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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[38]     2013年 09月 04日
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正信偈講読[38] (正信偈講読135をご覧下さい)

三 七高僧によって教義を説く
5、善導大師の教え
(3)信心の利益

【本文】
 開入本願大智海 行者正受金剛心 慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽

【書き下し文】
 本願の大智海に開入すれば、行者まさしく金剛心を受けしめ、慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲、すなはち法性の常楽を証せしむといへり。

【現代語訳】
 「本願の大いなる智慧の海に入れば、行者は他力の信を回向され、如来の本願にかなうことができたそのときに、韋提希と同じく喜忍・悟忍・信忍の三忍を得て、浄土に往生してただちにさとりを開く」と述べられた。

【先徳の釈】
《六要鈔》
 「行者」等とは、菩薩等覚の後心を指すものではなく、ただ一心念仏の行は一念慶喜金剛の信心であることを明かす。「与韋提」とは、『序分義』の意で、その釈には第三巻の末に載せられているので下に譲る。「三忍」とは、喜と悟と信である。「即証」等とは、『往生礼讃』の前序の釈に「捨此穢身即証」等という意である。(和訳六要鈔一三三~一三四頁、宗祖部二七二頁)

《正信偈大意》
 「開入本願大智海 行者正受金剛心」といふは、本願の大智海に帰入しぬれば、真実の金剛心を受けしむといふこころなり。「慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽」といふは、一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば、韋提希夫人とひとしく、喜・悟・信の三忍を獲べきなり。喜・悟・信の三忍といふは、一つには喜忍、二つには悟忍、三つには信忍なり。喜忍といふは、これ信心歓喜の得益をあらはすこころなり。悟忍といふは、仏智をさとるこころなり。信忍といふは、すなはちこれ信心成就のすがたなり。しかれば韋提はこの三忍の益をえたまへるなり。これによりて真実信心を具足せんひとは、韋提希夫人にひとしく三忍をえて、すなはち法性の常楽を証すべきものなり。(註釈版一〇三五~一〇三六頁)


【講読】

◎開入本願大智海 行者正受金剛心
 「開入本願大智海」以下五句は獲信とその得益を示します。
 「開入」とは、開は開示にして、入は悟入の意です。「本願大智海」に気づき、そこに入ることです。「玄義分」には「長劫の苦因を開示し、永生の楽果に悟入せしむ。」(七祖篇三〇〇頁)とあります。「大智海」とは、弥陀の「本願」、すなわち仏智を海に譬えて「大智海」といいます。善導大師の『往生礼讃』「初夜讃」には「弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。」(七祖篇六七一頁)とあり、「玄義分」帰三宝偈には「妙覚および等覚の、まさしく金剛心を受け、相応する一念の後、果徳涅槃のものに帰命したてまつる。」(七祖篇二九八頁)とあるに拠ります。 この「本願大智海」を、親鸞聖人は『唯信鈔文意』には「仏の智願海」(註釈版七〇〇頁)と語っています。
 「行者」とは、仏道を歩む者の意です。今は念仏の行者を指します。「正受」とは、「思惟」(精神統一して浄土の姿を思い浮かべること)が完成して、浄土のすがたが行者の心と一つになること。すなわち「観」が成就することです。『観経』流通分には「此経名観極楽国土無量寿仏」等(三経七祖六六頁、註釈版一一七頁)とあります。善導大師は『観経』の「教我思惟教我正受」(註釈版九一頁)の「正受」を解説し、「玄義分」にて「「正受」といふは、想心すべて息み、遠慮並び亡じて、三昧相応するを名づけて正受となす。」(七祖篇三〇八頁)と釈し、「序分義」にて「「教我正受」といふは、これ前の思想漸々に微細にして、覚想ともに亡ずるによりて、ただ定心のみありて前境と合するを名づけて正受となすことを明かす。」(七祖篇三七八頁)と釈しています。
 月筌師は「「行者」とは所哀の諸機なり。正受等とは、正は邪雑の念を離るるを謂ふ、受は仏智の信を領するを謂ふ。」(『勦説』四七頁)といい、また、僧叡師は「「行者」とは有縁の人を挙ぐ。「正受」とは本はこれ三昧の翻語、邪乱を離るを正という。法を領納するを受という。今は則ち聞信の異称なり。」(『要訣』四九六頁)と釈しています。
 親鸞聖人は「化身土文類」に「「教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。」(註釈版三八二頁)と釈しています。「金剛心」とは、他力の信心のこと。ダイヤモンドを金剛石といいますが、決して破壊されることがないものを比喩的にいいました。「散善義」には「この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。」(七祖篇四六四頁)と、「玄義分」には「ともに金剛の志を発して、横に四流を超断すべし。」(七祖篇二九七頁)と、「序分義」にも「金剛の志を発すにあらざるよりは、永く生死の元を絶たんや。」(七祖篇三七四頁)と、「定善義」には「「金剛」といふはすなはちこれ無漏の体なり。」(七祖篇四一九頁)と述べています。
 親鸞聖人は「信文類」に十二嘆名を挙げるなか「金剛不壊の真心」(註釈版二一一頁)と述べ、さらに「散善義」の二河白道の譬喩を解説して、「「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。」(註釈版二四四頁)と釈しています。
 『高僧和讃』「天親讃」には「信心すなはち一心なり 一心すなはち金剛心 金剛心は菩提心 この心すなはち他力なり」(註釈版五八一頁)と和讃されています。


◎慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍
 「慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍」の二句は信心によって得るところの現世の利益を明かし、後の「即証法性之常楽」は当来の利益を明かします。
 「慶喜」とは信心の異称です。親鸞聖人は「信文類」に「大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ金剛心なり。」(註釈版二五二頁)と、『浄土文類聚鈔』では「真実の浄信を獲れば、大慶喜心を得るなり。」(註釈版四八〇頁)と、また、「親鸞聖人御消息」には「慶喜と申し候ふことは、他力の信心をえて、往生を一定してんずとよろこぶこころを申すなり。」(註釈版八〇六頁)と述べています。また、月筌師は「慶喜とは乃ち身心悦豫の貌にして是れ信の用なり。」(『勦説』四七頁)と釈しています。
 「相応後」とは、「玄義分」に「妙覚および等覚の、まさしく金剛心を受け、相応する一念の後、果徳涅槃のものに帰命したてまつる。」(七祖篇二九八頁)とあるのを転用したものです。すなわち、一念慶喜の他力の信心を得た後との意です。
 「韋提」とは韋提希を指します。釈尊時代インドのマガダ国王舎城の頻婆娑羅王の妃で阿闍世の母です。『観経』は、王舎城の悲劇を契機として説かれました。
 「忍」とは、認可決定の意で、ものをはっきりと確かめて受け入れることです。六波羅蜜の「忍辱」や『大経』の「三法忍」(註釈版三四頁)や「序分義」の喜・悟・信の三忍(七祖篇三九〇頁)があります。今いう「三忍」とは、喜・悟・信の三忍にして、真理にかない形相を超えて不生不滅の真実をありのままにさとる無生法忍の義です。
 「序分義」に、「「心歓喜故得忍」といふは、これ阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼前に現ず、なんぞ踊躍に勝へん。この喜によるがゆゑに、すなはち無生の忍を得ることを明かす。また喜忍と名づけ、また悟忍と名づけ、また信忍と名づく。これすなはちはるかに談じていまだ得処を標せず、夫人等をして心にこの益を悕はしめんと欲す。勇猛専精にして心に〔仏を〕想ひて見る時、まさに忍を悟るべし。これ多くこれ十信のなかの忍にして、解行以上の忍にはあらず。」(七祖篇三九〇頁、註釈版二六一~二六二頁)と、聖道諸師が韋提希夫人を高位の聖者と解するのに対して、善導大師は韋提希夫人は十信位の凡夫であると釈され、「玄義分」にて「韋提の得忍は、出でて第七観の初めにあり。」(七祖篇三三二頁)と、第七華座観の初めにおいて韋提希は「無生の忍」を得たと述べています。
 「無生の忍」とは「無生法忍」のことで、第三十四願には「たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得ずは、正覚を取らじ。」(註釈版二一頁)とあり、親鸞聖人は「信文類」真仏弟子釈(註釈版二六一~二六二頁)に、信心に生きる者の現生の利益として引用し、「まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。」(註釈版二六四頁)と自釈しています。また、『尊号真像銘文』の「無生忍」には「フタイノクラヰナリ」(宗祖部五八三頁、註釈版六四九頁)と左訓されています。


◎即証法性之常楽
 「即証等」とは、「玄義分」に「ただ勤心に法を奉けて、畢命を期となして、この穢身を捨ててすなはちかの法性の常楽を証すべし。」(七祖篇三〇一頁)と、『往生礼讃』前序に「前念に命終して後念にすなはちかの国に生じ、長時永劫につねに無為の法楽を受く。」(七祖篇六六〇~六六一頁)との文に拠ります。
 親鸞聖人は「真仏土文類」に『涅槃経』を引用して「凡夫の楽は無常敗壊なり、このゆゑに無楽なり。諸仏は常楽なり、変易あることなきがゆゑに大楽と名づく。」(註釈版三四六頁)と、さらに『入出二門偈頌』に「安楽土に到れば、かならず自然に、すなはち法性の常楽を証せしむとのたまへり。」(註釈版五五〇頁)と述べています。また、『高僧和讃』「善導讃」には「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなはち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ」(註釈版五九一頁)和讃されています。
 「法性」とは真如・涅槃・滅度などに同じ意味です。「常楽」とは、涅槃に具する常・楽・我・浄の四徳のことです。涅槃のさとりは、永劫に変わらず(常)、一切の苦しみを離れ(楽)、自在であり(我)、煩悩の汚れを少しも止めない(浄)。いまはこの四徳の中の初めの二徳をあげて、後の二徳を略しました。
 『唯信鈔文意』には、「法性のみやこといふは、法身と申す如来のさとりを自然にひらくときを、みやこへかへるといふなり。これを、真如実相を証すとも申す、無為法身ともいふ、滅度に至るともいふ、法性の常楽を証すとも申すなり。このさとりをうれば、すなはち大慈大悲きはまりて生死海にかへり入りてよろづの有情をたすくるを、普賢の徳に帰せしむと申す。」(註釈版七〇二頁)と釈しています。
 僧叡師は「「即証」等というは、即とは証すること捨身の刹那に在るが故に、「法性の常楽」とは即ち滅度をいう。」(『要訣』四九九頁)と釈しています。「捨此穢身」であるがゆえに「法性之常楽」は往生浄土の益であるといいます。また、若霖師は「即証」について「因(三忍)より果(法性常楽)に至る、或は年時を隔つれども、而も彼五十六億七千萬歳に望むれば、此一生は乃ち須臾の間なるが故に即証と云ふ、此三忍は因位の頂を極むるが故なり、亦はいふべし、定散諸機の化土に生ずる者の如きは多生曠劫を経て乃ち証入するが故に、今は則ち爾らず、故に即証と云ふ。」(『文軌』七六頁)と釈しています。
 ところで『正信偈』では「与韋提等獲三忍 即証法性之常楽」とありますが、『念仏正信偈』は「得難思議往生人 即証法性之常楽」(宗祖部四五〇頁、註釈版四八八頁)とあります。「難思議往生」とは、真実報土の往生のことで、化土の往生である「双樹林下往生」、「難思往生」に対しています。この三往生は『法事讃』(七祖篇五一四頁)に出て、親鸞聖人はこれを『愚禿鈔』(註釈版五〇五頁)で「難思議往生は、『大経』の宗なり。」「双樹林下往生は、『観経』の宗なり。」「難思往生は、『弥陀経』の宗なり。」と三経に配しています。また、「難思議往生」は「証文類」標挙(註釈版三〇六頁)に、「双樹林下往生」「難思往生」は「化身土文類」標挙(註釈版三七四頁)に挙げられています。
 『正信偈』よりも『念仏正信偈』のほうが、『愚禿鈔』の「三往生」(註釈版五〇五頁)の意が、より明確に主張されているように思います。
by jigan-ji | 2013-09-04 01:02 | 聖教講読
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