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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[109]     2015年 05月 05日
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 補遺[61] 自然・無功用の能

 正信偈講読[16](2013年7月10日)を補足します。
 「能発一念喜愛心」の「能発」を、恵然は次のように釈しています。

 能発等は、能は愚禿鈔(註釈版539頁)に云く。能の言は、不堪に対するなり。これ過不及の失無きを顕す。発は起こすなり。所発の信に対す。故に能発と曰ふ。これ自力に非ず。故に信巻(註釈版209頁)に云ふ。信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。(『正信念仏偈會鈔句義』真宗全書第39巻277頁)

 また、法霖は「能発者。有云ク、所発ニ対ス言。此レ恐クハ非。(中略)今謂。能ハ自然ノ義、無功用ノ義。」(『正信念仏偈捕影記』真宗全書第40巻23頁)と釈しています。
 恵然は「能発」といっても「自力」ではなく、「如来選択の願心より発起す」といいます。その理由は、「謹んで祖釈(親鸞の釈・池田注)を按ずるに、如来の因位は如実の心を以て至徳の尊号を成就す。以て衆生に施す。此の至徳の尊号は、至心を体と為す。故に如来の真実功徳を、即ち衆生の真実と為す。然れば則ち施すところの功徳、意業に顕現す。而して虚偽無し。至心と名づく也。」(『正信念仏偈會鈔句義』真宗全書第39巻269頁)から知られます。
 この「如来の真実功徳を、即ち衆生の真実と為す。然れば則ち施すところの功徳、意業に顕現す。」ることを、法霖は「能」は「自然ノ義」「無功用ノ義」であるというわけです。
 以上より、「能発」の「発」は衆生の「意業」の上に発りますが、その「発」を発すのは「自然」「無功用」の「能」であるから「能発」であるというわけです。

「不断煩悩得涅槃」を、大原性実は次のように釈しています。

 仍(スナハ)ち煩悩を断ぜずして証果を得るといふ不断得証の益がこれであります。この不断得証といふことは一般仏教に於ける廃悪修善や、断惑証理の教と対比して味ふとき、一層意味深く感ぜられます、廃悪修善や断惑証理は最後まで自己を恃み、あくまで本能と戦ひてこれを征伏し、善人として生き以て現実に於て解脱者たらんとするものであります。これは雄々しくも勇ましいことでありますが、遺憾なことに人間性の限界を見てゐない、大地を踏みしめてものを見る態度ではありません。これに対して不断煩悩得涅槃の境地はあくまで人間性の制限を認識して居ります、どんなに頑張つても人間は聖者になりきれない、亜聖もあるでしょう、偽聖もないではない、しかしそれは真実に証つた人ではない。そこで、人間が人間のままで救はるる絶対救済がなかつたら、永久に凡夫は迷ひの世界を去ることが出来ない、ここに不断煩悩得涅槃の教の深い意義があるのです。もし人が聖者にならねば救はれないといふことでありましたら、凡夫のためには釈尊の教説は空手形に終るでありませう。
 但しここに注意したいことは、不断といふことは非断といふことと意味が違ふことであります、絶対に断がないのではない、如来の立場に於て悉く衆生の罪業を消滅して下さるのです(法断)。仍(ヨ)つて凡夫の立場からは、断ずるを要しないのです(機不断)。又かうも云へるでしよう、凡夫にとつて断は不可能であるから(自力不断)如来が代つて断じ給ふ(他力断)のであります、これについて法敬房に対する蓮如上人の訓戒は洵に味ふべきものがあります。曰く「一念のところにて罪みな消えてとあるは(他力断)一念の信力にて往生さだまるときは罪はさはりともならず、されば無き分なり、命の娑婆にあらんかぎりは罪はつきざるなり」(註釈版1244頁・池田注)これにて非断煩悩に非ず不断煩悩たるべき旨趣を領解すべきであります。(『正信偈講讃』73~75頁)

 大原は不断=法断=機不断=他力断であるといいます。
by jigan-ji | 2015-05-05 01:02 | 聖教講読
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