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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[126]     2015年 07月 08日
 補遺[78] 3 曇鸞の教え ⅱ 論註釈の功

 正信偈講読[32](2013年8月21日)を補足します。正信偈講読[238]も参照下さい。

【本文】
 天親菩薩論註解 報土因果顯誓願

【書き下し文】
 天親菩薩の『論』(浄土論)を註解して、報土の因果誓願に顕す。

【現代語訳】
 天親菩薩の『浄土論』を註釈して、浄土に往生する因も果も阿弥陀仏の誓願によることを明らかにし、

【先徳の釈】
《六要鈔》
 「天親」以下の四行八句は、『論註』の意に依ってほぼその意を述べる。「論註解」とは、上に引くところの迦才師の釈に見える。(和訳六要鈔一三二頁、宗祖部二七一頁)

《正信偈大意》
 「天親菩薩論註解 報土因果顕誓願」といふは、かの鸞師(曇鸞)、天親菩薩の『浄土論』に『註解』(論註)といふふみをつくりて、くはしく極楽の因果、一々の誓願を顕したまへり。(註釈版一〇三二~一〇三三頁)

【講義】

◎天親菩薩論註解
 「天親菩薩論註解」は【現代語訳】に「天親菩薩の『浄土論』を註釈して」とあります。
 『六要鈔』には、「「天親」以下の四行八句は、『論註』の意に依ってほぼその意を述べる」とあります。『論註』の意とは、「おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり。なにをもつてこれをいふとなれば、もし仏力にあらずは、四十八願すなはちこれ徒設ならん。」(七祖篇一五五頁)と、往相・還相等しく仏力によるとあるを指します。
 「天親菩薩論註解」は、曇鸞が天親の『浄土論』に註釈を施したことを指します。迦才の『浄土論』(大正藏経第四十七巻九七頁)には「注解天親菩薩往生論、裁成両巻。」(「浄土五祖伝」拾遺部上四八〇頁)とあります。
 普門は「この一句(天親菩薩論註解・池田注)の文点」について、「或ひは云ふ。天親菩薩の論の註解。この時、註解の二字、能釈の名となすなり。又或点は、論を註解して、この時また上のごとし。二字能釈の名となす。また点に云く。天親菩薩の論註に解す。この時、解の一字、下の七句に蒙クラし。しかれば六要並びに諸鈔、皆註解と云ふなり。解の字、下の七句にわたる、これを見よ。私の錬磨なり。この義を存す。論註解の三字、文言穏便歟云々。」(『發覆』二〇三頁)と釈しています。さらに、恵空は、「論註解とは、或ひは註解の二字、句頭にあるへし。字法前に云ふ如し。又直に釈題名と為す。此の時ハシテトヨマズ。論註解ニトヨムヘシ。」(『略述』二五頁)と釈しています。普門は「論註解の三字、文言穏便歟」といい、恵空は迦才の『浄土論』のように「註解天親菩薩論」であるべきだといいます。この点について恵然は「蔵字法」「蔵字格」(『會鈔』三〇四~三〇五頁)に言及しています。隨慧は「註解トハ註疏解釈。通塞解締。故ニ註解ト云フ。略シテ論註ト称ス。」(『説約』四〇三頁)と釈しています。
 親鸞はこの「注解」の内容を『高僧和讃』「曇鸞讃」に「天親菩薩のみことをも 鸞師ときのべたまはずは 他力広大威徳の 心行いかでかさとらまし」(註釈版五八三頁)、「論主の一心ととけるをば 曇鸞大師のみことには 煩悩成就のわれらが 他力の信とのべたまふ」(註釈版五八四頁)と和讃し、『浄土論』の「世尊我一心」(七祖篇二九頁)の「一心」を、他力の信心であると明かしています。
 『念仏正信偈』では「天親菩薩『論』註解 如来本願顕称名(天親菩薩の『論』(同)を註解して、如来の本願、称名に顕す。)」(宗祖部四四九頁、註釈版四八七頁)とあります(大原性実『正信偈講讃』二二四頁)。
 曇鸞は天親の『浄土論』を註解しました。その著を一般に『浄土論註』『往生論註』『論註』などと呼びならわしています。しかし親鸞は「真仏土文類」(註釈版三五七頁)にて『註論』、『浄土文類聚鈔』にて「曇鸞菩薩の『註論』」(註釈版四八四頁)と表記しています。さらに親鸞は釈尊の説かれた経は「言」、菩薩の説かれた論は「曰」、人師の説かれた釈は「云」の字を用いていますが、『論註』については「行文類」(宗祖部三五頁)、「信文類」(宗祖部六六頁)、「証文類」(宗祖部一〇四・一〇五頁)や『浄土三経往生文類』(宗祖部五四四・五四五頁)にて「曰」の字を用い、人師である曇鸞を菩薩として敬っています。なお、『論註』を「論」として尊重して扱うのは道綽の『安楽集』(三経七祖部三八七、四二九頁)や源信の『往生要集』(三経七祖部七八二頁)にも見られます(渡辺顯正『正信念仏偈講述』一八四~一八五頁)。
 なお『念仏正信偈』は「天親菩薩『論』註解」の次句は「如来本願顕称名」(宗祖部四四九頁)とあります。この点について恵然は「文類偈は如来の本願称名を顕わす。今偈これを略す。若ししかれば行を闕いて而して信を立てるや。謂ふ。行を闕けるに非ず、唯信と云ふ故に。唯は無外の称の故に。唯の言の中に所信を摂すならくのみ。」(『會鈔』三〇五頁)と釈しています。


[補遺] 『教行信証』の同訓異字―言・曰・云について―
 鳥越正道は『教行信証』において引文を記述する場合に引文を導く「言」「曰」「云」等を総称して〈引文導入語〉と命名しています(『最終稿本教行信証の復元研究』一四六頁)。
 中村元は、この〈引文導入語〉の「言・曰・云」の三文字は、引用文を導く場合に、引用文の種類(経・論・釈)によって使い分けられていることが、以前から指摘されているといい、現行の注釈書、山辺習学・赤沼智善『教行信証講義』と、江戸時代の宗学者、香月院深励の『教行信証講義』の解説を引用しています(中村元「『教行信証』の同訓異字(一)―言・曰・云について―」『教学研究所紀要』第七号)。
 ちなみに、中村は次のように引用しています。

  ここに餘義を述ぶる前に一言せねばならぬことがある。それは我祖が経論釈の文を引き給うについて、経言、論曰、釈云、と言曰云の使いわけを厳重になされていることである。この文字の使い分けは本典六軸中、厳重に守られている。(山辺習学・赤沼智善『教行信証講義』二二八頁)

  曰とは。仏教には言の字。菩薩の論には曰の字。人師の釈には云の字をつかふが定りなり。爾らば、略文類(親鸞著『浄土文類聚鈔』)にはこの差はなきか。略文類には論釈を引くに。共に云の字がつかふてある。これはいかなる訳ぞといふに。ここらがくわしき所で。言曰云の三字で分くるのは。経論釈を一連に並べるときに。これからが菩薩の論。これからが人師の釈と分かる符牒に。言曰云の三字をつかひわけるなり。(香月院深励『教行信証講義』〈仏教大系刊行会編『教行信証』翻刻〉六三四頁)

 その上で、中村は、『教行信証』の引用文の前と自釈部分において親鸞が書き記した「言・曰・云」の用法を詳細に調査し、例外はあるものの、この三文字には次の使い分けがあると指摘しています。

 「言」・・・・①出典を示して「経」を引用する。
        ②「経・論・釈」を問わず「言・・・者」(と言ふは)の形式で文字や語句を叙述対象として         取り上げる。
        ③右の①の場合は「ノタマフ」、②の場合は「イフ」の訓を持つ。

 「曰」・・・・①出典を示して「論」を引用する。
        ②「経・論・釈」を問わず文字や語句を説明叙述の結果、ゆえにそう名づけられることを示す。
        ③右の①②の場合ともに「イフ」の訓を持つ。

 「云」・・・・①出典を示して「釈」を引用する。
        ②右の「言」②、「曰」の②以外の用法で用いる。
        ①右の①②の場合ともに「イフ」の訓を持つ。

 なお鳥越は『教行信証』における「〈引文導入語〉中の言・曰・云使用次第」総数三四五箇所中、その例外箇所は十九箇所、総数の約五・五%であり、そのほとんどは、親鸞がその使用において統一することができなかったためと思われると述べています。また、「化身土文類」にて『末法灯明記』を引用するに当たって「曰」を使用していることから、比較する用例はないが、親鸞が意図的に「曰」を使用した可能性はあり得るといい、『末法灯明記』を「論」として取り扱ったとも考えられるのである、と述べています。(『最終稿本教行信証の復元研究』二一五~二一六頁)
 ちなみに、親鸞は『正信念仏偈』並びに『念仏正信偈』の「偈前の文」において、「作正信念仏偈曰」(宗祖部四三頁)、「作『念仏正信偈』曰」(宗祖部四四七頁)と「曰」の字を用いています。


◎報土因果顕誓願
 「報土因果顕誓願」は【現代語訳】に「浄土に往生する因も果も阿弥陀仏の誓願によることを明らかにし」とあります。
 「報土」とは、法蔵菩薩の五劫思惟の願と、それを成就するための兆載永劫の修行の結果としてできている世界という意味です。聖道の諸師方は弥陀の身土を謬解して化仏・化土と判じたのに対して、弥陀の身土は、法蔵菩薩が煩悩成就の凡夫を必ず救うという願を建てたことが因で、その願が完成して浄土が建立されたことが果であると示されました。
 『浄土論』や『論註』には「報土」の語はありません。弥陀の浄土が報土であると示されたのは道綽です。
 『安楽集』第一大門「三身三土」に、「問ひていはく、いま現在の阿弥陀仏はこれいづれの身ぞ、極楽の国はこれいづれの土ぞ。答へていはく、現在の弥陀はこれ報仏、極楽宝荘厳国はこれ報土なり。」(七祖篇一九一頁)と述べています。善導は『玄義分』に、「問ひていはく、弥陀の浄国ははたこれ報なりやこれ化なりや。答へていはく、これ報にして化にあらず(是報非化)。」(七祖篇三二六頁)と述べ、「おほよそ報といふは因行虚しからず、さだめて来果を招く。果をもつて因に応ず、ゆゑに名づけて報となす。」(七祖篇三二七頁)と述べています。
 「報土」の語を用いたのはすでに『論註』に、「この三種の莊嚴成就は、本四十八願等の清浄願心の荘厳したまへるところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり。」(七祖篇一三九頁)や、「おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり。なにをもつてこれをいふとなれば、もし仏力にあらずは、四十八願すなはちこれ徒設ならん。」(七祖篇一五五頁)と、その因願酬報して出来た浄土であると説き示されていると見て、「報土」の語を用いたと思われます(『深励』一六四頁)。
 「真仏土文類」には「つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなはち、大悲の誓願に酬報するがゆゑに、真の報仏土といふなり。」(註釈版三三七頁)とあり、『唯信鈔文意』には「真実信心をうれば実報土に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。」(註釈版七〇七頁)とあり、『親鸞聖人御消息』には「いまこの安楽浄土は報土なり。」(註釈版七五六頁)とあり、『一念多念文意』の「実報土」の左訓には「アンヤウジヤウドナリ」(宗祖部六一九頁、註釈版六九四頁)とあります。
 隨慧は「報土トハ因願酬報ノ土ナリ。(中略)廣クハ玄義ニ釈スルカコトシ。浄影・天台・等ノ他師、化身化土ノ判釈アルニ依テ、光明大師縷々ニコレヲ弁シタマヘリ。註家(曇鸞・池田注)ノ時コレラノ異論ナキ故ニ、顕ニソノ判釈ナシト云ヘトモ、論ニハ蓮華蔵世界ト名ケ、三種ノ成就ハ願心荘厳スト説キ、註論ニハ「四十八願等ノ清浄願心ノ荘厳シタマヘルトコロナルニヨリテ、因浄ナルガ故ニ果浄ナリ」(七祖篇一三九頁)ト云ヘリ。判シテ報土トシタマフコト分明ナリ。」(『説約』四〇四頁)と釈しています。
 「報土因果」の四字については、報土と因果の二つと見るか、報土の因と報土の果と見るか等々の問題があります(浜田耕生『正信念仏偈の研究』八八頁以下)。今は、衆生が浄土に往生する因と果の意で解釈するのが良いと思います。
 従来、この「因果」は二つの意味で解釈されてきました。一つは、報土建立の因果(因位の願行と果上の三種荘厳)であり、二つには報土往生の因果(往生の因と菩提の果)です。
 普門は、「因果は二義有り。一に報土について因果を論ず。二に衆生得生の因果についてこれを論ず。初めの報土の因果は、因はこれ法蔵願心、浄仏国土の行因なり。果は法蔵願心の剋果なり。故に因果共に一願心に在るゆゑなり。論註、仏土の荘厳を釈する時、上、仏の因位に約してこれを説く、下、その果体に約してこれを釈す。故に因果顕誓願と云ふなり。(中略)次に衆生得生の因果についてこれを論ずとは、それ衆生往生の因は、これ第十八願なり。又衆生得生の果は、第十一願ゆゑなり。論註に云く、おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり。いま的アキらかに三願を取りて義の意を証せん云々。この三願は上に述べる。十八・十一・二十二 しかれば則ち生因これ本願なり。得果本願力なり。」(『發覆』二〇四~二〇六頁)と釈しています。
 ところで、法蔵菩薩が仏になる因果と衆生が往生する因果の関係が、古来より「他作自受」の問題として取り上げられてきました。
 親鸞は「信文類」に「しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。」(註釈版二二九頁)と述べ、さらに、「証文類」に「それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因浄なるがゆゑに、果また浄なり、知るべしとなり。」(註釈版三一二~三一三頁)と述べています。また、『浄土文類聚鈔』には「しかれば、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因浄なるがゆゑに、果また浄なり、知るべし。」(註釈版四八二頁)と述べ、さらに、「しかれば、もしは往、もしは還、一事として如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし、知るべし。」(註釈版四八三頁)と、往還の二回向も「如来の清浄願心の回向成就」であると述べています。
 「顕誓願」とは、誓願とは法蔵菩薩の誓いであり、四十八願の意です。「顕誓願」とは浄土に往生する因も果も阿弥陀仏の誓願にもとづくものであると明かしたという意です。


[補遺] 「他作自受」について
 「他作自受」の問題について、少し考えてみたいと思います。
 仏教は因果の道理を説きます。自因自果、自業自得(自作自受)は因果の鉄則といわれます。親鸞も「自業自得の道理」(『正像末和讃』註釈版六一一頁)と述べています。
 『大乗義章』卷九には「仏法には自作にして他人の報を受くること有ることなく、亦他作して自己の果を受くることなし」(大正大蔵経第四四巻六三六頁)と説いて、業道の正理は「自作自受」であり、「他作自受」「自作他受」のあるべからざることを教えています。
 今問題となる「他作自受」とは、親鸞の他力往生の教えは、仏の方からいえば「自作他受」であり、衆生の方からいえば「他作自受」であり、正しい因果の法則に背くのではないかとの批判を指します。
 この批判に対して村上速水は、次のように述べています。

  煩をいとわず、重ねてこの間の事情を要約するならば、真宗に於ける他力往生義は、(一)法蔵が発願修行して自ら阿弥陀仏という覚体を成ずること(自作自受)、(二)弥陀は正覚の全体を施名して衆生に回向する(廻自向他)、(三)衆生はその果号を領受して、信心の因をもって往生の果を得る(自因自果)、という三つの段階を経て完うされるのである。しかるに他作自受の難を加える人は、法蔵菩薩の発願修行と衆生の往生とを直ちに結びつけて論じているのであるから、批判そのものが論理的欠陥を含んでいるといわなければならないので、『大乗義章』にとくところの他作自受とは、内容的に相違のあることが確認されなければならない。されば真宗の他力往生義は他作自受の難をうけるべき性質のものでなく、それまでも自作自受に非ざるがゆえにいわれるならば、合理的他作自受とでもいうべきであろうか。(『親鸞教義の研究』一八五~一八六頁)

 村上は「真宗の他力往生義」は「合理的他作自受」であるといいます。はたしてこの「合理的他作自受」で、「他作自受」は因果の法則に背くのではないかとの批判に応えたことになるのでしょうか。
 この村上の「合理的他作自受」の見解に対して、佐藤三千雄は「他作自受の問題」(『伝道院紀要』第二〇号)にて、〝名号は仏の名号でありながら衆生が貰い受くべきものだから、貰っても少しも不合理でない。親の財産を子が貰って何がおかしいか〟といった「他作自受」理解は、「他作自受ということの含んでいる問題性を真面目に深めることなく、合理的他作自受というような極めて曖昧な概念をこしらえて、むしろこの問題を回避する」ものであると批判し、さらに「人格的思考」を例示します。

  有的な同一性ではなく、人格的な連帯性のなかにこそ他作自受は成立する。仏と人の間に同一性はない。にもかかわらず、仏は「もののみとなり」給い、衆生との連帯を成就された。これによって私の仏に対する関係は一変し、私の「意識の転換」が始まる。自力から他力へとひるがえる。自作自受的な主体が転換するのである。(佐藤三千雄「教学における思考の問題」、『真宗教学の諸問題』二五頁)

 佐藤は真宗の救済論が「他作自受」であることを否定していません。そうかといって「合理的他作自受」ともいいません。「他作自受」の「思考法」を問題にすべきであるといいます。
 佐藤の指摘は適切であると思います。では「他作自受」との批判に、いかに応えるべきでしょうか。
 村上は、「親鸞教義の一大特色である他力廻向義は、わずらわしい論理の手続きを経て組立てられたものではなく、極めて現実的な自己自身の信仰体験によって直観的に把握せられたものと思われる。自力行の破綻絶望、地獄必定という厳粛な現実の自己の中に、はからずも恵まれた往生成仏の確信。その不思議な出来事の中に、親鸞は廻向法としての阿弥陀仏力を感得したものと考えられる。」(『親鸞教義の研究』一〇七頁)といいます。
 さらに谷口龍男は「親鸞における遇の概念」(『他力思想論攷』九一頁)にて、村上速水の言葉を引用して「体験的直観的に把握されたと思う」と述べています。
 すなわち、親鸞にとっての「他力回向」は、「極めて現実的な自己自身の信仰体験によって直観的に把握せられたもの」(村上速水)であり、「人格的な連帯性のなかに」(佐藤三千雄)、「体験的直観的に把握された」(村上速水・谷口龍男)ものに思います。
 かつて源哲勝は「体験の極致においては自作他作の論は泯滅する」(「浄土業因に於ける自作・他作の問題に就いて」『龍谷学報』第三一〇号)と述べていますが、あえて、この「体験的直観」「体験の極致」を分析すれば、二つの意味があるように思います。
 その一つ(A)は、「師法然」=「弥陀の化身」との把握です。この意味での「体験的直観」は、あくまでも「自作自受」です。しかし二つ(B)に、「師法然」が「弥陀の化身」と把握されたとき、本願成就文の「至心回向」を「至心に回向せしめたまへり」と読みかえねばならなくなり、この読みかえを必然とする「体験的直観」は「他作自受」で表現せざる得ないのではないかと思います。
 なお、「他作自受」の詳細については、村上速水『親鸞教義の研究』、佐藤三千雄「他作自受の問題」(『伝道院紀要』第二〇号)、同「教学における思考の問題」(『真宗教学の諸問題』所収)、河智義邦「親鸞浄土教批判論の諸相―「他力回向論」批判を中心に―」(『日本浄土教の形成と展開』)等を参照して下さい。


[補遺] 他力救済と自己責任
 〝他力救済は無責任思想である〟という批判があります。すなわち、他力回向は他業自得であり、因果応報という自己責任を否定するものである。阿弥陀仏は、どんな極悪人であっても極楽に往生させてくれるということになると、因果応報は帳消しになってしまう。だから、他力救済は、殺人だろうが、なんだろうが、やりたいことをやってかまわないという、無責任な危険思想である(宮元啓一『インド死者の書』一九九七年)、という批判です。
 さらに、〝他力主義〟は、自己の知性と責任を放棄させ、〝造悪無碍〟や日本特有の無責任主義を生み出す源になる。現代社会において、まず何よりも必要なものは、独立した個人が、自らの知性によって、考え疑い判断し、そして最後に、自らの責任において行為することを説く〝自力主義〟である(松本史朗『法然親鸞思想論』二〇〇一年)とも主張されます。
 たしかに、親鸞在世当時、親鸞の説いた他力の教えを曲解して、造悪無碍に走った門弟が存在したと思われます。しかし、親鸞の『教行信証』「信文類」所引の『論註』八番問答の第五問答中の「なんぢただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法なきより生ずることを知らず。」(註釈版二九八頁)や、同「信文類」所引の『観経四帖疏』抑止門の「已造業・未造業」の議論(註釈版三〇二~三〇三頁)、さらに、『親鸞聖人御消息』の「薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。」(註釈版七三九頁)などからも、親鸞は、〝造悪無碍〟を批判こそすれ、肯定することなど有り得ないことは容易に知られます。
 『正像末和讃』には「自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける」(註釈版六一一頁)と和讃しています。
 他力救済が曲解されると無責任思想と誤解されるおそれはありますが、他力救済は、決して無責任思想ではありません。
 なお、「自力主義・他力主義」に関しては、松本史朗『法然親鸞思想論』、袴谷憲昭『法然と明恵』(一九九八年)、宮元啓一『インド死者の書』、安藤光慈「『唯信鈔』と『唯信鈔文意』―松本史朗氏の論考について―」(『仏教から真宗へ』)等を参照して下さい。
by jigan-ji | 2015-07-08 01:02 | 聖教講読
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