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『曽我量深選集』第5巻 補遺㉟ 「非意業の信心」について〈1〉 かつて金子大栄師、曽我量深師は異安心と批判されました。 金子師は、その問題とされた『浄土の観念』(大正14年2月刊行)にて「夫で之からの話の順序は、大体今申した事を言葉をまとめて申しますれば、浄土といふものは我々個人の自覚にとってどういう意味を持って居るかといふ方面を先づ第一に簡単にお話しようと思ひます。」(4頁)と述べています。 また、曽我師は問題とされた「如来表現の範疇としての三心観」(昭和2年5月刊行、『曽我量深選集』第5巻所収)にて「それでお話する標準といふものはどこに置くのか、詰まり自分に置くのであります。(中略)詰まり愚な自分が首肯くまで自分に話して聞かせて、そうして愚な自分が成る程と受け取って呉れる迄話をしたいと思ふのであります。」(155頁)と言い、「私は『唯識』の阿頼耶識といふのは、即ち『大無量寿経』に説いてある所の弥陀の因位としての法蔵菩薩であると思ふ。」(157頁)、「自分は愚直であるものだからして、其の法蔵菩薩といふものゝ正態を、どうしても自分の意識に求めて行かないといふと満足出来ない。」(158頁)と述べています。 金子、曽我両師は、因位としての法蔵と、果位としての浄土を、「個人の自覚」(金子)、「自分の意識」(曽我)の上に確認しようとして、異安心との批判を受けたのでした。 では他力の「信心」と凡夫の「自覚」「意識」の関係は、どのように考えたらよいのでしょうか。 (次回に続く)
by jigan-ji
| 2014-11-19 01:02
| 聖教講読
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