人気ブログランキング | 話題のタグを見る

浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[32]     2013年 08月 21日
正信偈講読[32]_e0306636_141985.jpg


正信偈講読[32] (正信偈講読[126][238]をご参照下さい)

三 七高僧によって教義を説く
3、曇鸞大師の教え
(2)浄土論註釈の功

【本文】
 天親菩薩論註解 報土因果顕誓願

【書き下し文】
 天親菩薩の『論』(浄土論)を註解して、報土の因果誓願に顕す。

【現代語訳】
 天親菩薩の『浄土論』を註釈して、浄土に往生する因も果も阿弥陀仏の誓願によることを明らかにし、

【先徳の釈】
《六要鈔》
 「天親」以下の四行八句は、『論註』の意に依ってほぼその意を述べる。「論註解」とは、上に引くところの迦才師の釈に見える。(和訳六要鈔一三二頁、宗祖部二七一頁)

《正信偈大意》
 「天親菩薩論註解 報土因果顕誓願」といふは、かの鸞師(曇鸞)、天親菩薩の『浄土論』に『註解』(論註)といふふみをつくりて、くはしく極楽の因果、一々の誓願を顕したまへり。(註釈版一〇三二~一〇三三頁)

【講読】

◎天親菩薩論註解 (正信偈講読126参照のこと)
 『六要鈔』には、「「天親」以下の四行八句は、『論註』の意に依ってほぼその意を述べる」とあります。『論註』の意とは、「おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり。なにをもつてこれをいふとなれば、もし仏力にあらずは、四十八願すなはちこれ徒設ならん。」(七祖篇一五五頁)と、往相・還相等しく仏力によるとあるによります。
 「論註解」とは、迦才の『浄土論』(大正藏経四十七巻)には「注解天親菩薩往生論、裁成両巻。」(「浄土五祖伝」『真宗聖教全書』第四巻四八〇頁)とあり、曇鸞大師が天親菩薩の『浄土論』に註釈を施したことを指します。
 親鸞聖人はこの「注解」の内容を『高僧和讃』に「天親菩薩のみことをも 鸞師ときのべたまはずは 他力広大威徳の 心行いかでかさとらまし」(註釈版五八三頁)、「論主の一心ととけるをば 曇鸞大師のみことには 煩悩成就のわれらが 他力の信とのべたまふ」(註釈版五八四頁)と和讃し、『浄土論』の「世尊我一心」(七祖篇二九頁)の「一心」を、他力の信心であると明かしています。
 曇鸞大師は天親菩薩の『浄土論』を註解したので、その著を一般に『往生論註』『浄土論註』『論註』などと呼びならわしています。しかし親鸞聖人は『教行信証』「真仏土巻」(註釈版三五七頁)では『註論』と表記しています。さらに親鸞聖人は釈尊の説かれた経は「言」(ノタマハク)、菩薩の説かれた論は「曰」(イハク)、人師の説かれた釈は「云」(イハク)の字を用いていますが、『論註』については「証巻」(宗祖部一〇四頁)や『浄土三経往生文類』(宗祖部五四四頁)にて「曰」の字を用いて、人師である曇鸞大師を菩薩として敬っています。『論註』を「論」として尊重して扱うのは道綽禅師の『安楽集』(三経七祖部三八七、四二九頁)や源信和尚の『往生要集』(三経七祖部七八二頁)にも見られます(渡辺顯正『正信念仏偈講述』一八四~一八五頁)。


◎報土因果顕誓願
 「報土」とは、法蔵菩薩の五劫思惟の願とそれを成就するための兆載永劫の修行に報いて(修行の結果として)できている世界という意味です。聖道の諸師方は弥陀の身土を謬解して化仏・化土と判じたのに対して、弥陀の身土は、法蔵菩薩が煩悩成就の凡夫を必ず救うという願を建てたことが因で、その願が完成して浄土が建立されたことが果であると示されました。
 『浄土論』『論註』には「報土」の語はありません。弥陀の浄土が報土であると示されたのは道綽禅師です。『安楽集』には、「いまこの無量寿国はこれその報の浄土なり。」(七祖篇一九六頁)と説きました。善導大師は『観経四帖疏』「玄義分」に「問ひていはく、弥陀の浄国ははたこれ報なりやこれ化なりや。答へていはく、これ報にして化にあらず。」(七祖篇三二六頁)と述べ、「おほよそ報といふは因行虚しからず、さだめて来果を招く。果をもつて因に応ず、ゆゑに名づけて報となす。」(七祖篇三二七頁)と述べていますが、その意はすでに『論註』に、「この三種の莊嚴成就は、本四十八願等の清浄願心の荘厳したまへるところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり。」(七祖篇一三九頁)、「おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり。なにをもつてこれをいふとなれば、もし仏力にあらずは、四十八願すなはちこれ徒設ならん。」(七祖篇一五五頁)と、その因願酬報して出来た浄土であると説き示されていると見て「報土」の語を用いたと思われます。
 「真仏土巻」には「つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなはち、大悲の誓願に酬報するがゆゑに、真の報仏土といふなり。」(註釈版三三七頁)とあり、『唯信鈔文意』には「真実信心をうれば実報土に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。」(註釈版七〇七頁)とあり、『親鸞聖人御消息』には「いまこの安楽浄土は報土なり。」(註釈版七五六頁)とあり、『一念多念証文』の「実報土」の左訓には「アンヤウジヤウドナリ」(宗祖部六一九頁、註釈版六九四頁)とあります。
 「報土因果」とは、衆生の浄土に往生する因と果の意です。
 親鸞聖人は『教行信証』「信巻」に「しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。」(註釈版二二九頁)、「証巻」に「それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。」(註釈版三一二~三一三頁)と述べています。また、『浄土文類聚鈔』には「しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。」(註釈版四八二頁)と述べ、さらに「しかれば、もしは往、もしは還、一事として如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし、知るべし。」(註釈版四八三頁)と往還の二回向も「如来の清浄願心の回向成就」であると述べています。
 ところで「因果」には二つの意味があります。一つは、報土建立の因果(因位の願行と果上の三種荘厳)であり、二つには報土往生の因果(往生の因と菩提の果)です。とくに、法蔵菩薩が仏になる因果と衆生が往生する因果の関係が、古来より「他作自受」の問題として取り上げられてきました。この「他作自受」の問題は、近年においては「自力主義=自己責任思想」「他力主義=無責任主義」などの主張にも見られます。
 「他作自受」に関しては、村上速水『親鸞教義の研究』(一九六八年)、佐藤三千雄「他作自受の問題」(『伝道院紀要』第二〇号、一九七八年)、同「教学における思想の問題」(佐藤三千雄教授還暦記念『真宗教学の諸問題』一九八三年)、河智義邦「親鸞浄土教批判論の諸相―「他力回向論」批判を中心に―」(浅井成海編『日本浄土教の形成と展開』二〇〇四年)、さらに「自力主義・他力主義」に関しては、松本史朗『法然親鸞思想論』(二〇〇一年)、袴谷憲昭『法然と明恵』(一九九八年)、宮元啓一『インド死者の書』(一九九七年)、安藤光慈「『唯信鈔』と『唯信鈔文意』-松本史朗氏の論考について-」(瓜生津隆真博士退職記念論集『仏教から真宗へ』二〇〇三年)を参照下さい。
 なお、徳永一道氏は、「弥陀の本願とその成就の象徴たる名号は、超因果が因果界に顕現し、さらに明瞭な因果的表現をとったものである。(中略)しかし、宗祖にあってはそうではない。衆生が第一義諦真如と即一である、あるいは直ちに真如を証するという立場を宗祖はとらない。真如たる法性法身が因果の衆生界に方便法身として顕現し、その上になお因果的表現をとらねばならぬ。従果向因の、すなわち真如より因果界に来生した如来としての弥陀が、なおかつ法蔵菩薩→本願→阿弥陀という因果に即した動きをして、はじめて衆生に直接することができる。本願とその成就は、それ故に、従果向因した如来が衆生へ向かう更なる動きである。因果的にあるいは時間的に表現された、如来から衆生への絶えざる一体化の動きである。」(『浄土文類聚鈔講讃』二〇五頁)と述べています。
 「顕誓願」とは、誓願とは法蔵菩薩の誓いであり、四十八願の意です。「顕誓願」とは浄土に往生する因も果も阿弥陀仏の誓願にもとづくものであると明かしたという意です。
by jigan-ji | 2013-08-21 01:02 | 聖教講読
<< 正信偈講読[33] 『お寺の林間学校』開校式 >>