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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[154]     2015年 10月 15日
 補遺[106]  第二編 本文講義 Ⅱ 依経段

 正信偈講読[7](2013年6月17日)を補足します。


 Ⅱ 依経段  一 弥陀の願意  1 法蔵の発願

◎覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
 「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪」は【現代語訳】に「仏がたの浄土の成り立ちや、その国土や人間や神々の善し悪しをご覧になって」とあります。
 この二句は、『大経』の「ここにおいて世自在王仏、すなはちために広く二百一十億の諸仏の刹土の天・人の善悪、国土の粗妙を説きて、その心願に応じてことごとく現じてこれを与へたまふ。時にかの比丘、仏の所説を聞きて、厳浄の国土みなことごとく覩見して無上殊勝の願を超発せり。」(註釈版一四~一五頁)に拠ります。
 『選択本願念仏集』(以下『選択集』と略記)「本願章」所引の『大阿弥陀経』には、「「その仏(世自在王仏)すなはち二百一十億の仏の国土中の諸天・人民の善悪、国土の好醜を選択す。〔法蔵比丘の、〕心中の所欲の願を選択せんがためなり。楼夷亘羅仏[ここには世自在王仏といふ。] 経を説きをはりて、曇摩迦[ここには法蔵といふ。] すなはちその心を一にして、すなはち天眼を得、徹視してことごとくみづから二百一十億の諸仏の国土のなかの諸天・人民の善悪、国土の好醜を見、すなはち心中の所願を選択して、すなはちこの二十四の願経を結得す」と。」(三経七祖部一三六頁、七祖篇一二〇四頁)とあります。すなわち、法蔵菩薩の天眼力徹視により、諸仏の浄土の建立の因、諸仏の浄土に往生する因を覩見しました。『平等覚経』にも「法蔵菩薩、便ち其心を台にして、則ち天眼を得て、徹視して悉く自ら見二百一十億の諸仏国の中の諸天・人民の善悪、国土の好醜を見て、則ち心の所欲の願を選びて」(三経七祖部七七頁)とあります。親鸞は『浄土和讃』「大経讃」に、「南無不可思議光仏 饒王仏のみもとにて 十方浄土のなかよりぞ 本願選択摂取する」(註釈版五六六頁)と和讃しています。
 なお、親鸞は『正信念仏偈』で「覩見諸仏浄土因」(註釈版二〇三頁)と述べていますが、『大経』には「諸仏如来の浄土の行」(註釈版一四頁)とあります。恵空はこの「諸仏浄土の因」について、「問う、経文に因の字無し。如何。答。経に二百一十億の諸仏の妙土、清浄の行を摂取すと云う。この行即因也。」(『略述』八頁)と釈し、さらに深励は、この「浄土の因」を「浄土ノ因行」(『深励』五八頁)と釈しています。
 月筌は「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪」は「見土の相」、「建立無上殊勝願 超発希有大弘誓」は「発願の相」と釈し、更に「覩は眼見にして、見は慧見なり」(『勦説』三頁)と釈しています。
 深励は「国土人天之善悪、上ノ句(「覩見諸仏浄土因」・池田注)ニハ、諸仏浄土ノ因行ヲ挙ケ、此句ニハ諸仏国土ノ果相ヲ示ナリ。果相ト云ハ、諸仏果上ノ相ト云コトナリ。国土トハ、諸仏ノ国土、依報ナリ。人天トハ、諸仏国土ノ正報ナリ。経ニハ天人之善悪トアリ。大阿弥陀経上(五右)諸天人民之善悪トアリ、覚経一(七右)同之コレハ正報ナリ。コレ依正并挙ルナリ。善悪トハ好悪ト云コト、勝劣アルコトナリ。因行種々ナル故ニ、果上ノ国土モイロイロアリ。爾レハ此句ハ果相ヲ示ストミルヘシ。」(『深励』五八頁)と釈し、さらに「経テハ天人トアルヲ、元祖ニ依テ人天トノ玉フ(『選択集』七祖篇一二〇四頁・池田注)」(『深励』五八頁)と述べています。


◎建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
 「建立無上殊勝願 超発希有大弘誓」は【現代語訳】に「この上なくすぐれた願をおたてになり、世にもまれな大いなる誓いをおこされた。」とあります。
 この二句は、『大経』の「時にかの比丘、仏の所説を聞きて、厳浄の国土みなことごとく覩見して無上殊勝の願を超発せり。その心寂静にして志、所着なし。一切の世間によく及ぶものなけん。五劫を具足し、思惟して荘厳仏国の清浄の行を摂取す」と。」(註釈版一四~一五頁)、及び『如来会』の「広くかくの如きの大弘誓願を発しき。皆すでに成就したまえり。世間に希有にしてこの願を発し、已に実の如く安住す。種々の功徳具足して、威徳広大清浄の仏土を荘厳せり。」(三経七祖部一九五頁)の文に拠ります。
 若霖は「超発希有」を釈して、「諸仏常途の願に超越して、凡夫をして横に二種の生死を超えしめんと欲するがゆゑに超発と云ふ、是の如きの弘誓は前後に聞を絶つ、故に希有と云ふ」(『文軌』二五頁)といい、「行文類」の「選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無礙の大行なり」(註釈版一九〇頁)、「信文類」の「大信心は、すなはちこれ長生不死の神方(中略)希有最勝の大信(中略)証大涅槃の真因」(註釈版二一一頁)、さらに「信文類」の「大願清浄の報土には品位階次をいはず、一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。」(註釈版二五四頁)を引き、「此等の文に拠って験して知る」と述べています。
 隨慧は「超発」を、「超発トハ一ツニハ能発ノ人ニ約ス。地上ノ発願地前ニ超過スルカ故ニ。一ツニハ所発ノ願ニ約ス。弥陀偈経(『後出阿弥陀仏偈』・池田注)曰「発願シ諸仏ニ超(ママ)ヘテ二十四章ヲ誓フ」(『浄土真宗聖典全書』三経七祖篇付録三頁・池田注)ト。経ニハ「我建超世願」(三経七祖部一三頁・池田注)ト云フ。義寂等ノ意ハ地前世間ニ超ヘ、地上出世ノ願ヲ発ス、故ニ超世ト云フ。故ニ述義記云ク。イマダ四十八願ヲ発サズ。先ズ世間有漏ノ発心ヲ発シ、五劫思惟シテ以後、証発心ヲ発ス。故ニ「我建超世願」ト曰フ。是レ初義ノココロナリ。『唯信鈔文意』ニイハク。「超世ハ、餘ノ仏ノ御誓ヒニ勝レ給ヘリトナリ」(註釈版七〇四頁)。是レ後義ノココロナリ。」(『説約』三三五頁)と釈しています。
 隨慧は、「超発」には二つの解釈があるといい、その一つは、「地上ノ発願、地前ニ超過スル」「能発ノ人」の立場からの解釈です。そして、二つには、「餘ノ仏ノ御誓ヒニ勝レ給ヘリ」という「所発ノ願」の立場からの解釈です。『後出阿弥陀仏偈』は、『後出阿弥陀仏偈経』とも言われます。隨慧の引文中では「発願超(、)諸仏」とありますが、『真宗全書』所収本(第六巻二四九頁)には「発願逾(、)諸仏」、並びに『浄土真宗聖典全書』所収本(三経七祖篇付録三頁)には「発願喩(、)諸仏」とあります。隨慧は「能発ノ人」の立場から、意図的に「超」に改めたものと思われます。
 仰誓は「建立は、良賁仁王疏(良賁の仁王経疏・池田注)下之一(三十二)云く。「初起を建と名づく、終成を立と為す。」」(『夏爐』九一頁)と釈し、さらに「超発は、刊(刊定記・性海)に二義アリ。曰く本則ち久遠実情の古仏。迹則ち賢(三賢・池田注)を超え地(初地・池田注)を登り願を発し示す。弥陀偈経(『後出阿弥陀仏偈』・池田注)曰く。「発願し諸仏に踰えて、二十四章を誓ふ」(『浄土真宗聖典全書』三経七祖篇付録三頁・池田注)」(『夏爐』九二頁)と釈しています。すなわち、久遠の昔に成仏した阿弥陀仏(本門の弥陀)が、衆生を救うためのてだてとして、法蔵菩薩が発願修行し、十劫の昔に成道した(迹門の弥陀)、「法蔵菩薩ハ果後ノ方便」(『夏爐』九一頁)であるから「超発」だというわけです。
 さらに深励は、若霖の「無上殊勝願」とは「前の『諸仏浄土因』を承けて、暗に寿光二願を叙す、即ち六法の中の報仏報土の因なり」であり、「希有大弘誓」とは「此の句は前の『国土人天善悪』を承けて、暗に第十七、十八、十一の願を叙す(中略)何をか仏因とする、名号(第十七願)、信心(第十八願)是なり、何をか仏果とする、必至滅度(第十一願)是なり」(『文軌』二四~二五頁)との釈、仰誓の「おおよそ本願を解するに、廣・略・中の三義有り。廣は通じて四十八を取る。中は五願を取る。略は第十八を取る。」(『夏爐』九三頁)との釈を批判して、次のように述べます。

  文軌(『文軌』二四~二五頁・池田注)ニハ、初ノ无上殊勝願ト云ハ十二十三ノ願、後ノ希有大弘誓ト云ハ十一十七十八ノ三願ト云テ、イロイロニアテテ弁ス。私ニ存スルニ、祖師ノ同文同軌ニ拠有テ无上殊勝願ト云ヘハ、十二十三ノコトニナリ、希有ノ大弘誓トイヘハ十一十七十八ニアタルト云由カアレハ承知スレドモ、末学ノ了簡テ訳ナイコトハ承知セヌ。名号ノコトヲ无上ノ功徳ト云、信心ノコトヲ无上ノ信心ト云、必至滅度ノ証ノコトヲ无上涅槃ト云。爾レハ十七十八十一ヲ行信証ニ配当スレハ、三願ヲ无上大願ト云義カツク。詮スル處何レカ无上何レカ希有ト分テミルハ依用ナラヌ。无上殊勝超発希有ヲ分タハ、私記及要解又ハ見聞等ノ古キ末書ナリ。コレハ惣ジテハ四十八願、別シテハ十八願ト云。是カ穏テヨシ。弥陀ノ本願ハ、ドノ願テモ諸仏ニナヒユヘ殊勝ノ本願ト云モノヲモテ来ラスハ超世希有ハ立ヌナリ。爾レハ、二句ニ開タハイカント云ニ、コレハ二句ニ開テ无上ト云、希有ト云、超発ト云トスルハ、弥陀選択本願ヲ讃嘆セン為ニ、言ヲ重子玉フ。例セハ、行巻ニ選択摂取之本願、超世希有之勝行等ト四句ヲモテ讃シ、信巻ニハ大信者則是長生不死之神方、欣浄厭穢之妙術等ト、十二句ヲモテ信心ヲ嘆スル。今モ讃嘆ノ為ニ二句ニ開タナリ。(『深励』六二~六三頁)

 つまり深励は、若霖の「何レカ无上何レカ希有ト分テミル」釈は「末学ノ了簡」で「承知」できないといい、「惣ジテハ四十八願、別シテハ十八願ト云。是カ穏テヨシ」と述べ、「二句ニ開テ无上ト云、希有ト云、超発ト云トスルハ、弥陀選択本願ヲ讃嘆セン為ニ、言ヲ重子玉フ」と主張しました。
 こうした「建立無上殊勝願 超発希有大弘誓」の二句に関する若霖や深励の解釈は、その後、平成七年度の本願寺派の夏安居においても、先学によって、「無上殊勝の願、希有の大弘誓とは、広く言えば四十八願であり、要につけば行文類の偈前の文に示されるが如く、第十七・十八・十一・十二・十三の五願であり、要中の要につけば第十八願である。」(『講述』五五頁)との釈にも継承されています。
 さらに仰誓は、「今偈に殊勝願と大弘誓と言ふは、但、文を綺互するのみ。文類偈に云く。「超発殊勝本弘誓 建立无上大悲願」(宗祖部四四七頁)。涔(文類聚鈔蹄涔記・法霖)云く。「上に誓と言ひ、下に願と言ふ。其の体、異ること無し。また但、文を綺互するのみ。」大好。刊定二字分釈。恐非。下の偈に「光闡横超大誓願」(宗祖部四五頁)と曰ふ。文類偈は二句に為して曰く。「光闡横超本弘誓 演暢不可思議願」(宗祖部四四九頁)。当に知るべし。異ること無し。」(『夏爐』九三頁)と釈しています。
by jigan-ji | 2015-10-15 01:02 | 聖教講読
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