を宿さず、八に一切の萬流大雨之に投じて増さず減ぜずと」(『真宗叢書』第四巻一一頁)と解説しています。

◎五濁悪時群生海
 五濁について『阿弥陀経』には「劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁」(註釈版一二八頁)とあります。
 善導大師は『法事讃』に、「まさしく五濁の時の興盛なるを治す。無明頑硬にして高峰に似たり。劫濁の時移りて身やうやく小なり。衆生濁悪にして蛇竜に等し。悩濁遍満して塵数に過ぎ、愛憎違順して岳山のごとし。見濁の叢林棘刺のごとし。命濁中夭刹那のあひだなり。依正二報同時に滅し、正に背き邪に帰して横に怨を起す。」(七祖篇五七四頁)と述べ、さらに『観経疏』「序分義」に「「濁悪不善」といふは、これ五濁を明かす。一には劫濁、二には衆生濁、三には見濁、四には煩悩濁、五には命濁なり。「劫濁」といふは、しかるに劫は実にこれ濁にあらず、劫減ずる時に当りて諸悪加増す。「衆生濁」といふは、劫もしはじめて成ずる時は衆生純善なり、劫もし末なる時は衆生の十悪いよいよ盛りなり。「見濁」といふは、自身の衆悪は総じて変じて善となし、他の上に非なきをば見て是ならずとなす。「煩悩濁」といふは、当今の劫末の衆生悪性にして親しみがたし。六根に随対して貪瞋競ひ起る。「命濁」といふは、前の見・悩の二濁によりて多く殺害を行じて、慈しみ恩養することなし。すでに断命の苦因を行じ、長年の果を受けんと欲するも、なにによりてか得べき。しかるに濁は体これ善にあらず。いま略して五濁の義を指しをはりぬ。」(七祖篇三九二頁)と釈しています。
 さらに親鸞聖人は『正像末和讃』(註釈版六〇一頁)に、「数万歳の有情も 果報やうやくおとろへて 二万歳にいたりては 五濁悪世の名をえたり」(劫濁)、「劫濁のときうつるには 有情やうやく身小なり 五濁悪邪まさるゆゑ 毒蛇・悪竜のごとくなり」(衆生濁)、「無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す 愛憎違順することは 高峰岳山にことならず」(煩悩濁)、「有情の邪見熾盛にて 叢林棘刺のごとくなり 念仏の信者を疑謗して 破壊瞋毒さかりなり」(見濁)、「命濁中夭刹那にて 依正二報滅亡し 背正帰邪まさるゆゑ 横にあだをぞおこしける」(命濁)と和讃しています。
 月筌師は『正信念仏偈勦説』に、「至相の解に依るに、濁とは不清の義なり、百歳已下是れ命濁、尊卑を識らず、上を敬ひ下に接せざるものを衆生濁と名く、非法の貪を増し、刀剣、器伏、諍訟、闘乱、諂誑、妄語、邪法を摂受する等を煩悩濁と名く、漸く邪見を起し仏法を破滅し邪法転た増す、是を見濁と名く、飢饉劫起り、疾病、刀兵是を劫濁と名く、具さには『瑜伽』『倶舎』等の論及び『法華』、『小経』の諸註の如し。」(『真宗叢書』第四巻一一頁)と釈し、また、「海とは其広大無量及び生死無辺の義に喩ふ。」(『真宗叢書』第四巻一二頁)と釈しています。
 若霖師は『正信念仏偈文軌』にて『善戒経』六の文を引用し、「『菩薩地持』第六、『瑜伽』四十四、此に同じ、今要を取って言へば、時世清らかず、艱難層起するを劫濁と云ひ、仏法因果等を撥無し、邪見熾盛あんるを見濁と云ひ、人々競ひて貪瞋等を起すを煩悩濁と云ふ、世教の仁義礼智等を知らざるを衆生濁と云ひ、寿命促減を命濁と云ふ」(『真宗叢書』第四巻三四頁)と釈しています。
 法霖師は『正信念仏偈捕影記』にて「悪時とは、造悪不善の時、すなわち今時を指す」(『真宗全書』第四十巻二十二頁)と釈しています。
 村上速水氏は「五濁」を「末世において正道をさまたげる五種の濁りのことである。劫濁とは飢饉・戦火等による時代の濁りであり、見濁とは、邪法が盛んに流行するという思想の濁りである。煩悩濁とは煩悩がはびこり、種々の悪徳が生ずるという濁りである。衆生濁とは、衆生が悪業の果報を畏れず、禁戒を持さないようになるという濁りである。命濁とは衆生の寿命が短くなるという濁りである。」(『正信念仏偈讃述』八一頁)と釈しています。

◎応信如来如実言
 「応信如来如実言」は『如来会』の「応信我教如実言(まさに我が教えの如実の言を信ずべし)」(三経七祖部二一三頁)によります。月筌師は「又『小本』の「皆當信受我語」(註釈版一二七頁)等の文も併せ見るべし。」(『勦説』一二頁)と述べています。
 また月筌師は「如実言」について、「蓋し通じて論ずれば、一代の言教皆如実なりと雖も、若し別意に約すれば特に浄教の真実を指す、『大本』に「恵以真実」(註釈版九頁)と説き、『小本』に「説誠実言」(註釈版一二五頁)と説く是なり」(『勦説』一二頁)と釈しています。
by jigan-ji | 2013-07-07 01:02 | 聖教講読
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