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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[222]     2016年 08月 08日
 補遺[174] 信楽教学の私的理解(1)

 信楽峻麿の教学理解の特徴は、二点あるように思います。
 その一つは「信心」とは「めざめ体験」であり、その「めざめ体験」による、「人格主体の確立」という真宗信心理解です。この「人格主体の確立」は、二葉憲香の「普遍主体の確立」に通ずる発想に思います。そして、その二つは「阿弥陀仏は私の心に宿っている」という阿弥陀仏理解です。
 すなわち、「めざめ体験」における「人格主体の確立」という真宗信心理解であり、当然、その阿弥陀仏理解も〈仏と私〉という二元論ではなく、「主客一元論」となります。(信楽峻麿『親鸞はどこにいるのか』2015年参照)
 こうした信楽峻麿の真宗信心・阿弥陀仏理解の特徴は、碧海寿広の指摘を私的に単純化していえば、《知情意の統合→「人格」形成》という宗教論に依拠したものであるといえましょう。
すなわち、碧海は姉崎正治(1873~1949)の宗教論における「人格と宗教」に関する姉崎の『宗教学概論』の一文を引用し、その内容を、「知性と情緒と意志という三つの側面をもち、それぞれがしばしば矛盾をきたす人間の心が、完全に統合された「人格」となり満ち足りている状態が宗教的意識にほかならず、そしてその状態の達成を求めて人が同一化しようとする至高の存在が、すなわち「神」である。宗教における超越性とは、「人格」の統合という心的安定を希求する人間の衝動の向かう先に感得される、「最高無限の理想」なのである。」(碧海寿広『近代仏教のなかの真宗』2014年、126~127頁)と解説しました。同著での碧海の指摘を、私的に単純化して、《知情意の統合→「人格」形成》という宗教論と把握することも可能に思います。
 碧海の指摘によれば、こうした「人格」概念に依拠した《知情意の統合→「人格」形成》という宗教論は、加藤玄智(1873~1965)、姉崎正治(1873~1949)、西田幾多郎(1870~1945)の宗教論にうかがわれるそうです。
 さらに碧海は、この「人格」というキーワードが宗教論から仏教史学に取り入れられて、村上専精(1851~1929)の「大乗非仏説」の主張になると指摘しています。
 すなわち、「釈尊は人間だ。村上はそう断言する。だが普通の人間ではない。彼はその「人格」において凡人をはるかに越えている。」(同133頁)というわけです。
 事実、村上は『仏教統一論 第一編大綱論』(明治34年7月27日)の「余論」「仏身に対する鄙見」にて、「孰れにしても、各仏陀論は理想論の開展にあらざれば、人格論の開展ならん、故に事実の仏陀は釈迦一人にして、其他の諸仏諸菩薩は理想の抽象的形容なるのみ(中略)釈迦を論じて人間なりとし、又仏身を論じて此釈迦以外に具体的なるものあることなし、所謂報身仏なるものは、畢竟理想界の抽象的形容に過ぎざるものと断定せり」(454~456頁)と述べています。そして「凡例―明治34年10月再版の日―」に、「教理眼を離れ、歴史眼を以て見る(中略)余は非仏説と言ふも非仏意と言ふ者にあらず」(4頁)と記しています。
 信楽峻麿の真宗信心理解は《知情意の統合→「人格」形成》という宗教論に依拠するものであり、その阿弥陀仏理解も、いわば曽我量深の「法蔵菩薩阿頼耶識」論に通じる「主客一元論」であるといえましょう。(続)
by jigan-ji | 2016-08-08 01:02 | 聖教講読
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