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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[158]     2015年 11月 02日
 補遺[110]  第二編 本文講義 Ⅱ 依経段

 正信偈講読[156](2015年10月23日)を補足します。

 Ⅱ 依経段  一 弥陀の願意  2 光明の摂化

 「真仏土文類」には「光明無量の願」「寿命無量の願」の両願が標挙に出されていますが、「つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。」(註釈版三三七頁)と、「体」の「寿命」よりも、「用」(=徳用)である「光明」をもって仏・仏土を表現しています。
 藤岡覚音(一八二一~一九〇七、本願寺派勧学)は、この「光明」をもって仏土を表していることについて問答し、次の五つの理由を挙げています。

 問云、真土を明し給ふに光明に約して釈したまふは云何。答云、一に曰く、下化身土に簡対して以て身土不二の真土なることを顕さんが為の故に、云何といふに、仏身も不可思議光如来と光明を以て仏名を挙げ、土も亦無量光明土とあれば身土不二なること亦の一字に着目すべし、化身土は融歴不融の土なれば真土に反顕すべし。二に曰く、仏身土を建立し給ふは衆生をして証入せしめんが為の慈悲より起るを以て、特に光明に約して土を明し給ふ、光明は慈悲の司なればなり。三に曰く、仏を以て上の難思議往生に応じ、土を以て上の還相に応示す、何となれば、難思議往生といふは生即無生、往生即成仏の妙証なるが故に難思議往生とはいふなり、所謂『和讃』に「こゝろもことばもたえたれば、不可思議尊を帰命せよ」といへる此意なり、次に土を以て上還相の益用に応示するとは、謂く、無量光明土とは諸仏の浄土を指して無量光明土といふ、還相の人十方諸仏の浄土に至るが故に、二十二願に「度脱一切遊諸仏国」と誓ひ、下所引の『平等覚経』には「速疾超便可到安楽国之世界、至無量光明土、供養於無数仏」といへり、可到安楽等の八字は弥陀の浄土を指し、至無量光明土等の十二字は是諸仏の浄土を指すなり。四に曰く、諸仏浄土を奪つて盡是法王家の絶対門の義を顕さんが為なり、能居の仏絶対の故に所居の土豈に絶対に非ずして何ぞや、絶対の審かなること光明の用に如かず、特に光明を以て土名としたまふ。五に曰く、相承に依りたまふが故に、謂く、『易行品』弥陀章に仏を挙げて「無量光明慧、身如真金山」といへり、今此仏に準じて土亦無量光明土と『易行品』の意を開示し給へり、彼品には土名を別開したまはざるを以て、仏身の方より推して無量光明土とのたまふ。(『広文類論題』「光寿二徳」、『真宗叢書』第一巻七七九~七八〇頁)

 さらに先学は、「如来も浄土も光明として顕はされて、寿命は隠されてゐる。それには何かの意味がなくてはならない。思ふにそれは光明も寿命も理想的人格内容であえるとはいへ、特に光明の方が理想としての意義を有つからであらう。」(金子大栄『親鸞教の研究』二四八頁、一九四八年)、「恐らくこれは、体の寿命よりも、相及び用を表わす光明が、仏の内容を説明し表現するのに具体的であり、且つ端的にして直接的なるが故であろう」(大原性実『真宗学概論』八六頁、一九六〇年)、「この理由について義山は『教行信証摘解』(真宗叢書九、三九頁)に、「寿命は是れ体にして、光明はその相用なり」と解釈している。光明を寿命無量の常住仏身のもつ力用と見ているからであろう(論題「光寿体徳」として種々に宗学者はこれを論じている)。」(早島鏡正「浄土教における光明-特に親鸞をめぐって-」『勝又俊教博士古稀記念論集 大乗仏教から密教へ』一二三二頁、一九八一年)と解しています。
by jigan-ji | 2015-11-02 01:02 | 聖教講読
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