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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[156]     2015年 10月 23日
 補遺[108]  第二編 本文講義 Ⅱ 依経段

 正信偈講読[8](2013年6月22日)を補足します。


 Ⅱ 依経段  一 弥陀の願意  2 光明の摂化

2 光明の摂化

【本文】
 普放无量无邊光 无礙无對光炎王 清淨歓喜智慧光 不斷難思无稱光 超日月光照塵刹
 一切群生蒙光照

【書き下し文】
 あまねく無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、超日月光を放ちて塵刹を照らす。一切の群生、光照を蒙る。

【現代語訳】
 本願を成就された仏は、無量光・無辺光・無礙光・無対光・炎王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光とたたえられる光明を放って、広くすべての国々を照らし、すべての衆生はその光明に照らされる。

【先徳の釈】
《六要鈔》
 「普放」以下の三行六句は、つぶさに十二光仏の名を挙げて、その利益を讃嘆し、一々の勝徳は第五巻の中に興の釈を引かれているから、よくその釈を見るべきである。「塵刹」とは、『経』(大経巻上)に「いまし東方恆沙の仏刹を照らし、南西北方・思惟・上下もまた照らす。」と説かれている。すでに十方を照らし、微塵刹土にどうして遺余があろうか。したがって今の讃に「照塵刹」というのである。(和訳六要鈔一二四頁、宗祖部二六六頁)

《正信偈大意》
 「普放無量無辺光」といふより「超日月光」といふにいたるまでは、これ十二光仏の一々の御名なり。「無量光仏」といふは、利益の長遠なることをあらはす。過・現・未来にわたりてその限量なし、数としてさらにひとしき数なきがゆゑなり。「無辺光仏」といふは、照用の広大なる徳をあらはす。十方世界を尽してさらに辺際なし、縁として照らさずといふことなきがゆゑなり。「無礙光仏」といふは、神光の障礙なき相をあらはす。人法としてよくさふることなきがゆゑなり。礙において内外の二障あり。外障といふは、山河大地・雲霧煙霞等なり。内障といふは、貪・瞋・痴・慢等なり。「光雲無礙如虚空」(讃弥陀偈 一六二)の徳あれば、よろづの外障にさへられず、「諸邪業繋無能礙者」(定善義 四三七)のちからあれば、もろもろの内障にさへられず。かるがゆゑに天親菩薩は「尽十方無礙光如来」(浄土論 二九)とほめたまへり。「無対光仏」といふは、ひかりとしてこれに相対すべきものなし。もろもろの菩薩のおよぶところにあらざるがゆゑなり。「炎王光仏」といふは、または光炎王仏と号す。光明自在にして無上なるがゆゑなり。『大経』(下)に「猶如火王 焼滅一切 煩悩薪故」と説けるは、このひかりの徳を嘆ずるなり。火をもつて薪を焼くに、尽さずといふことなきがごとく、光明の智火をもつて煩悩の薪を焼くに、さらに滅せずといふことなし。三途黒闇の衆生も光照をかうぶり解脱を得るは、このひかりの益なり。「清浄光仏」といふは、無貪の善根より生ず。かるがゆゑにこのひかりをもつて衆生の貪欲を治するなり。「歓喜光仏」といふは、無瞋の善根より生ず。かるがゆゑにこのひかりをもつて衆生の瞋恚を滅するなり。「智慧光仏」といふは、無痴の善根より生ず。かるがゆゑにこのひかりをもつて無明の闇を破するなり。「不断光仏」といふは、一切のときに、ときとして照らさずといふことなし。三世常恒にして照益をなすがゆゑなり。「難思光仏」といふは、神光の相をはなれてなづくべきところなし。はるかに言語の境界にこえたるがゆゑなり。こころをもつてはかるべからざれば「難思光仏」といひ、ことばをもつて説くべからざれば「無称光仏」と号す。『無量寿如来会』(上)には、難思光仏をば「不可思議光」となづけ、無称光仏をば「不可称量光」といへり。「超日月光仏」といふは、日月はただ四天下を照らして、かみ上天におよばず、しも地獄にいたらず。仏光はあまねく八方上下を照らして障碍するところなし。かるがゆゑに日月に超えたり。さればこの十二光を放ちて十方微塵世界を照らして衆生を利益したまふなり。「一切群生蒙光照」といふは、あらゆる衆生、宿善あればみな光照の益にあづかりたてまつるといへるこころなり。(註釈版一〇二四~一〇二六頁)


【講義】

◎普放無量無辺光 無礙無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹
 「普放無量無辺光」から「一切群生蒙光照」までが十二光の内容です。すなわち、法蔵菩薩が五劫思惟・兆載永劫の修行によって阿弥陀仏となり、十二の功徳のある光明を放って、あまねく一切の世界を照らし、一切の衆生をその光明の力によって成仏させることを示す、光明摂化の一段です。
 「普放無量無辺光 無礙無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹」は【現代語訳】に「本願を成就された仏は、無量光・無辺光・無礙光・無対光・炎王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光とたたえられる光明を放って、広くすべての国々を照らし」とあります。
 隨慧は「普放」の解釈に二義あると言い、「一ニハ放光不一故ニ普放ト云フ。二ニハ焰境広多故ニ普放ト云フ。勦説ハ後義ヲ存ス。故ニ云フ。「時處ヲ隔テザルガ故ニ普放(ママ)ト云フナリ」(『勦説』六頁)。文軌ハ前義ヲ用フ。故ニ云フ。「菩薩成仏ノ時ニ異光一時ニ顕現スルヲ普放ト云フ。」(『文軌』二六頁)ト。今且ク勦説ニ順ス。普ノ字ハ照塵刹ニカカル。」(『説約』三四〇頁)と釈しています。
 以下の十二光は『大経』の「このゆゑに無量寿仏をば、無量光仏・無辺光仏・無礙光仏・無対光仏・焰王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。」(註釈版二九頁)に拠ります。この十二光は、如来の証の内容とその力用(読み=りきゆう、意味=はたらき)をあらわすもので、十二光は、その如来の光明の徳相を表します。仰誓は「普放の二字、能照の相を明す。照塵刹は所照の境広を明す。中間の三十字、まさしく十二光の名を列す。(中略)十二光、各十二の徳を具す。」(『夏爐』九六頁)と釈しています。
 親鸞は「真仏土文類」に『涅槃経』を引用して、「「光明は不羸劣に名づく。不羸劣とは名づけて如来といふ。また光明は名づけて智慧とす」と。」(註釈版三四三頁)と述べています。また、『浄土和讃』「讃弥陀偈讃」に、「智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ」(註釈版五五七頁)と和讃し、『唯信鈔文意』では「世親菩薩(天親)は「尽十方無礙光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す。誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すは、たねにむくひたるなり。この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無礙の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無礙光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず、無明の闇をはらひ悪業にさへられず、このゆゑに無礙光と申すなり。無礙はさはりなしと申す。しかれば、阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。」(註釈版七一〇頁)と釈しています。親鸞は光明を、阿弥陀仏の智慧のはたらき(=力用)であると解しています。
 この光明のはたらきは、『大経』の「それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず。もし三塗勤苦の処にありて、この光明を見たてまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし。寿終りての後に、みな解脱を蒙る。無量寿仏の光明は顕赫にして、十方諸仏の国土を照耀したまふに、聞えざることなし。」(註釈版二九~三〇頁)や、『論註』の「「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。「かの如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明は十方世界を照らしたまふに障礙あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除くこと、日・月・珠光のただ空穴のなかの闇をのみ破するがごときにはあらず。「かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲す」とは、かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。」(七祖篇一〇三頁)から知られましょう。さらに曇鸞は「その光、事を曜かすにすなはち表裏を映徹す。その光、心を曜かすにすなはちつひに無明を尽す。光、仏事をなす。」(七祖篇一一三頁)と釈し、光明を仏の力用と解しています。光教は「凡夫四萬由旬ノ外ヲ見ルコト。眼ノ力ニアラス。日光ノ照スカ故ニ。還テ日光ヲ見ルナリ。今摂取ノ光益ヲ知ルコト。光照ニ催フサレテ光照ヲ知ルナリ。」(『聞書』一四頁)と、光明の力用を明かしています。
 また、『親鸞聖人御消息』に「「真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる 不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度をさとらしむ」(同・五九)と候ふ。「滅度をさとらしむ」と候ふは、この度この身の終り候はんとき、真実信心の行者の心、報土にいたり候ひなば、寿命無量を体として、光明無量の徳用はなれたまはざれば、如来の心光に一味なり。このゆゑ、「大信心は仏性なり、仏性はすなはち如来なり」と仰せられて候ふやらん。」(註釈版七六〇~七六一頁)と、「寿命」が「体」であり、「光明」は「徳用」、すなわち、「すぐれたはたらき」であると釈しています。
 「真仏土文類」には「光明無量の願」「寿命無量の願」の両願が標挙に出されていますが、「つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。」(註釈版三三七頁)と、「体」の「寿命」よりも、「用」(=徳用)である「光明」をもって仏・仏土を表現しています。これは、「体」の「寿命」よりも、「相」及び「用」を表わす「光明」が、仏・仏土の内容を説明し表現するのに具体的であり、かつ端的にして直接的なるが故であろうといわれます(大原性実『真宗学概論』八六頁)。
 この弥陀如来の光明のうちに包摂された存在を、蓮如は『御文章』(二帖一〇)に「これによりて、弥陀如来の遍照の光明のなかに摂め取られまゐさせて、一期のあひだはこの光明のうちにすむ身なりとおもふべし。」(註釈版一一二四頁)と述べています。先学はこの「光明のうちにすむ身」を「信心獲得者の宗教的実存」「光明-内-存在」と解しています(武田龍精『親鸞と蓮如』一五七・二二〇頁)。
 なお、若霖は「弥陀の妙果は色なく形なし、無形無色に即して能く光明の相を示す、光明は唯一にして徳用に随うてこの異号あり、菩薩成仏の時に異光一時に顕現するを普放と云ふ、平等に徧く曯すを普照と云ふ」(『文軌』二六頁)と釈しています。
by jigan-ji | 2015-10-23 01:02 | 聖教講読
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