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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[128]     2015年 07月 12日
 補遺[80] 3 曇鸞の教え ⅲ 往還回向の益

 正信偈講読[33](2013年8月22日)を補足します。
 正信偈講読[240]も参照して下さい。

◎必至無量光明土
 「必至無量光明土 諸有衆生皆普化」の二句は還相の益を明かします。「必至無量光明土」は【現代語訳】に「はかり知れない光明の浄土に至ると」とあります。
 「必至」について、『尊号真像銘文』には「「必」はかならずといふ、かならずといふは定まりぬといふこころなり、また自然というこころなり。」(註釈版六四五~六四六頁)とあります。『六要鈔』には「「必至」等とは、かの土に生まれて、広く衆生を利することが自在であることをいうのである。」(和訳六要鈔一三二頁、宗祖部二七一頁)と釈しています。
 隨慧は「必至ノ一句ハ往相ノ果。諸有ノ一句は還相ノ果ナリ。勦説(月筌『勦説』四一頁)ニ二句ミナ還相ノ果ニ約シテ、必至ノ句を成上起下ト釈スルハ未詳。今謂フ。必至等トハ上ノ得至蓮華蔵界ノ二句ニ応ス。即往相ノ妙果ナリ。必トハ決定ノ義。又銘文ニ云フ。必トイフハ自然トイフコヽロナリト。信心ノ正因ステニ定レハ、決定シテ自然ニ大涅槃處ニ至ヲ、必至無量光明土トイフナリ。」(『説約』四〇九頁)と釈し、僧叡は「「必至」等とは(中略)もし往還を以てこれを言へば則ち上の三句は総じて往相を明し、今は還相を明す。「註」に云く、彼の菩薩人天の所起の諸行とはこれなり。」(『要訣』四八一頁)と釈しています。
 「無量光明土」とは、『大経』異訳の『平等覚経』「往覲偈」(三経七祖部一〇〇頁)にある語です。『平等覚経』では遍く諸仏浄土の名とされていますが、弥陀は諸仏の本師本仏、諸仏の本師法王ですから、善導は『往生礼讃偈』に「十方諸仏の国は、ことごとくこれ法王の家なり」(七祖篇六九二頁)といい、『般舟讃』には「本国・他方また無二なり ことごとくこれ涅槃平等の法なり 諸仏の智慧もまた同然なり 到る処ことごとくこれ法王の家なり」(七祖篇七五四頁)とあり、諸仏の浄土は悉く弥陀の所領であることを示されています(『講述』一九七頁)。
 『大経』には「安楽国」「安養国」と記され、『阿弥陀経』や『観経』には「極楽」とあります。しかし、諸仏の浄土は弥陀の所領という意味から、より普遍的な仏国名を求めたのではないでしょうか。「真仏土文類」には「つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。」(註釈版三三七頁)と述べています。
 「弥陀ノ真土」を「無量光明土」と名づけた理由について、隨慧は「上ノ章ニ蓮華蔵ト云フ。今光明土ヲ以テ釈ストシルヘシ。ソノユヘハ、蓮華蔵ノ名ハ諸仏ノ報土ニ通ズ○傍三世厳ト説カ故弥陀別願所成ノ報土ヲ無量光明土ト名ク。故ニ弥陀ノ蓮華蔵ヲ無量光明土ト名クトシラシムルモノ乎。」(『説約』四一〇頁)と釈し、深励は、「弥陀ノ真報身ノ光明ニ従ヘテ名ヲエテ、論ニハ尽十方無碍光如来ト称シ、釈ニハ不可思議光如来ト名クルナリ。竜樹ノ易行品ニ、弥陀ヲ無量光明慧トホメテアル。ソコテ真土ヲ又光明ニ従ヘテ名テ無量光明土ト云。弥陀ノ真仏真土トモニ光明ニ従ヘテ、名ヲ得ルトノ玉フトキニ、弥陀ノ浄土ヲ無量光明土ト名ルコトハ、吾祖不共ノ名目ナリ。他流ニハ云ハヌコトナリ。」(『深励』一七一頁)と述べています。つまり、深励は龍樹の『易行品』に阿弥陀仏を「無量光明慧」(七祖篇一五頁)といっているから、「弥陀ノ浄土」も、同じ光明の文字を以て「無量光明土」と表現したというわけです。


◎諸有衆生皆普化
 「諸有衆生皆普化」は【現代語訳】に「あらゆる迷いの衆生を導くことができる」と述べられた」とあります。恵空は「諸有等は還相出門の益」(『略述』二六頁)と釈しています。
 「諸有」とは、もろもろの有という意味です。有とは迷いの世界のことです。「衆生」とは、あらゆるいのちあるものの意です。『一念多念文意』には「「諸有衆生」といふは、十方のよろづの衆生と申すこころなり。」(註釈版六七八頁)とあり、『浄土三経往生文類』の「諸有」の語に「あらゆる」(宗祖部五四四頁)と訓があります。
 「皆普化」とは、すべてを平等に救済するということです。化すとは教化する、済度するの意です。隨慧は「化ハ教化。普ク一切ノ群生ヲ教導化益ス。」(『説約』四一〇頁)と釈しています。『正信念仏偈』の「天親讃」には「遊煩悩林現神通 入生死薗示応化」と「応化」とありますが、「曇鸞讃」は「普化」とあります。なお普門は「皆普化」の「化」について、「化は転なり。悪を転じて善となす。凡を転じて聖となす云々。」(『發覆』二〇九頁)と釈し、月筌は「化とは化転なり、『大部四教義』に「化転有三、一転悪為善、二転迷為悟、三転凡為聖」と、今は其義なり。」(『勦説』四一頁、『帯佩』五五七頁も同)と釈しています。
 親鸞はこの還相の益としての「皆普化」の意を、曇鸞の『讃阿弥陀仏偈』に依って『浄土和讃』「讃阿弥陀仏偈讃」に「安楽無量の大菩薩 一生補処にいたるなり 普賢の徳に帰してこそ 穢国にかならず化するなれ」「安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかへりては 釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし」(註釈版五五九~五六〇頁)、『高僧和讃』「天親讃」に「願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ すなはち大悲をおこすなり これを回向となづけたり」(註釈版五八一)、「曇鸞讃」に「還相の回向ととくことは 利他教化の果をえしめ すなはち諸有に回入して 普賢の徳を修するなり」(註釈版五八四頁)、『正像末和讃』「三時讃」に「菩提に出到してのみぞ 火宅の利益は自然なる」(註釈版六〇二頁)などと和讃しています。
 『浄土文類聚鈔』には、「あきらかに知んぬ、大慈大悲の弘誓、広大難思の利益、いまし煩悩の稠林に入りて諸有を開導し、すなはち普賢の徳に遵ひて群生を悲引す。しかれば、もしは往、もしは還、一事として如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし、知るべし。」(註釈版四八三頁)と、往相・還相の利益は如来廻向の成就によると明かしています。


[補遺] 「還相社会学」は可能か
 宮城顗はその講義録にて、「曽我先生は一貫して、還相回向とは個人の歩みの上にはないと言われる。仏道を歩むことが、個人の歩みである限り、そこには往相、還相は成り立たん。曽我先生は還相社会学という言葉まで使っておられます。一つの社会生活という事実の上に還相という問題があるんです。個人の生活・信心であるならば、そこに往相、還相ということはないとおっしゃっておいででございます。」(大阪教区教化センター『同和・靖国問題と真宗Ⅲ』一九八七年六月三十日、一四頁)と述べています。(池田 真「還相回向論の検討(二)」参照。龍谷大学大学院信楽ゼミ編『大学院信楽ゼミ論集 親鸞の道 特集・教学と現代』一九八九年、所収。なお曽我量深の「還相社会学」の出拠は、『曽我量深説教随聞記1』[法蔵館、昭和52年刊、藤代聡麿編]43頁。昭和24年の講演とあります。)
 また戸次公正は、「私は親鸞のいう往還回向とは、あの世とこの世を往復することではないと思います。それは浄土という世界観によって、生きることの本来性に目覚めた者が、どこまでもこの社会的現実の矛盾や苦悩から逃げずに関わりを続けていく姿のことだと考えるのです。」(戸次公正『正信偈のこころ 限りなきいのちの詩』二〇〇一年、一二九頁)と述べています。
 さらに八木晃介は、次のように述べています。

 私が本書において展開する主張の基調は、宗教的な解脱や救済の論理が真に人間解放につながるかどうか、親鸞を合わせ鏡にしながらそれを考えるところにあります。(中略)さらにいっそう強調すべき点は、この往相と還相とのいずれもが、来世においてではなく、ほかならぬ現世においてなしとげられるべき浄土実現の道筋であると親鸞がかんがえていた事実です。(中略)浄土を命終後の世界とかんがえるのは本質的に親鸞的ではなく、否、むしろ反親鸞的でさえあると私は理解しています。(中略)つまり、信心を得て正定聚の位置について、臨終後に仏になるという全然リアリティのない話ではなく、まさに現世において獲信して、たとえば法蔵菩薩の誓願第一願にあるように「国に地獄・餓鬼・畜生」をなくすという衆生利益のための取り組みに立ち上がり、あるいは『大無量寿経』巻下にある「仏の遊履(各地を遊行すること)したまふところの国邑(国や各地)・丘聚(集落)、化を蒙らざるはなし。天下和順し日月清明なり。風雨時をもつてし、災厲起らず、国豊かに民安くして、兵戈用ゐることなし」のように、災厲(天災や疫病)もなく、兵戈(戦争)もない状況づくりに参画する、それが還相の現実的な意味であるということなのです。(中略)具縛の凡愚・屠沽の下類に学んで、具縛の凡愚・屠沽の下類として以外の生きようがないと自己同定した親鸞が、還相廻向の視座において、「主上臣下」の正統性を否定し徹底糾弾する、その視点はやはり『教行信証』から読みとる以外に読みとりようがないということなのです。(八木晃介『親鸞 往還廻向論の社会学』二〇一五年、二一・二八・三七・三二二・三二四頁)

 このような「還相」理解に対して、伝統的には還相の利益は現生の利益ではなく、証大涅槃の悲用として当来の利益であると解釈してきました。
 大原性実は、次のように述べています。

 わが宗門の内外に亘り、近時入信後の生活を「還相」の名目に於て談ずる傾向があり、殊にその中には、滅度の益をも信一念に談ずべしとする者がある。思うにこれら信後還相を主張する理由は、従来真宗信仰が、極めて消極的な引込み思案的傾向を表示するのみで、積極的活動的、社会的実践の面を打ち出していない恨みがあることは、恐らく真宗信仰の還相摂化の面、即ち社会的実践の動態の面の認識と把握の欠乏による結果であるという点にある。かくの如き還相の活動相を、此土に於て、入信者に於て語らんとする、代表的な考え方の一つによれば、還相を彼岸の証果の上に談ずることは正統安心に於ける常談であるが、これは大乗仏教の上求菩提に対する下化衆生たる済度衆生の菩薩行を不問にし、結局小乗的偏見に堕在するものであるというのである。(中略)これと同様に、その滅度証果の悲用たる還相を死後に於て談ずることは、無上の妙行たる下化衆生の菩薩行を、全く架空的に観念的に取扱ふものである。即ち証果の受動的な大悲を受容する一面のみを固執して、動的一面たる受けて出で、出でゝ実践する面を無視したものであり、その結果は、現生に於ける吾等の菩薩行たる絶対行を不能にし、吾等をして小乗的残滓に止めしめる、正定聚的相対大乗に堕せしめ、現実的歴史的生活と仏教生活(即念仏生活)とを遊離せしめて、大乗仏教に於ける最高価値の表示たる不二の法門を妨げる結果となっているというのである。更に真宗正意として、不体失往生を語りつゝ、平生業成の正定聚位を以てこれに当て、滅度位の現証を意味せしめないのは、滅度をもつて肉体死を条件とするという、妄執に妨げられているからであつて、これ亦絶対大乗観に徹底を欠くからに外ならぬと難ずるのである。故にかゝる見解より、真宗が絶対大乗に徹底する為には、正定聚位を還相位へ転進せしむべきである。こゝに始めて小乗的残滓より転じて、絶対大乗へ脱皮することが出来、又現生に於て滅度を証り得るものであり、而してその滅度による還相への現行こそが、真実の絶対大乗へ脱皮する方法となるのであると述べている。かゝる考方によれば真宗に於て信一念に正定聚に住し、(不体失往生)彼の土に於て証果を開く(体失往生)という法門は、全く相対大乗の域を出でざる小乗仏教の残滓を止むるものに過ぎないことゝにより、従つて大乗仏教としての真面目を発揚する為には、此土現生に於ける獲信(絶対死)が即得往生であつて、それがそのまゝ滅度の証果でありと語り、この入滅土位より起動して還相利他の活動ありと談ぜねばならぬ。かような獲信即滅度、滅度即還相の法門に転開発展せしめねば親鸞教の真面目は見出されないことになるわけである。以上の如き信後還相の思想は、近時殊に若き知識人等の間に弄れるようであるが、その論理は寧ろ禅等に於ける法相を、哲学若しくは宗教哲学的オブラートに包み、以て真宗を批判せるものであつて、言語は新しいけれども、結局、古来伝えられる一益達解、滅度密益の異義の範疇を一歩も出ていないのである。(大原性実『真宗異義異安心の研究 真宗教学史研究第三巻』一九五六年、二八三~二八六頁)

 さらに、三木照国は、次のように述べています。

 還相のはたらきについて・・・現実において他者へのかかわりを強調しようとして、何とか「還相のはたらき」を実人生で「せねばならぬ」とすすめる人がある。しかしこれに対して宗祖はどう思われるだろうか。まずなぜ還相を浄土へ生まれてからの利益とされるのであろうか(『証文類』のように)を考えてみなければならぬ。浄土教は『歎異抄』に「浄土の慈悲といふは、念仏していそぎ仏になりて大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生にいかにいとをし不便とおもふとも存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。・・・」と仰せられているように浄土に生まれる目的を「自由自在の他者救済」にあると教えられる。往生を願い欲する欲生心の訓に「成作為興の心なり」と出して成仏作仏する衆生済度のはたらきを為し還相の活動を興すにあると示されるのもこのためである。「他者へのかかわり」を叫びながら所詮「小慈小悲もなき身」であり、みずからを愛するところより脱しきれぬ自分の姿を如来のみ光の前に照らし出されてその身の現実を知るならばどうして「還相」をこの世で語り得ようか。(三木照國『三帖和讃講義』一九七九年、二七二~二七三頁)

 伝統的に宗学では獲信後、直ちに還相の利益を語ることを「信後還相の異義」としてきました。大原や三木の還相回向解釈は、この伝統的な解釈に依拠しています。
 「還相回向」という言葉の再解釈・読み込みとしては「還相社会学」は大変興味深く思います。しかし、「往還回向」と「社会学」とを結び付ける「還相社会学」は、学問としては可能でしょうか。
by jigan-ji | 2015-07-12 01:02 | 聖教講読
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