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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[225]     2016年 08月 14日
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 補遺[177] 信楽教学の私的理解(4)

 信楽峻麿に先んじて杉紫朗が《知情意の統合》に関する問題意識を抱いていたことを窺いました。杉においては《「人格」形成》への言及はありませんでしたが、この《「人格」形成》については、遊亀教授(1908~1997、龍谷大学教授、伝道院長)が「宗教の真実性」の考究において言及しています。
 遊亀は「宗教の真実性」は、「その宗教がどのように人間そのものの生き方を規定するか、という点に求められるべきであろう」と、次のように述べています。

 宗教の真実性が問われるとすれば、その真実性は絶対者の在り方や、その神学の超越的論理に求めるべきではない。むしろその宗教がどのように人間そのものの生き方を規定するか、という点に求めるべきであろう。どんなに救済の論理が整備されても、また絶対者の全智全能が明かにされたとしても、それが人間の現実的な在り方に関係することがなかったならば、それは人間を疎外した超越的世界の論理に終るであろう。宗教は超越的世界の出来事ではなくて、人間の生そのものを根拠ずけるものでなければならぬ。宗教の論理は上からの論理ではなくて、下からのそれでなければならぬ。なによりもまず人間そのものが問われ、人間の現実的な在り方が問われて、そこから絶対者への通路がひらかれるのである。
 いま、親鸞の宗教において、とくにこの点がふかく注意され、反省されなければならぬ。親鸞自身においては、まず自己自身の人間が何よりも出発点であり、また最後の帰着点でもあつた。彼において仏教とは人間がいかに生きるかを解決するものとして受けとられた。自己の人間的現実をひっさげて仏教的法と対決し、そこに自己の生きる道を発見したのである。ところが彼の体験した真実が、やがて教権化されるにしたがって、いつの間にか彼の宗教経験は教義として受容されるようになったのである。これは外部的には浄土真宗という宗派の開祖とみなされる道をたどったのであるが、内面的には彼の宗教体験が神学として組織されるに到つたのである。もちろんこのことは親鸞の場合にかぎったことではない。今日の既成宗教はみな同じような経過をだとって、そこに宗派が形成されたのであるから、いわば歴史的必然とでもいうべきであったかも知れない。ところが、そこに実は一つの盲点がつくられたのである。生々しい宗教経験が色あせた教義となるにつれて、いつの間にか人間そのものが疎外されて、超越者の論理がものものしく表面に出てくるのである。ミネルバの梟が飛びたつときは、いつでも現実には黄昏がせまっている。(遊亀教授『仏教倫理の研究―日本仏教の倫理形成ー 』昭和36年11月20日、399~400頁)

 「宗教の真実性」は、「その宗教がどのように人間そのものの生き方を規定するか、という点に求めるべき」であり、親鸞においては「仏教とは人間がいかに生きるかを解決するものとして受けとられた」といいます。
 そして「人間の自己完成」「人間形成」と「人間愛の限界」「人間的慈悲の限界」について、次のように述べています。

 彼が聖道の慈悲に対して浄土の慈悲を出したことは、二つの慈悲を比較したのではなくて、前にもふれたように、聖道の慈悲という倫理的立場に対して、浄土の慈悲という超越的宗教的立場をしめしたのである。倫理の限界は倫理の立場にたつかぎり分からない。人間の自己完成はつねに無窮の道であって、そこに倫理が永遠の道として人間形成の指標となるのである。ところがその向上の道に限界をみるのは、別の次元にたつときでなくてはならない。人間関係の相対的方向が、仏―人間の超越的絶対的方向に転回されたとき、そこに「この慈悲始終なし」という人間愛の限界が知られるのである。したがってこの慈悲「始終なし」という親鸞の言葉は、聖道の慈悲、つまり人間的慈悲の有限性を、仏の大慈悲から比較していったもので、決して人間的慈悲の価値を貶下した言葉ではない。人間的慈悲は人間関係にたつかぎり、それ自身絶対的価値をもつものであり、またそれゆえにこそ、聖道的立場からは、それが自己超越の根拠とみなされるのである。成仏の根拠は、人間的慈悲の可能とその絶対価値におかれたのである。ところが親鸞が歎異抄において、聖道の慈悲と浄土の慈悲とを、並べもち出したことは、前者を否定して、後者をみとめようとしたのではなく、超越的次元にたって、人間的慈悲の限界をしめそうとしたに外ならない。(『同』413~414頁)

 「人間の自己完成はつねに無窮の道であって、そこに倫理が永遠の道として人間形成の指標となるのである」といいます。ここには「成仏」を到達点とした「人間の自己完成」「人間形成」が、「人間愛の限界」と「仏の大慈悲」との関係で語られています。
 さらに、《知情意の統合》の問題意識に関して、「絶対信」と「知性」、「他力的に生きることと、倫理的に生きること」について、次のように述べています。

 親鸞において真の宗教的世界は、倫理的世界を内に包みながら、なおそれとの超越関係にたつことであった。絶対信は知性の媒介によって把えられるのでもなく、また知性の否定によって把えられるのでもない。知性を内につつむことによって、かえってそれが絶対として知性を生かすことができるのである。絶対的世界は彼においては他力的世界であったが、その他力とは、自力の否定としての、或は自力の対極としての他力ではない。他力とは自力を内につつむものとして、それは絶対であった。それが「他力というは如来の本願力なり」という言葉で明確にしめされたのである。したがって他力的に生きることと、倫理的に生きることとは決して矛盾するものではなくて、他力的に生きることが、かえって倫理的に生きることを支え、それを力ずけることになるのである。それゆえ如来の本願力によって生きる生き方こそ、「大小聖人、重軽の悪人、みな同じく斉しく」(化身土巻)帰入できる普遍の道であり、なんぴともこの本願力を仰信すれば帰入できる「易行道」であったのである。(『同』417~418頁)

 「絶対信は知性の媒介によって把えられるのでもなく、また知性の否定によって把えられるのでもない。知性を内につつむことによって、かえってそれが絶対として知性を生かすことができるのである。」といい、「他力的に生きることと、倫理的に生きることとは決して矛盾するものではなくて、他力的に生きることが、かえって倫理的に生きることを支え、それを力ずけることになるのである。」といいます。
 また、「三願転入」を「めざめ」の体験として、次のように述べています。

 したがってかかる絶対信によって生きる人間こそ、「一乗円満の機」(愚禿鈔)であって、仏願力によって絶対の主体となることができるのである。「一乗の機を按ずるに、金剛信心絶対不二の機なり」(行巻)ともいっているように、自己超越によって絶対を奪取するのではなくて、本願力によって金剛信心の主体、絶対性そのものの主体となることができるのである。親鸞において、かかる世界こそ、自力的なものをつつみながら、それと対決することなしに、超越的に下降するものであって、それこそ横超他力といわれるものであった。
 彼(親鸞・池田注)が人間の倫理的可能をもって宗教的次元をかちとろうとする人間本来の在り方から出発しながら、倫理的なものと宗教的なものとの混同、或は媒介を否定して、ついに宗教的次元を人間存在の根底におき、そこから直ちに倫理的なものが培い育くまれることを見出したのである。かように道徳から宗教への上昇的立場から、逆に宗教から道徳への降下的立場に、宗教本来の在り方をみとめたのであるが、しかしここに到達するためには、人間の自力性に徹し、その自力性のなかから他力的地平がひらかれたのである。これを彼は「久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本徳本の真門に回入して、偏えに難思往生の心を発しき。然るに今、特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入す、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由ある哉」(化身土巻)といっている。いわゆる三願転入といわれるものであるが、この転入の体験こそ、自力的存在が他力的世界にめざめる宗教的な自覚過程をのべたものである。(『同』418~419頁)

 「絶対信によって生きる人間こそ(中略)仏願力によって絶対の主体となることができる」といい、いわゆる「三願転入」の体験こそ、「自力的存在が他力的世界にめざめる宗教的な自覚過程をのべたものである」といいます。
 以上の遊亀の「宗教の真実性」の考究に、信楽峻麿のいう「めざめ体験」による「人格主体の確立」を読みとることも可能に思います。(続)
by jigan-ji | 2016-08-14 01:02 | 聖教講読
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