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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[192]     2016年 03月 22日
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 補遺[144] 闇仏教に対する明仏教

 了祥は「本師源空明仏教」の「明仏教」を、以下のように釈しています。
 なお、文中に差別的な表現がありますが、歴史的資料として原文のまま引用しますのでご留意下さい。

 まず始めに明仏教というこれが何でもない三字のようだが甚だ思し召しのあるとみえる三字。それはすべてものごとは裏へ一つかえしてみるとその義がわかることがある。この明仏教を裏へ返すというと闇仏教になりて仏の教意に迷って闇いということになる。故に明仏教は闇仏教に対すると見て、その闇仏教というは何のことじゃというに、大総序に「尓れば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし」(聖典一四九頁・『真宗聖典』池田注・以下同)如来出世の本懐たる浄土真宗の教をそしりて「行に迷い信に惑い、心昏く識りすくなく、悪重く障多きもの」(同)とある。これが真宗の四法にまぬけに迷うもの。さて『信巻』の別序に「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す。定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し」(同二一〇頁)とある。これは別して真宗の信証に迷うてくらいもののこと。さて『化身土巻』の終りに「諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし」(同三九八頁)とある。これからみると浄土真宗の四法にあだをなし死罪流罪にあわせる坊主も俗ももろともに如来真実の教意、仏の真宗の四法に皆迷うて昏い盲人ども、この仏教に闇いものに対して真宗興立の大祖をここに明仏教とほめ、次に真宗教証興片州と仰せられたにちがいない。現在『御本書』(『教行信証』池田注)の前後に四法に昏く迷う者があげてあって、元祖を明仏教の、真宗の興立の祖師とほめるは闇仏教に対する明仏教。ときにそこにまた深い謂れのあるというは、まず前後にかくの如き迷うじゃの昏いじゃのとあまりにきびしい仰せられ方のようなが、そこが上にも弁ずるこの『御本書』ご制作は一度ならず二度目まで。並榎の竪者定照が根本となって念仏にあだを結ぶのときその真宗念仏にあだするもの、それは『法事讃』の終り(下巻)に、前に出世本懐をあげて後に五濁増時多疑謗(聖全①六〇五頁)とそれをそしるものをかくの如きの生盲闡提の輩と、めくらものどもにしてある。その根本は『十往生経』に弥陀をそしる報いをあげて、まずこの世にあって聾・盲人・唖なんどの報いをうけ、未来に地獄におちて八万劫中その苦悩をうけるとある。これ念仏真宗誹謗の者を昏い盲人という仏説。それに対して仏教、真実の出世本懐の真宗を見開いた元祖を明仏教とほめる。そこに大切の中の大切あるはもとこの『正信偈』即ち『顕浄土真実文類』、明仏教と真宗と一にすると明仏真宗となる。その真宗は即ち真実の義。これに依って明仏教真宗と顕浄土真実と全く同じ。さて教証はもとより教行信証の略、それでみると顕浄土真実教行信証がぞろりとみな元祖の下に出してある。しかれば顕浄土真実教行信証とある、これ吾祖の私にあらず、まことに元祖上人。またこれが無理か、見たがよい。『教巻』の最初に浄土真実の往相回向の教行信証じゃとある。その浄土真宗を「真宗興立の大祖」と元祖になされたからは顕浄土真実教行信証は根本は元祖にありと顕わすのが吾祖の御意に相異ない。かくの如く眼を開いてみると古人の解し方皆粗い。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―源空・源信篇―』五〇~五二頁、二〇〇〇年五月十日)
by jigan-ji | 2016-03-22 01:02 | 聖教講読
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