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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[242]     2016年 10月 12日
 補遺[194] 「矜哀」の主体は誰か

 正信偈講読[37](2013年9月3日)、並びに正信偈講読[134](2015年7月26日)の「矜哀定散与逆悪」を補足します。

 「矜哀定散与逆悪」は【現代語訳】に「善悪のすべての人を哀れんで」とあります。西吟は「矜哀定散等の一句は、その所哀の機類を挙ぐ。」(『要解』巻四・二十六丁右)と釈し、隨慧は「此の一句は所被の機を楷定することを明す」(『説約』四一七頁)と釈しています。
 「矜哀」とは矜は憐れむ、哀は愍の意で、慈悲の心をもって哀れむことです。『大経』には「如来、無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。」(註釈版九頁)と、「信文類」別序には「大聖(釈尊)矜哀の善巧」(註釈版二〇九頁)と、「化身土文類」後序には「深く如来の矜哀を知りて」(註釈版四七三頁)とあります。西吟は「矜哀とは、これ師(善導・池田注)の悲心を指す。定散逆悪とは、所哀の機品を顕すなり。」(『要解』巻四・二十六丁右)と釈し、恵然は「矜哀等はこれを愍れむ、これを悲しむ。その所哀の機、定散と逆悪となり。定は息慮凝心の禅人(ママ)と謂ふなり。散は廃悪修善の道人(ママ)と謂ふ。即ち定善の機、上六品の人なり。」(『句義』三一〇頁)と釈しています。
 なお、道隠はこの「矜哀」の主体は、「宗師(善導・池田注)の矜哀」であり、「即ち仏の矜哀」(『甄解』三三七頁)と釈しています。
by jigan-ji | 2016-10-12 01:02 | 聖教講読
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