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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[101]     2015年 04月 09日
 補遺[53] 「釈迦ノ悲引」か「綽師ノ悲引」か

 正信偈講読[35](2013年8月27日)を補足します。

 「像末法滅同悲引」は、『安楽集』第三大門「輪廻無窮」の結尾に「当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。」(七祖篇241頁)と述べ、同第六大門「経教住滅」において「第三に経の住滅を弁ずとは、いはく、「釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には、衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅す。如来痛焼の衆生を悲哀して、ことにこの経を留めて止住すること百年ならん」(大経・下意)と。」(七祖篇271~272頁)あるに拠ります。
 道綽は『大経』には「釈迦牟尼仏一代の経法は、正法が五百年、像法が一千年、末法が一万年で、その後には、修行する根機がなくなって聖道の諸教はなくなるであろうが、釈迦如来はそのいたましい衆生を哀れんで、殊にこの浄土の経法をとこしえにとどめられるであろう。(大経の意)」(『聖典意訳七祖聖教上』104頁)と述べています。
 親鸞もまた「化身土文類」に「まことに知んぬ、聖道の諸教は、在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は、在世・正法、像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引(斉悲引・池田注)したまふをや。(中略)しかれば、四種の所説は信用に足らず。この三経はすなはち大聖(釈尊)の自説なり。」(註釈版413~414頁)と述べています。
 つまり道綽は「この浄土の経法をとこしえにとどめられる」のは「釈迦如来」であり、親鸞もまた「浄土真宗」「この三経」は「大聖(釈尊)の自説」であると解しています。
 普門はこの「像末法滅同悲引」は、「釈尊之悲引」か「道綽之悲引」かと問答をもうけ、「釈尊、特留此経を以て、今また悲引のゆゑなり」と「釈尊之悲引」と解するとともに、「釈尊之悲引。則道綽之悲引也。」(『正信念仏偈師資發覆鈔』真宗全書第39巻216頁)と述べています。
 しかし深励は従前の解釈に満足せず、「同悲引」は「綽師ノ悲引」であると、次のように述べています。

 此句ニ付テ古来論アリ。コノ悲引ハ釈迦ノ悲引カ、綽師ノ悲引カト云ニ、コレハ綽師ノ悲引ナリ。爾レハ綽師ハ末法ニ入テ十一年ノ后ニ出玉フ。爾ハ像法ノ時機マテ悲引スヘキ筈ナシ。若又綽師ノ所弘ノ法カ、像末法滅同悲引トイハヽ、綽師斗リニ限ラス、七祖ミナ弥陀ノ本願ヲ弘玉フカラハ、綽師ニ限ヘカラスト云ニ付テイロイロノ説アリ。云何心ウヘキヤト云ニ、是コノ一句ノ言遣ヲミレハ、綽師所弘ノ法カ、二時悲引トノ玉フト思レル。ナセナレハ、化土巻ニ云「信知聖道諸教為在世正法而全非像末法滅之時機乃至浄土真宗在世正法像末法滅濁悪群萌齋悲引」(註釈版413頁)。今コヽモ言遣ハ化巻ト同シ。是ハ綽師ニ限タルニアラス、七祖ミナ三時ニ通入スルケレドモ、聖道ノ教ハ在世正法ノ為ニシテ、末ノ代ニ合ヌユヘニ、別シテ像末悲引ナリ。故ニコノ一句化巻ニ対映シテミレハ綽師所弘ノ法ナリ。爾レハ七祖ミナ所弘ノ法ナルニ、綽師ノ下斗リテ云タハ云何ト云ニ、七祖ノ中テ綽師斗ハ別シテ所弘ノ法ヲ引受テ末法ノ時機ヲ悲引スルカ綽師ナリ。ナセナレハ綽師ハ末法ノ初ニ生タ人ユエニ、末法ノ時機ヲ悲引ナサルコト多シ。集上三右云「計今時衆生即當仏去世後第四五百年。正是懺悔修福應称仏名号時」(七祖篇184頁)。爾ハ末法ノ衆生ハ弥陀ノ本願ニ依テ出離スヘシトノ玉フ。又聖浄二門廃立ノ處モ「當今末法現是五濁悪世唯浄土一門可通入路」(七祖篇241頁)ト、コレラモ當今ノ末法ノ時機ヲ悲引シ玉フ。コレハ綽師モト所弘ノ法カ像末法滅同悲引ユヘニ、ソレヲ承テ末法ノ時機ヲ悲引ナサル。若綽師ニモ華厳等ノ法ヲスヽメ玉フナラハ、末法ノ衆生ヲ悲引スルコトナラヌ。所弘ノ法カ像末悲引シ玉フユヘニ。楽集ニタヒタヒ像末ノ時機ヲ悲引ナサルヽコト多シ。綽師ノ後ノ懐感善導モ末法ノ機ヲ悲引ナサレトモ、綽師ホトニハナイ。綽師ハキヒシク悲引サレルヽナリ。綽師ハ末法ノ初ニ出世シ玉フ故ニ、時機ノ劣タコトヲカナシミナケカセラレテ在ス。故ニ悲引シ玉フコト重ナリ。故ニ今、綽師ノ下ニ像末法滅同悲引トノ玉フナリ。(深励『正信偈講義』179頁)

 すなわち、「末法ニ入テ十一年ノ后ニ出玉フ」道綽に、それ以前の正法・像法の二時の衆生を悲引することは不可能です。しかし、「綽師所弘ノ法」は「釈尊、特留此経」の法ですから正法・像法の二時の衆生を悲引することが可能です。しかし、「所弘ノ法」をもっていえば、「七祖ミナ所弘ノ法」は同じですから、「同悲引」を道綽の一段で語る必然性はありません。「同悲引」を道綽の一段で語る必然性について、深励は「綽師ハ末法ノ初ニ出世シ玉フ故ニ、時機ノ劣タコトヲカナシミナケカセラレテ在ス。故ニ悲引シ玉フコト重ナリ。故ニ今、綽師ノ下ニ像末法滅同悲引トノ玉フナリ。」と述べています。
 金子大栄師の「普遍の法と特殊の機」という言葉を依用すれば、「七祖所弘の法」は「普遍の法」といえましょう。この「普遍の法」が、道綽という「特殊の機」を通して、時代・社会に開顕されることによって「綽師所弘の法」となります。深励は、この道綽という「特殊の機」を通して、時代・社会に開顕する方法(=立場)で「同悲引」を釈しています。
 親鸞は「同悲引」「斉悲引」を「釈迦ノ悲引」の立場で解しています。ですから、近年の「同悲引」の解釈、〝「同悲引」とは、同は同じく、等しくの意で、悲引は大悲によって引導する、大悲の導きの意です。つまり、像法、末法、法滅の世にあっては、聖道自力の教えではまったく救われない衆生を平等に大悲をもって、浄土に往生させて仏のさとりを開かせて下さるとの意です〟は、「七祖所伝の法」たる「普遍の法」の立場での解釈で、穏当な解釈に思います。
 しかし、時代・社会の歴史的現実的な課題に向き合い、「キヒシク悲引サレル」「悲引シ玉フコト重ナリ」の時は、「特殊の機」の立場から「七祖所弘の法」(=普遍の法)を解釈する深励の方法(=立場)が不可欠に思います。
by jigan-ji | 2015-04-09 01:02 | 聖教講読
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