人気ブログランキング | 話題のタグを見る

浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[200]     2016年 05月 01日
 補遺[152] 「独明」の「独」とは―古今楷定の視点と出世本懐の視点―
 
 正信偈講読[36](2013年9月1日)、[133](2015年7月25日)を補足します。

 『正信念仏偈』の多くの解説書には「善導独明仏正意」の「独明」の「独」は、七高僧中の他の六祖に対するのではなく、古今の聖道諸師に対する「独」と、「古今楷定」の視点から解釈しています。しかし、了祥は独自の「出世本懐」の視点から、次のように述べています。

善導独明仏正意等、この初めの一句についてはじめ弁じたところ。深草の『見聞』から三論の学風へ選んで善導の釈体を定めたまではよけれども、この初の句へかかりての弁がちと了簡がちごうたによってそこを弁じなおさねばならぬ。これが文は解すとも(文を解せば)、済んでしまう程のことなれどもその思召について古来の学者皆難儀をするところで、善導が独り仏の正意に明らかなというについて、先ず『六要鈔』は『選択集』の終りに浄土の祖師を選んで、ただ善導一師に依るというを引いて、そこがぐにゃぐにゃとして七祖の外の諸師にえらぶやら七祖の中でまたえらぶやら訳もろくに知れぬように書いてある。その外の末註はみな七祖の中でえらぶではない。唯、浄影・天台等の諸師にえらぶのだと弁じきってある。『帯佩記』もまずこの意。そこで学寮などで法談をするに禁題とて讃題にするなという文のあるなかで、この善導独明がその一で法談の讃題にさえ出させぬほどにやかましいこの一句。よって先に弁じたと落ちつきはかわらぬが、ここはなま半かに解してはおかれぬで、次第を立てて否応のいわれぬように止めをさしておかねばならぬ。それが先ず仏の正意といえば善導ではしれた弘願のこと。その弘願他力は善導ばかりではない、曇鸞は他力の親方。天親は本願力の根本。七祖みな弘願他力をいう人だから善導ばかり仏の弘願他力に明らかなとはいわれぬ。そうかと思えば七祖並べた真ん中に独明といえば善導独りに限ったこと、独明の言に善導に限っていてこころは七祖みなにあるで、そこで古来の学者がもやもやするところ。これがここに限らずものごとはその大体の目がただ散ると何もかも迷うて散るもので、先に弁じた如く、如来の出世本懐ということ。吾祖にはもっぱらあり、元祖にもそこそこあると、元祖までは仏の出世本懐を推し立てたもうというところまでは古来の学者もいうことだ。その元祖のもとは『般舟讃』はまだご覧なされぬで『法事讃』の文によって善導の釈で『略要文』には出世本懐の別の一章が出てあり、勢観の『隨聞記』にも『法事讃』の文で出世本懐を仰せられてあると、善導が本懐のもとだと、気がついてみれば龍樹天親曇鸞道綽どこにも出世本懐のことはない。善導にばかり(ある)のじゃによってなる程体は弘願なれども仏の出世本意といいたてたは善導ひとりじゃと、出世本懐のもとの善導じゃということが知れれば迷うものはない。そこが知れぬによって古来まごついたもの。よって私の了簡、弘願は七祖みないえども、それを仏の出世本懐じゃとはじめていうたが善導ゆえに独明仏正意と讃歎すると見定めるが私の了簡。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―善導篇―』一一~一二頁)

 多くの解説書のように「仏正意」を「古今楷定」の視点から解釈すれば、「独明」の「独」は、古今の聖道諸師に対すると解釈すべきでしょう。しかし、了祥のように、「弘願は七祖みないえども、それを仏の出世本懐じゃとはじめていうたが善導」と「出世本懐」の視点から解釈すれば、「独明」の「独」は、七高僧中の他の六祖に対する「独」と解釈することも可能に思います。了祥は、また、「善導独明の一句は(中略)善導ばかりが釈迦諸仏出世の本懐の正意を明かしたと標するこころ」(『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―善導篇―』一四八頁)とも釈しています。
 しかし「善導讃」八句の内容は『観経』の意であり、その意味からすれば「独明」の「独」は、「古今楷定」の視点から解釈したほうがよいのではないかと思います。
by jigan-ji | 2016-05-01 01:02 | 聖教講読
<< 伝灯奉告法要参拝の御案内 正信偈講読[199] >>