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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[105]     2015年 04月 23日
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 補遺[57] 龍樹は殉教したのか?

 龍樹は「殉教」したという説があります。浄土真宗系某会のホームページでも、龍樹の殉教を大きく取り上げています。
 しかし、このいわゆる龍樹殉教説は、管見によれば、明治になって多田鼎が主張し、その後、井上哲雄が敷衍した説のように思われます。
 一般に龍樹の伝記は『龍樹菩薩伝』や『付法蔵因縁伝』(共に大正新修大蔵経第50巻所収)によって語られてきました。
『龍樹菩薩伝』には「龍樹の死」を、次のように語っています。
 
 このとき、ひとりの小乗〔仏教=現代では上座部仏教。以下、一般読者の便宜のため、「小乗仏教」と表記する〕の法師がいて、〔ナーガールジュナに対して〕常にいかりをいだいていた。ナーガールジュナはこの世を去ろうとするときに、かれに問うて言った―「あなたは、わたくしがこの世に永く生きながらえていることを、ねがっておられるのですか」。〔その小乗の法師は〕答えていった―「実は〔あなたの長生きを〕願っていないのです」。そこでナーガールジュナは退いて、静かな庵室に入り、いく日もたっても出て来なかったので、かれの弟子が戸を破って中を見たところが、かれはついに蝉のもぬけの殻のようになって死んでいた。ナーガールジュナがこの世を去ってから今に至るまで百年を経ている。南インドの諸国はかれのために廟を建て、敬いつかえていることは、仏にたいするがごとくである。かれの母がアルジュナという名の樹の下でかれを生んだから、その縁によってアルジュナという語をもって名づけたのである。アルジュナというのは樹の名である。龍がかれの道を完成させたのであるから、龍(ナーガ)という語をもって名づけた。そこでかれの名を「ナーガールジュナ」(龍樹)というのである。(中村元『龍樹』講談社学術文庫、30頁より)

 多田鼎は、その著『正信偈講話』(明治40年7月18日)にて「龍樹菩薩の後年」について言及し、次のように解説しています。

 而して此のいさましき信念の旗をたて、菩薩は印度の中央より、西部及び南部に教化をつたへて、到る處疾風の枯葉を巻くやうな勢であつた。わけて南方印度にあつては多くの国王が之に帰依せられた。彼の猛烈な獅子のやうな迦那提婆が、獅子国、即ちセイロンより来たつて教を菩薩に受けられたのも此時である。かくて菩薩は、伝ふる所によれば頗る長い生涯を送つて、たえず伝道に力を尽くされた。然るに其伝道の盛大は、一方において異教の徒を狼狽せしめ、又恐怖せしめた。それがためであらう、古来殉教といふやうなことを、あまり盛に書き立てない仏教伝記者の常習として、今も明らかには記してをらぬが、どうも此菩薩は異教者の迫害の中に敢えなく終はられたやうであります。而して其臨終の處は、一時、菩薩の伝道の中心であつた南印度の北端コサラの都であつた。菩薩逝きて後南方印度の人々其徳を慕うて菩薩のために廟をたて之に事ふること、ちやうど仏に事へたてまつる様であつたとのことであります。(232~233頁)

 多田は、「古来殉教といふやうなことを、あまり盛に書き立てない仏教伝記者の常習として、今も明らかには記してをらぬが、どうも此菩薩は異教者の迫害の中に敢えなく終はられたやうであります。」と述べています。多田は「龍樹菩薩の後年」にて、『龍樹菩薩伝』『付法蔵因縁伝』に語られる「龍樹の死」について直接言及しているわけではありません。しかし、多田の主張する龍樹殉教説は、『龍樹菩薩伝』や『付法蔵因縁伝』に語られる「龍樹の死」を強く意識した、多田流の解釈に思います。
 この多田流の解釈を、『龍樹菩薩伝』や『付法蔵因縁伝』に語られる「龍樹の死」と結び付け、その「龍樹の死」の解釈の問題として、改めて主張したのが井上哲雄です。
 井上哲雄は、その著『真宗七高僧伝』にて龍樹の「示寂」を、次のように解説しています。

 ○示寂 然るに猶ほ一人の小乗の法師がありまして、菩薩が小乗を貶して大乗の法をお弘めになることを憎んでをりました。菩薩は或時その法師に向つて「お前は俺がいつまでも、生きてゐればよいと思ふか、どうか」とお尋ねになりました。法師は、「いゝや、永く生きてゐて貰ふことはお断りだ」といひました。菩薩はそれきり一室に閉じ籠られて、何日経つても出て来られません。そこでお弟子の方々が戸を破つて御覧になると、はや往生を遂げてをられました。南天竺の人々は、それを聞き伝へて驚き悲しみ、その場に廟を建てゝ、仏跡の如く尊み拝みました。
 この示寂の伝説について某師は、次の様な説明を試みてをられる。〔以下、多田鼎の著から上の文を引用している〕(井上哲雄『真宗七高僧伝』昭和10年4月11日、47~48頁)

 以上から、龍樹殉教説は、明治以降、多田鼎と井上哲雄を介して弘まった説であると思われます。
 ちなみに、今日、石飛道子は『龍樹菩薩伝』や『付法蔵因縁伝』に語られている「龍樹の死」について、次のように解釈しています。

 これが、龍樹の死についての伝記である。菩薩やブッダは人々のために生きる人である。したがって、他者によって請われて生きるのである。かれらの寿命は、みずから自在にできると考えられている。だから、なすべきことをなし終えてしまったら、龍樹にしても、ゴータマ・ブッダにしても、いつこの世から去ってもいいのである。そのとき、誰かが「もっと長生きしてください」と頼むなら、かれらは寿命を延ばしてさらに人々のために教えを説くだろう。しかし、誰も望まないのなら、かれはこの世を去る。部派仏教の法師は、龍樹がこの世に留まることを望まないと答えたので、龍樹はこの世を去った。
 ここで「蝉が抜け殻を残すように」というのは、身体は残して心が身体から去っていったことを意味しているのだろう。つまり、龍樹菩薩の場合、輪廻の生存であることを示している。菩薩は、煩悩を完全に断つことなく気の遠くなるような果てしない年月輪廻を重ねて、ブッダとなることをめざすのである。(石飛道子『構築された仏教思想 龍樹―あるように見えても「空」という』2010年、23頁)
by jigan-ji | 2015-04-23 01:02 | 聖教講読
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