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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
「自他の是非を定む」     2015年 11月 17日
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「自他の是非を定む」

1、自他と生仏
 浄土真宗の「悪人正機」「他力本願」「往生浄土」などの教えは、衆生と仏という「生仏の関係」での論議が中心になります。衆生論、如来論、名号論などは、まさしく生仏関係での論議です。
 この生仏関係の論議から、原発や改憲の是非などの今日的な課題への対応を演繹することは難しいと思います。なぜなら原発や改憲の是非は、生仏関係よりも、自己と他者という「自他の関係」において「自他の是非を定む」(『歎異抄』後序・註釈版八五二頁)課題となるからです。
 生仏関係での如来廻向の信心を、御同行御同朋と共に味わう分には、おそらく誰からも批判されないでしょう。しかし、原発や改憲の是非などをめぐって、「自他の是非を定む」となれば、事情はかわります。尋ねられもしないのに自分から反対を叫ぶ必要はない。もし、尋ねられても、誰からも批判されない正論か、右にならえの無難な意見だけを言う、というのも一つの方法です。しかし、早晩、原発や改憲の是非などをめぐって、「自他の是非を定む」国民投票となるでしょう。その時に考えればいい、では遅いように思います。今から考えておく必要があると思います。

2、自他関係を《どう生きるか》
 浄土真宗の教えに生きる念仏者として、原発や改憲の是非をどう考えるべきかという問題は、生仏関係に依拠しつつ、自他関係を《どう生きるか》という課題になります。しかし、これまでの仏教学や真宗学は、生仏関係において《どうして往生するか》の議論が中心であり、自他関係を《どう生きるか》は二次的なテーマでしかなかったように思います。そもそも《どう生きるか》は、宗教のテーマではないという考えもありましょう。
 この念仏者として生仏関係に依拠しつつ、自他関係を《どう生きるか》という課題については、従前、二つの潮流があるように思います。それは、戦後の歴史学に依拠した立場と、宗学における報恩行の立場です。
 戦後の歴史学に依拠した立場とは、教学理解に歴史的視点を導入すべきだという主張です。すなわち、生仏関係に依拠して自他関係を生きるということは、常に歴史的現実を対象化し、状況に対して批判的に生きることである、という立場です。いわば「世をいとふ」立場といえましょう。
 宗学における「報恩行」の立場には種々の見解があるようです。

3、桐渓順忍師の「報恩行」理解
 自他関係を《どう生きるか》を課題とした時、宗学における「報恩行」の影響には大なるものがあります。その中でも、自他関係を視野に入れた「報恩行」理解の一つとして、本願寺派勧学寮頭(昭和44年4月1日、勧学寮寮員就任。昭和54年5月11日、寮頭就任。昭和60年10月4日死亡退任)を勤めた桐渓順忍師の意見を、『親鸞はなにを説いたか』(1964年初版、教育新潮社)より紹介します。

 隣の人、私以外の人と私との関係について二つの見方があるようであります。一つは私と同じ立場に立つ人間で、私と同類のものであり、私たちの「たち」のなかにおさまる隣人観がありましょう。これが普通の隣人の見方だといっていいでしょう。ところが、親鸞聖人の隣人観にはもうひとつの見方があるのであります。それは私一人を救うために、浄土からあらわれてくださった還相の人とみるものであります。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」といわれるものはそれであります。自分が還相の人だと、憍慢になることはつつしむべきことでありますが、隣人を還相の人とあおいで見ることは、むしろ宗教的には深いものが感じさせられるのであります。隣人を諸仏の化身とみる場合には、隣人の口からでる称名は諸仏の称名といってよいのではないでしょうか。(p205~p206)

 親鸞聖人は、一面では称名念仏の往生といいながらも、一面では称名報恩を説かれたのであります。(中略)報恩の第一は如来の意志にしたがい、かなうことであり、如来のお喜びになるようにすることが、もっとも報恩の義にかなっているのではないでしょうか。(p210~p211)

 自分で教えていながら「如来の御もよほしで念仏している」と考えられるから「わが弟子」とはもうさないのであります。(p217)

 三仏三随順というのは、釈尊の仏教に随順し、諸仏の証成の仏意に随順し、阿弥陀如来の仏願に随順するから、釈迦、諸仏、弥陀の三仏の仏教、仏意、仏願に三随順するから三仏三随順といい、このひとを真仏弟子というのであります。信心の行者は、弥陀の本願を信じているから、釈尊の教えにしたがい、諸仏の証成(まちがいないと証明する)の意志にもしたがうものであるから、真の仏弟子であるといわれたのであります。(p249)

 凡夫が衆生を救う活動(利他行)を還相廻向ということには、注意しなければならないものがあります。それは他の人のうえに還相の活動をみとめ、隣の人が衆生救済の活動をしているのを還相の活動とし、還相廻向だというには、問題もあるが、それは許されてよいでしょう。しかし、自分のうえに、還相廻向の活動をみとめることは、許されないことでありましょう。(中略)如来の活動が私を通じて動いてくださるという思想であれば許されるかも知れぬが、私の活動が還相廻向だとは考えられないのであります。他の人のうえの問題は、のちにふれるところがありますが、私のものとしてはいってはならないものであります。(p257)

 浄土真宗の信仰生活に関する議論は、古来、助正論といわれ、行信論とともに複雑であり、論議の多い問題であります。行信論はどうして往生するかの問題であり、助正論は信後の生活の根底は何かの問題でありますから、信仰者としては、もっとも大切な問題であるから十分注意し、論議されたのであります。(中略)この問題の中心は、信後の報恩生活は、人間の理性が中心になって行われるのか、如来廻向の名号によって行われるのかという問題にしぼって考えることができるようであり、報恩生活も、人間の理性が中心になり、如来廻向の名号は、その理性を動かすにすぎないものだと考えるか、報恩生活は、ことごとく如来廻向の名号の活動であると、考えるかの問題におさまるもののようであります。(p260)

4、「世をいとふ」「報恩行」で対応可能?
 桐渓師は「隣人を還相の人」「諸仏の化身」とみる見方があるといい、また、「如来の意志にしたがい、かなう」こと、それが「報恩の義」にかなっているといいます。
 さらに、「信心の行者は、弥陀の本願を信じているから、釈尊の教えにしたがい、諸仏の証成(まちがいないと証明する)の意志にもしたがうものであるから、真の仏弟子である」ともいいます。
 そして、「隣の人が衆生救済の活動をしているのを還相の活動とし、還相廻向だというには、問題もあるが、それは許されてよいでしょう。」と述べています。
 桐渓師の「隣人を還相の人」「諸仏の化身」との見方は、親鸞の師法然に対する尊崇の念をイメージして語られているものと思います。さらに、「隣の人が衆生救済の活動をしているのを還相の活動とし、還相廻向だというには、問題もあるが、それは許されてよいでしょう。」との意見は、「問題もあるが」との条件付きとはいえ、留意すべき意見に思います。
 浄土真宗の教えに生きる念仏者として、原発や改憲の是非をどう考えるべきかという課題について、「世をいとふ」立場からは、常に歴史的現実を対象化し、状況に対して批判的に生きることが要請されています。そして「報恩行」の立場からは、他者を「還相の人」と見、「如来の意志」にしたがった「真仏弟子」の生き方が要請されていることが知られます。
 はたして、生仏関係に依拠しつつ、自他関係を《どう生きるか》という課題に対して、「世をいとふ」や「報恩行」の立場と方法でもって対応可能なのでしょうか。一考を要します。
by jigan-ji | 2015-11-17 01:02 | つれづれ記
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