人気ブログランキング | 話題のタグを見る

浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[22]     2013年 07月 27日
正信偈講読[22]_e0306636_16325426.jpg


正信偈講読[22]・・・正信偈講読[171](2016年1月13日)、[231・232](2016年9月6・7日)をご覧下さい。

2、釈尊の教え
(3)疑いのいましめ

【本文】
 弥陀仏本願念仏 邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯

【書き下し文】
 弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。

【現代語訳】
 阿弥陀仏の本願念仏の法は、よこしまな考えを持ち、おごり高ぶる自力のものが、信じることは実に難しい。難の中の難であり、これ以上に難しいことはない。

【先徳の釈】
《六要鈔》
 「弥陀」以下の二行四句は、信受がはなはだ難しいことを明かして、遇法が要益であることを識知させようと欲う。「信楽」とは、光の『記』(倶舎論光記巻四)に釈して「信に二種がある。一つは忍許の相、信可とも名づける。名は異なっているが義は同じである。二つは欲楽の相、信楽とも名づけ、信愛とも名づける。名は異なっているが義は同じである。」とある。『百法論疏』(百法論解巻上)に「何を信とするか、実の徳能に深忍楽欲の心が浄であるのを性とし、不信を対治して善を楽うのを業とする。」とある。『唯識論』(成唯識論巻六)に「忍は勝解と謂い、すなわち信の因である。楽欲は欲と謂い、すなわち信の果である。」とある。これらの文に依って信に二義がある。いわゆる忍許と愛楽とである。今、「信楽」とは、すなわちこの二番目の意である。「受持」とは、義寂師は「受とは心が領納を作すから、持とは、記を得て忘れないから。」といっている。「難中」等とは、『経』(大経巻下)に「もしこの経を聞いて信楽受持することは、難の中の難であり、この難以上のものはない。」と説かれている。浄影師(大経義疏巻下)は「前の三に約対して、この経の中の修学がもっとも難であることを明かす。余義余法は処々に説き、浄土を開顕して教えて人を往生させるのは、ひとりこの一経であり、もっとも難である」といっている。「前三」というのは、諸仏の経道と菩薩の勝法と聞法能行であり、みな難とする。三に対して今の経は第一に難しいのである。□問この経を持つ人は、善悪の二機を選ばない。何んで「邪見、憍慢」等というのか。□答念仏の機は、広く善悪にわたっているので論じないが、しかしながら専ら障重根鈍をもって正機とするので、まず悪人に約し、善人を除くのではない。(和訳六要鈔一二七~一二八頁、宗祖部二六八頁)

《正信偈大意》
 「弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」といふは、弥陀如来の本願の念仏をば、邪見のものと驕慢のものと悪人とは、真実に信じたてまつること難きがなかに難きこと、これに過ぎたるはなしといへるこころなり。(註釈版一〇二八~一〇二九頁)


【講読】

◎弥陀仏本願念仏
 「弥陀仏本願念仏 邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」の二行四句は、邪見と憍慢の悪衆生が、本願念仏の法を信受することは難中の難であることを示します。
 「弥陀仏本願念仏」から「難中之難無過斯」までの二行四句は、難を示し、疑いをいましめ、『大経』によって示された「依経段」の結文です。
 「本願念仏」とは第十八願の念仏の意であり、上には「本願名号」とあります。第十八願の念仏という意味では「本願名号」も「本願念仏」も同じであり、ここの「本願念仏」は、信ぜられるものとしての念仏の教えの意です。
 月筌師は「弥陀仏等とは、余仏の本願に簡異す、此法尋常の仏願に依託して発心起行するに同じからず、此れ実に深厚の夙因に非ざるよりは容易に信じ難きことを彰す、故に弥陀仏と標するなり。」(『勦説』一八頁)と釈しています。


◎邪見憍慢悪衆生
 「邪見憍慢」とは『如来会』の「懈怠・邪見・下劣人は如来のこの正法を信ぜず」(三経七祖部二一三頁)の「邪見」と、『大経』「往覲偈」の「憍慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。」(註釈版四六頁)の「憍慢」を併せ取って造語したものです。
 親鸞聖人は、「行巻」に『平等覚経』の「悪と憍慢と蔽と懈怠のものは、もつてこの法を信ずること難し。」(註釈版一四五頁)を引用しています。
 源信大師は『往生要集』に『大智度論』を引用し「雨の堕つるに、山の頂に住まらずしてかならず下れる処に帰するがごとし。もし人、憍心をもつてみづから高くすれば、すなはち法水入らず。もし善師を恭敬すれば、功徳これに帰す」(七祖篇一一七四頁)と述べています。
 なお、「正信偈」には「悪衆生」とあり、『愚禿鈔』には「悪見人」とあり、「「悪見人」といふは、憍慢・懈怠・邪見・疑心の人なり。」(註釈版五三八頁)と釈しています。
 「念仏正信偈」には、「惑染・逆悪斉しくみな生じ、謗法・闡提回すればみな往く。」(註釈版四八六頁)とあります。「回すればみな往く」は、「信巻」(註釈版三〇三頁)引用の『法事讃』「仏願力をもつて五逆と十悪と罪滅して生ずることを得、謗法と闡提と回心してみな往くによる。」(七祖篇五一八頁)に拠っています。


◎信楽受持甚以難
 弥陀の本願の信受し難きことを示すのに二意あります。一つは法の尊高を顕わすためであり、二つには機の疑情を誡めるためです。
 初めの法の尊高を顕わすとは、『大経』流通分に、「如来の興世に値ひがたく、見たてまつること難し。諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。」(註釈版八二頁)と五難をあげ、また、『阿弥陀経』には、「舎利弗まさに知るべし、われ五濁悪世においてこの難事を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切世間のために、この難信の法を説く。これを甚難とす」と。」(註釈版一二八頁)とあります。
 『大経』流通分の五難の中、前の四難は聖道に通じ、後の一難は弥陀法に局り、弘願の信楽を以て難中の難とします。親鸞聖人は『浄土和讃』「大経讃」に「一代諸教の信よりも 弘願の信楽なほかたし 難中之難とときたまひ 無過此難とのべたまふ」(註釈版五六八頁)と和讃しています。
 親鸞聖人は『教行信証』「信巻」に「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。」(註釈版二一一頁)と述べ、また、同「化身土巻」にも「大信心海ははなはだもつて入りがたし、仏力より発起するがゆゑに。真実の楽邦はなはだもつて往き易し、願力によりてすなはち生ずるがゆゑなり。」(註釈版三九九頁)と述べています。
 「信楽」とは、本願を信ずる信心のことです。第十八願文に「至心信楽欲生」とあるによります。僧叡師は「信楽は深信愛楽をいう。受持は領納不失をいう。」(『要訣』稲城四四二頁)と釈しています。月筌師は「受持とは、清涼曰く「受謂心領義理、持謂憶而不忘」と。」(『勦説』二〇頁)と釈しています。すなわち、「受持」とは、受け持するということで、長く忘れないという意味です。ですから、本願を信じて、長くたもつことを「信楽受持」といいます。つまり、「邪見」と「憍慢」が相応して「信楽受持」させないわけです。
 疑情を誡めることは『愚禿鈔』に「難易に二とは、一には難は疑情なり。二には易は信心なり。」(註釈版五〇五頁)と述べられています。


◎難中之難無過斯
 「難中」等とは、『大経』に「仏、弥勒に語りたまはく、「如来の興世に値ひがたく、見たてまつること難し。諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法・諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。」(註釈版八二頁)と五難を挙げるによります。
 親鸞聖人は『唯信鈔文意』にて「信心をえたるひとをば、「分陀利華」(観経)とのたまへり。この信心をえがたきことを、『経』(称讃浄土経)には、「極難信法」とのたまへり。しかれば『大経』(下)には、「若聞斯経 信楽受持 難中之難 無過此難」とをしへたまへり。この文のこころは、「もしこの『経』を聞きて信ずること、難きがなかに難し、これにすぎて難きことなし」とのたまへる御のりなり。釈迦牟尼如来は、五濁悪世に出でてこの難信の法を行じて無上涅槃にいたると説きたまふ。」(註釈版七一二~七一三頁)と釈しています。
 『阿弥陀経』の流通分には「この難信の法を説く」(註釈版一二八頁)とあり、親鸞聖人は『浄土和讃』には「一代諸教の信よりも 弘願の信楽なほかたし 難中之難とときたまひ 無過此難とのべたまふ」(註釈版五六八頁)、「十方恒沙の諸仏は 極難信ののりをとき 五濁悪世のためにとて 証誠護念せしめたり」(註釈版五七一頁)と和讃しています。
 月筌師は「無過斯とは、斯の字は指す所即ち本願真実の利を信楽するを謂ふなり。」(『勦説』二〇頁)と釈しています。
 村上速水氏は「『愚禿鈔』(註釈版五〇五頁・池田注)に 一に、難は疑情なり。二に、易は信心なり。とあるように、難の難たる所以は本願を疑惑する自力心にあることが示される。すなわち、自力疑心と他力信心とは両立し得ないものであり、自力の心でもって本願を信楽することは不可能であるという意を、極難信、世間甚難信、難中の難と表現されるのである。」(『正信念仏偈讃述』一一三~一一四頁)と述べています。
 「正信偈」のこの部分は釈迦の教えの結びですから、『大経』(八二頁)や『阿弥陀経』(一二八頁)の叙述にならって「難中之難無過斯」と結んでいます。
by jigan-ji | 2013-07-27 01:02 | 聖教講読
<< 正信偈講読[23] 憲法前文を見直せ(仏教者の憲法... >>