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補遺[91] 6 源信の教え ⅲ 悪人称仏と大悲常照
正信偈講読[41](2013年10月14日)を補足します。 ⅲ 悪人称仏と大悲常照 【本文】 極重悪人唯稱佛 我亦在彼攝取中 煩悩障眼雖不見 大悲无倦常照我 【書き下し文】 極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。 【現代語訳】 「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」と述べられた。 【先徳の釈】 《六要鈔》 「極重」等とは、同じく『集』の下の本、大門第八念仏証拠門の中で十文を出すうち、四に『観経』に依って文を出し、解釈する「極重悪人無他」以下の四言四句の要文の意である。「我亦」等とは、同じく『集』の上の末、大門第四正修念仏の章段の中で五門あるうち、中の末、第四に観察門を明かすのに三つある。それらは別相観、総想観、雑略観である。その雑略観にかの『観経』の「一一光明遍照」等の文を引いて、その下に解釈する「我亦在彼摂取」以下の四言六句二十四字の意である。(和訳六要鈔一三四頁、宗祖部二七二~二七三頁) 《正信偈大意》 「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」といふは、真実信心をえたるひとは、身は娑婆にあれどもかの摂取の光明のなかにあり。しかれども、煩悩まなこをさへてをがみたてまつらずといへども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身を照らしましますといへるこころなり。(註釈版一〇三七頁) 【講義】 ◎極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我 「極重悪人唯称仏」以下四句は【現代語訳】に、「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」と述べられた。」とあります。 この四句は、『往生要集』「念仏証拠門」の、「四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。」(七祖篇一〇九八頁)と、同「正修念仏門」の「雑略観」の「またかの一々の光明、あまねく十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。」(七祖篇九五六~九五七頁)の二文を合わせて四句としています。 「極重悪人」とは下々品を指し、「唯称仏」とは「仏の名を称えよ」とすすめています。『選択集』「讃嘆念仏章」には、「しかのみならず下品下生はこれ五逆重罪の人なり。しかるによく逆罪を除滅すること、余行の堪へざるところなり。ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。」(七祖篇一二五七~一二五八頁)と述べています。 親鸞は「化身土文類」に、「しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。」(註釈版三八一頁)と述べ、さらに『高僧和讃』「源信讃」には、「極悪深重の衆生は 他の方便さらになし ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ」(註釈版五九五頁)と和讃しています。ちなみに月筌は「極重悪人」について『涅槃経』を引き「四重禁ヲ犯スト及ビ五無間ヲ極重悪ト名ヅク」(『勦説』五二頁)と釈しています。 「唯称仏」について、慧琳は「問。唯称仏ハ但口称ニシテ信心ナシ。何ソ攝益ヲ得ン。答。汎爾ノ口称ニ非ス。信具ノ行ナリ。故ニ宗家十声ノ称仏ヲ釈シテ。十願十行具足ト云。豈無信ノ口称ナランヤ。」(『帯佩』五七九~五八〇頁)と述べています。 「我亦」等とは、『往生要集』「正修念仏門」の「雑略観」(三経七祖八〇九頁、七祖篇九五六~九五七頁)の文に拠ります。月筌は「我とは師の自称にしてこゝろ他の信者を兼ぬ、故に亦と云ふ。」(『勦説』五二頁)と、深励は「我トハ源信ナリ。亦トハ、外ノ念仏行者ヘ対シテ亦トノ玉フ。」(『深励』一九三頁)と釈しています。「摂取」とは、如来が「極重悪人」を、どんなことがあっても放したり、捨てたりしないとの意です。『観経』「真身観」には、「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。」(註釈版一〇二頁)とあります。 「煩悩障眼雖不見」とは、煩悩の雲に眼をさえぎられて、如来の大慈悲のはたらきを見ることができない、との意です。親鸞は『高僧和讃』「源信讃」に、「煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」(註釈版五九五頁)と和讃しています。 普門は「煩悩障眼」を「内著煩悩」「外著煩悩」で釈し(『發覆』二四一頁)、また、僧叡は「「煩悩」等とは疑を釈す。」といい、「不見」の「見」は「肉眼」でなく「心見」であると釈しています(『要訣』五〇九頁)。 「大悲無倦常照我」は「依経段」の「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」(註釈版二〇四頁)と同趣旨です。つまり、雲、霧があって、太陽のすがたは見えないけれども、昼と夜を誤ることはないし、ふたたび道をふみ迷うこともない、と譬喩で語られています。 親鸞は『往生要集』「雑略観」の「我亦在彼摂取之中煩悩障眼雖不能見大悲無倦常照我身」(三経七祖八〇九頁、七祖篇九五六~九五七頁)の文を、『尊号真像銘文』にて、「「我亦在彼摂取之中」といふは、われまたかの摂取のなかにありとのたまへるなり。「煩悩障眼」といふは、われら煩悩にまなこさへらるとなり。「雖不能見」といふは、煩悩のまなこにて仏をみたてまつることあたはずといへどもといふなり。「大悲無倦」といふは、大慈大悲の御めぐみ、ものうきことましまさずと申すなり。「常照我身」といふは、「常」はつねにといふ、「照」はてらしたまふといふ。無礙の光明、信心の人をつねにてらしたまふとなり。つねにてらすといふは、つねにまもりたまふとなり。「我身」は、わが身を大慈大悲ものうきことなくして、つねにまもりたまふとおもへとなり。摂取不捨の御めぐみのこころをあらはしたまふなり。「念仏衆生摂取不捨」(観経)のこころを釈したまへるなりとしるべしとなり。」(註釈版六六二~六六三頁)と釈しています。 なお、『往生要集』「雑略観」の文は「我亦在彼摂取之中煩悩障眼雖不能見大悲無倦常照我身」とありますが、親鸞は『正信念仏偈』において「我亦在彼摂取中」「煩悩障眼雖不見」「大悲無倦常照我」と、「之」「能」「身」の三字を省略しています。これについて恵然は「我亦等は、集雑略観の文。今、かの之能身の三字を略し、七言の偈となす。」(『會鈔』三一五頁)と、また慧琳は「集ハ八字句、今ハ七言、故ニ之能身ノ三字ヲ略ス。」(『帯佩』五八〇頁)と解説しています。
by jigan-ji
| 2015-08-13 01:02
| 聖教講読
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