人気ブログランキング | 話題のタグを見る

浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[230]     2016年 08月 28日
 補遺[182] 「已能破」と「雖破」 ②

 正信偈講読[19](2013年7月15日)、正信偈講読[168](2016年1月7日)を補足します。

 「無明」とは、梵語アヴィディヤー(avidya)の漢訳で愚痴・無知の意です。
 月筌は「『起信』の説に依るに無明に本末の別あり、其根本とは無始の不覚なり、微細一相にして能所分かたず、即ち頼耶位に属して摂す、枝末とは即ち六麤なり」(『勦説』一四頁)と無明に本末を分け、「而るに今謂ふ無明闇とは不了仏智の心にして、是れ則ち疑惑無智なり、無智は謂く、痴即無明の義なり、然るに浄信の者はこの疑痴を除く、名義と相応するが故に」(『勦説』一五頁)と、いわゆる「疑無明」の釈を施しています。
 しかし、西吟においては、「疑無明」の釈は見られないようです。
 西吟は「已能雖破無明闇」の「無明闇」を、次のように釈しています。

 無明闇とは無智不覚にして而して一切善悪の事において分明ならざること、猶、暗夜のごとし。故に無明闇と云ふ。起信の疏に、無明を解するに二つ。一に無体即空の義。謂く、無明の惑、皆、衆生の妄心に依って真如に違して、而して妄境を起こす。元と空、本と有ならずが故に、無体即空の義と云ふ。二には有用成事の義。謂く、無明自体無しと雖も而して能く世間・出世間の一切の事業を成弁す。故に有用成事の義と云ふ。仏説決定義経に依るに云く。一に痴無明とは、謂く、人、愚痴暗鈍にして明了所無く、而して正法において信を生ずること能わす、唯、邪師の教えに遂て妄りに到見を執す、是を痴無明と名く。二に迷無明とは、謂く、人、昏迷不了にして五塵等の境に惑て観察すること能わざれば、其の患へ貪染の心を起こすに及ぶ。是を迷無明と名づく。三に顛無明とは、謂く、人、明了なる所無れば而して正法において邪到の見を起こす。常を無常と計し、樂を非樂と計する等の如き、是を顛無明と名づく。此の三無明を以て、当文の義を釈せば、謂く、仏願力に托して正しく信心を発して、口に唱へ、身に礼して、畢命を期と為して、念念相続する者は仏の心光を離れざるが故に、邪師の為に乱れず、邪到の見を起こさず、是の故に三か中においてはしかも一三とを除く、故に已能破と云ふ。下の句には明無闇と云ふ。然れども機情に第二在て未だ除かず故に雖破と云ふ。(『要解』巻二・四十九丁右~五十丁左)

 「破無明」ということは無明が除かれたということです。無明が除かれたにもかかわらず「常覆真実信心天」では「無明」が除かれたことにならないではないか、つまり無明が「破」せられたことにならないではないかとの問いが起こります。そこで「已能破」と「雖破」の関係が問題になります。
 西吟は「無明闇とは無智不覚にして一切善悪の事において分明ならざること」といいます。そして「起信の疏」によって「無明」には「無体即空の義」と「有用成事の義」の二義があるといい、さらに「仏説決定義経」に依って「無明」の三義を挙げ、念仏者を仏の心光は離れないので「痴無明」と「顛無明」は除かれ「已能破」であるが、「迷無明」は「機情」にあって除かれないので「雖破」であると釈しています。
by jigan-ji | 2016-08-28 01:02 | 聖教講読
<< 大心会研修会 正信偈講読[229] >>