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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[228]     2016年 08月 21日
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 補遺[180] 「慈雲の往生正信偈或ひは念仏正信の言有れども、今之に依るに非ず。」

 正信偈講読[149](2015年9月19日)を補足します。

 「正信偈」という言葉の由来について、江戸時代の宗学者(慧空『略述』三頁、恵然『句義』二五五頁、隨慧『説約』三二二頁、慧琳『帯佩』四三六頁、仰誓『夏爐』八〇頁、道隠『略讃』三九七頁、道隠『甄解』二八五頁、深励『講義』三七頁)の多くは、中国の慈雲遵式(963~1032)の『依修多羅立往生正信偈』や『弥陀経正信発願偈』に依ると述べています。しかし、西吟(1605~1663、本願寺派初代能化)は、次のように述べています。

 将に此の偈を解するに六有り。一には造偈の意を明かし、二には偈の大旨を明かし、三には偈の所習を明かし、四には題号を明かし、五には撰者の徳を明かし、六には正釈なり。(中略)三には偈の所習を明かすとは(中略)若し単に名(題名・池田注)を以て之を執らば、慈雲の往生正信偈或は念仏正信の言有れども、今之に依るに非ず。学者之れを思へ。(西吟『正信念仏偈要解巻一』〔以下『要解』と略記〕一丁右~二丁左)

 西吟は「若し単に名を以て之を執らば、慈雲の往生正信偈或ひは念仏正信の言有れども、今之に依るに非ず。学者之れを思へ。」と記しています。しかし、その理由は述べていません。
 知空(1634~1718、本願寺派第二代能化)も西吟の釈に注して、「将に此の偈を解するに六あり。(中略)習う所、何れよりす故に第三来る。既に所習を知る。すべからく題目を知るべし。(中略)慈雲 寺を以て人に目く。即ち遵式なり。偈は蓮宗寶鑑第三丁五に出ず」(知空『正信念仏偈要解助講』〔以下『助講』と略記〕十三丁右・左)と注するのみです。
 しかし、龍谷大学図書館所蔵本の「今非依之(今之に依るに非ず)」の右側には、「慈雲は天台宗の故に」との書き込みがあります。推測ですが、当時、「今非依之」の理由として、「慈雲は天台宗の故に」との伝承があったのかも知れません。
 その後、若霖(1675~1753、本願寺派第三代能化)は「題号」(『正信念仏偈開首』真宗叢書第四巻所収)の解釈中で慈雲への言及はありません。しかし、法霖(1693~1741、本願寺派第四能化)は「慈雲の往生正信と言ふは猶自力偏邪に堕す」(『捕影』二頁)と釈しています。
 当時の本願寺派にあっては「今非依之」の理由として、「慈雲は天台宗の故に」「慈雲の往生正信と言ふは猶自力偏邪に堕す」と考えられていたようです。
by jigan-ji | 2016-08-21 01:02 | 聖教講読
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