浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
カテゴリ:聖教講読 ( 199 )    
正信偈講読[200]     2016年 05月 01日
 補遺[152] 「独明」の「独」とは―古今楷定の視点と出世本懐の視点―
 
 正信偈講読[36](2013年9月1日)、[133](2015年7月25日)を補足します。

 『正信念仏偈』の多くの解説書には「善導独明仏正意」の「独明」の「独」は、七高僧中の他の六祖に対するのではなく、古今の聖道諸師に対する「独」と、「古今楷定」の視点から解釈しています。しかし、了祥は独自の「出世本懐」の視点から、次のように述べています。

善導独明仏正意等、この初めの一句についてはじめ弁じたところ。深草の『見聞』から三論の学風へ選んで善導の釈体を定めたまではよけれども、この初の句へかかりての弁がちと了簡がちごうたによってそこを弁じなおさねばならぬ。これが文は解すとも(文を解せば)、済んでしまう程のことなれどもその思召について古来の学者皆難儀をするところで、善導が独り仏の正意に明らかなというについて、先ず『六要鈔』は『選択集』の終りに浄土の祖師を選んで、ただ善導一師に依るというを引いて、そこがぐにゃぐにゃとして七祖の外の諸師にえらぶやら七祖の中でまたえらぶやら訳もろくに知れぬように書いてある。その外の末註はみな七祖の中でえらぶではない。唯、浄影・天台等の諸師にえらぶのだと弁じきってある。『帯佩記』もまずこの意。そこで学寮などで法談をするに禁題とて讃題にするなという文のあるなかで、この善導独明がその一で法談の讃題にさえ出させぬほどにやかましいこの一句。よって先に弁じたと落ちつきはかわらぬが、ここはなま半かに解してはおかれぬで、次第を立てて否応のいわれぬように止めをさしておかねばならぬ。それが先ず仏の正意といえば善導ではしれた弘願のこと。その弘願他力は善導ばかりではない、曇鸞は他力の親方。天親は本願力の根本。七祖みな弘願他力をいう人だから善導ばかり仏の弘願他力に明らかなとはいわれぬ。そうかと思えば七祖並べた真ん中に独明といえば善導独りに限ったこと、独明の言に善導に限っていてこころは七祖みなにあるで、そこで古来の学者がもやもやするところ。これがここに限らずものごとはその大体の目がただ散ると何もかも迷うて散るもので、先に弁じた如く、如来の出世本懐ということ。吾祖にはもっぱらあり、元祖にもそこそこあると、元祖までは仏の出世本懐を推し立てたもうというところまでは古来の学者もいうことだ。その元祖のもとは『般舟讃』はまだご覧なされぬで『法事讃』の文によって善導の釈で『略要文』には出世本懐の別の一章が出てあり、勢観の『隨聞記』にも『法事讃』の文で出世本懐を仰せられてあると、善導が本懐のもとだと、気がついてみれば龍樹天親曇鸞道綽どこにも出世本懐のことはない。善導にばかり(ある)のじゃによってなる程体は弘願なれども仏の出世本意といいたてたは善導ひとりじゃと、出世本懐のもとの善導じゃということが知れれば迷うものはない。そこが知れぬによって古来まごついたもの。よって私の了簡、弘願は七祖みないえども、それを仏の出世本懐じゃとはじめていうたが善導ゆえに独明仏正意と讃歎すると見定めるが私の了簡。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―善導篇―』一一~一二頁)

 多くの解説書のように「仏正意」を「古今楷定」の視点から解釈すれば、「独明」の「独」は、古今の聖道諸師に対すると解釈すべきでしょう。しかし、了祥のように、「弘願は七祖みないえども、それを仏の出世本懐じゃとはじめていうたが善導」と「出世本懐」の視点から解釈すれば、「独明」の「独」は、七高僧中の他の六祖に対する「独」と解釈することも可能に思います。了祥は、また、「善導独明の一句は(中略)善導ばかりが釈迦諸仏出世の本懐の正意を明かしたと標するこころ」(『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―善導篇―』一四八頁)とも釈しています。
 しかし「善導讃」八句の内容は『観経』の意であり、その意味からすれば「独明」の「独」は、「古今楷定」の視点から解釈したほうがよいのではないかと思います。
by jigan-ji | 2016-05-01 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[199]     2016年 04月 30日
 補遺[151] 日蓮が悪くいい柳の木の自害坊にした
 
 正信偈講読[36](2013年9月1日)、[133](2015年7月25日)を補足します。

 親鸞は『尊号真像銘文』に「善導の別徳をほめたまうていはく、「善導は阿弥陀仏の化身なり」とのたまへり。」(註釈版六五五頁)と釈し、『高僧和讃』「善導讃」には「大心海より化してこそ 善導和尚とおはしけれ」(註釈版五八九頁)と、善導を「阿弥陀仏の化身」と尊崇しています。
 しかし、善導の伝記に関して、善導は柳樹より身を投じて自絶したと捨身往生が伝えられるものがあります。
 それは『続高僧伝』(『唐高僧伝』『唐伝』ともいう。貞観十九年・六四五年成立。池田注)第二十七遺身篇の「時に光明寺に在りて法を説く。人あって導に告げて曰く。今、仏名を念ぜば定んで浄土に生ずるやいなや。導曰く。仏を念ぜば、定んで生ず。その人礼拝おわりて、口に南無阿弥陀仏と誦し、声声相次いで光明寺の門を出て、柳樹のうえに上がり合掌して西に望みてさかさまに身を投じ、下りて地に至って遂に死ぬ、事台省に聞く。」(『大正大蔵経』第五〇巻六八四頁)の内容を、宋の戒珠の『浄土往生伝』や王古の『新修往生伝』等に善導が捨身往生したと誤伝したものです(『七祖要義』六九頁、普門『發覆』二一八~二二〇頁参照)。
 仰誓や了祥は善導の「柳樹投身之事」に関する諸伝記を挙げて吟味しています(仰誓『夏爐』一六五頁、濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―善導篇―』二七頁以下)。
 村上速水は、「大師の伝記は種々あるが、なかんづく道宣(五九六~六六二)の著わした『続高僧伝』は大師の生存中の成立でもあり、最も信憑できる。南山律の開祖道宣が、自身より十七年後輩であり、かつ生存中の善導大師の伝記を『続高僧伝』に収録した事実は、以て大師の徳を証するに足る。」(村上速水『正信念仏偈讃述』一七一頁)と述べています。
 さらに佐藤成順は『続高僧伝』「遺身篇」の会通伝について、次のように解説しています。

『続高僧伝』は南北朝時代から隋・唐初の仏教者の伝記であり、道宣の自序によると、貞観十九(六四五)年に一応完成した。しかしその後、加筆増広されていて、善導の伝記を載せる遺身篇の会通伝は、貞観二十三年までに加筆された部分である。会通伝に会通が貞観末年に焼身したという。貞観は二十三年までであるので貞観末年を二十三年とし、この時善導伝も記されたとすると、善導は三十七歳の壮年期であり、伝記を書いた道宣は五十四歳である。(中略)善導伝を収録する会通伝は「遺身篇」に収めている。遺身は、身を捨てることであり、『法華経』に、「仏を供養するには身をもって供養するにはしかず」(薬王菩薩本事品)と説くのに由来して、中国では実際に、護法のための捨身供養が行われていた。儒教でも仏教でも自ら命を絶つことは否定されるが、しかしその実例は多く、僧伝では、護法のために身を捨てた僧の伝記を集めて遺身篇と名づけている。この伝記の主人公の会通という僧は、終南山の豹林谷に棲み、仏法の供養のために『法華経』の薬王菩薩本事品を読誦しながら焼身したという。この会通伝の末尾に付け加える形で善導の伝記に言及している。それは善導の信者の中に遺身者がいたからであり、遺身の一事例として善導に言及したのである。道宣は、自分より十七歳も年少の善導という、当時まだ無名の山僧が長安で多数の信者を集め、ついに繁華街に近い光明寺で投身自殺まで起こした。道宣は、この事件を聞いて驚きの念をもって善導に注目し、善導伝を書いたのであろう。善導を高僧として讃える意図で書いた伝記ではない。それがかえって善導の実像を伝えている。善導はこの事件で名を知られるようになったと思える。(佐藤成順『善導の宗教―中国仏教の革新―』浄土選書34、二〇〇六年七月一日、七六~七九頁)

 村上や佐藤の解説からも、善導が生存中の伝記に記載された、柳樹より身を投じて自絶したとの、善導の捨身往生説は誤伝であることは明らかです。
 この善導の捨身往生説について、了祥は善導を「柳の木の自害坊にした」のは日蓮だといい、次のように述べています。

『戒珠傳』(戒珠『浄土往生伝』・池田注)、善導を柳の木から落ちて死んだ人にするはもと『唐高僧傳』(『続高僧伝』・池田注)も別に善導の伝はない。(『唐高僧伝』の・池田注)遺身篇の会通の下に善導が出て(大正㊿六八四頁上)、その善導の教化で門前の柳の木よりおちて無理死して往生をいそいだ者があるとあり、それを偽せかざりして善導のことにくっつけて日蓮が悪くいい柳の木の自害坊にしたのだ。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―善導篇―』三七頁)

 この善導の捨身往生説は、創価学会教学部編『仏教哲学大辞典』(昭和四十八年七月十七日、三版)の「善導」の項にも採用されています。

ぜんどう【善導】 中国唐時代の浄土宗の僧(六一三―六八一)。善道ともかく。道綽の弟子。出生は臨淄(山東省)というが、一説には泗州(安徽省)ともいわれ、明らかではない。姓は朱氏。幼時に密州の明勝法師について出家し、法華経、維摩経を学んだが、たまたま仏寺中の西方変相の絵を見て浄土に生まれようと願い、後具足戒を受け、妙開律師と共に経典をさがしたあげく、観無量寿経を得てそれに専念するようになった。その後、西河の玄中寺におもむき、道綽の弟子となり、観無量寿経の講を受け、修行して念仏を行じた。のち終南山妙(ママ)真寺、長安の光明寺等を転々としながら、人々に称名念仏をすすめ、三十年間、浄土の法門を演説した。しかし、そののち、ついに気が狂い、寺の前の柳の木に縄を掛けて、自殺をはかり極楽往生を願ったが、枝が折れるか縄が切れるかして地面に落ち、腰を折って十四日間苦しみぬいて死んだと伝えられている。おもな著書としては、観無量寿経疏、往生礼讃、般舟讃、観念法門等があり、浄土宗の教義を整理している。これらの教義は、釈迦一代聖教の方等部であり、四十余年の説では権経方便の教えである。無量義経(八八㌻、日蓮大聖人御書全集等の㌻・池田注)に「四十余年には未だ真実を顕さず」とある。しかるに念仏者達は、三部経以外の教えをみな雑行、雑修となし法華経を誹謗している。故に念仏は無間地獄の法である。この念仏を信ずる者には、往生を願って自殺する者が絶えなかった。しかし善導の死相によって、念仏者の極楽往生は虚偽であり、むしろ末路は無間地獄に堕ちることを証明したのである。下山御消息(三六一㌻)には「されば念仏者が本師の導公は其中衆生の外か唯我一人の経文を破りて千中無一といいし故に現身に狂人と成りて楊柳に登りて身を投げ堅土に落ちて死にかけて十四日より二十七日まで十四日が間・顛倒狂死し畢んぬ」とある。(『仏教哲学大辞典』第四巻一九五~一九六頁)

 了祥は「すべて学問というはただものを解するばかりではない。心を正理に決して嘘ついたことに動かぬが学者の心中。今この善導の伝のことなども真偽を決して正説をみるが学問なり。」(『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―善導篇―』一〇四頁)と述べています。
 善道は「ついに気が狂い、寺の前の柳の木に縄を掛けて、自殺をはかり極楽往生を願ったが、枝が折れるか縄が切れるかして地面に落ち、腰を折って十四日間苦しみぬいて死んだと伝えられている」は、とても「真偽を決して正説をみるが学問」に依拠した見解とは評せません。
by jigan-ji | 2016-04-30 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[198]     2016年 04月 09日
 補遺[150] 一偈のあらましを科文を知りて心得べきなり

正信偈講読[184]・補遺[136](2016年2月15日)を補足します。

 経論を解釈するにあたって、その文句の段落を分科したものを科文(かもん、科ともいう)といいます(『仏教語大辞典』一五一頁)。
 善導は『観経』の要義を示して古今を楷定するにあたって、諸師の分科である序分・正宗分・流通分の三分説に対して一経五分説(序分・正宗分・得益分・流通分・耆闍分)を立て(七祖篇三三五頁)、さらに序分を二序七縁、三序六縁に分科して『観経』を解釈しました(『七祖要義』七六~七八頁)。当然、そこには諸師には通じない分科、言い換えれば、善導独自の科文が立てられました。
 了祥は「一偈のあらましを科文を知りて心得べきなり」といい、『正信念仏偈』の科文を「佛法僧の三宝に分けてみる見方」と「教行信証の四法へ割りつける事義」を取り上げ、次のように評しています。

 この偈を佛法僧の三宝に分けてみる見方がある。その見方は初めから一切群生蒙光照までが佛宝なり。本願名号以下難中至難無過斯までが法宝なり。印度西天以下が僧宝なり。吾祖佛法僧の三宝と挙げてそれに御帰依なされる偈文であるとみる見解は智空の説(『正信念仏偈要解助講』・濱田耕生補註より)、そのもとは善導大師の道俗時衆等の帰三宝偈のこころから思いついたもの。これはとんだこじつけで、『正信念仏偈』と念仏を信ずるが当たり前の偈を三宝に帰敬なされるとみては御製作の御意がとんだことになる。さてまた教行信証の四法へ割りつける事義があってその分け方は、初が依経、印度西天以下が依釈と二つに分けて、その依経の中が弥陀と釈迦の二尊に分かれて、弥陀の下で初から一切群生蒙光照までが教、本願名号が行、至心信楽が信、成等覚証が証。さて釈迦の下が、如来所以興出世唯説弥陀本願海が教、五濁悪時群生海応信如来如実言が行と信、能発一念以下がまた信なり。不断煩悩以下が証。印度西天以下の七祖の文も無理に四法へこじつける。これは海東師(慧然『正信念仏偈会鈔句義』・濱田補註より)の発揮で亀陵師(慧琳『正信念仏偈駕説帯佩記』・濱田補註より)もこれを用いられた。これは随分もっともな料簡で全体が教行信証の書の中へ出た正信偈であるによりて四法がなくてはかなわぬこと。さりながら次第もかえずきちきちと四法へあてると無理をいわねばならぬ。(中略)よって細かな訳を二重三重、別に立てていう科あり、よって私にはまず無理をいわぬように一往科を分けておいてその上、細かにいろいろ分けて聞かせる料簡なり。さてその近来講者、四法をやめて立てられた科目また気に入らぬ、そうまた根性悪くひねくり回すに及ぶまいというに、私の料簡ではこの正信偈の文の前の中、あるいは文の前、または『略文類』、または『和讃』これをとくと読んでみると、吾祖の御言葉で科が分かれている、よってもし私の科を非難せばご大儀ながら極楽まで行って難問すべし。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究』三二~三三頁)

 了祥は智空の『正信念仏偈要解助講』の「佛法僧の三宝に分けてみる見方」は「これはとんだこじつけ」と手厳しく評します。さらに慧然の『正信念仏偈会鈔句義』や慧琳の『正信念仏偈駕説帯佩記』の「教行信証の四法へ割りつける事義」は「次第もかえずきちきちと四法へあてると無理をいわねばならぬ」と評し、さらに「四法をやめて立てられた科目また気に入らぬ、そうまた根性悪くひねくり回すに及ぶまい」と述べています。
 よって了祥自身は、「私にはまず無理をいわぬように一往科を分けておいてその上、細かにいろいろ分けて聞かせる料簡なり。」と述べています。
 さらに了祥は、科には「文にしたがう科」と「義にしたがう科」の二通りあるが、慧琳の源信章八句の科は「その理はよけれども文をそこなうの失あり」と、次のように述べています。

『帯佩記』(慧琳『正信念仏偈駕説帯佩記』・池田注)のこころ、この源信の八句(源信廣開一代教から大悲無倦常照我の八句・池田注)を教行信証の四法へ当てる(真全㊴五七四頁上・濱田注)。その当て方に二つあって、一つには初めの四句が教、第五句が行、六七八が現益とする。二つには初めの二句が教、第三句が行信、第四句が行、六七八が現益。かくの如く二法四法へ当てる。全体科を立てるに二通りあって文にしたがう科と、義にしたがう科とがある。その中、義から科を立てるときはかくの如く四法へ当ててよい、さりながらそこに分別のあるはここの文がきっと四法であると四法になづむと無理をいわねばならぬ。今の中、初めの二句を教という、なるほど教のようだが安養はさとりをひらく処だから証にもなる。専雑執心が行信というもよけれども信が体となっておる。よってただこの八句の中に四法がこもっておるというはよい、ここが教ここが行と文できり当てると無理になる。さてまたご本書が四法は四法なれど真仏土を加えると五法になる化身土を加えると六法になる。よって四法にのみなづむべからず。今四法々々というと安養と報土これ真仏土、しかれば五法ありともいうべし。化土は知れた通り化土、これを加えれば六法ともいうべし。よって『帯佩記』の四法へあてたのはその理はよけれども文をそこなうの失あり。また四法になづんで五法六法といわざる不足あり。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―源空・源信篇―』一七〇~一七一頁)
by jigan-ji | 2016-04-09 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[197]     2016年 04月 08日
 補遺[149] 口先では利口そうにあるいは信順といい

 正信偈講読[89](2015年1月6日)の補遺㊷[請求と許諾(その1)]を補足します。

 真宗大谷派の深励は『正信偈講義』にて、存覚の「得涅槃分」についての釈を、「これ六要の釈なれども、吾祖の御釈に合はず。鎮西の義で釈し玉ふいかさま。(中略)爾ば六要の釈は、吾祖の真土の髙判に違する故に、六要の一義として除ておくべし」と批判しました(法蔵館「香月院深励著作集二」一一二頁)。
 深励に師事しその学風をうけた了祥は、本願寺派の安心理解に対して、「口先では利口そうにあるいは信順といい、その信順というが念佛ぎらい、たのむぎらいの信順だからとんだ信順になる」と、歯に衣着せず批判しました。

さて極重悪人の一句は述専修の相。専修というはいかなるものなれば、雑行も雑修も自力もすてて唯称佛だと知らせたもの。かくの如く学問するというも詮ずるところは往生をまちがわぬように研くこと。しかるに下手な者が庭木を作ると丸坊主に切ってしまうようになる。当流の安心がそれで念観自力くさいとてきってしまい、たのむも自力くさいとてきってしまい、念佛と信心まできってしもうた、あとが何がある。弥陀の本願は念佛と信心との他ない。信心念佛をきると本願はなしになる。これ大事のことで当流でも二三十年先にこれがはやり、今、西の御正意というがこのことだ。念佛往生はもとから嫌い、たのむというも三業で、手をやけずってまた嫌い、弥陀の本願丸坊主にきってしもうておる。そこで口先では利口そうにあるいは信順といい、その信順というが念佛ぎらい、たのむぎらいの信順だからとんだ信順になる。また口では利口そうにたのむというもそのたのむというが助けたまえをきらうたのむのだから、ただおたすけと思うくらいのたのむになる。そこで爺や婆々、下手な坊主まで、信順せよ、たのめと仰せられるというて口でたのむといえばそれで御正意のように思う。そのたのめというたのみ、力をしなわす(撓わす)からみると助けたまえと思うは自力。念佛往生も自力、その上のたのみだから本願丸坊主のたのみ。いたりてこの専修のすがたなぞ定散の信を離れ、往生の大事は如来にまかせ一筋に念佛しておる。これが実の他力の信。まことに他力の帰命。この唯称佛名なりを自力くさいと思うと罰があたる。それも一通りの罰ではない、念佛誹謗の有情となって八万劫中大苦悩の罰、他力専修の相は唯称佛名。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―源空・源信篇―』一六九~一七〇頁)
by jigan-ji | 2016-04-08 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[196]     2016年 03月 31日
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 補遺[148] まさに観念としての信心

 正信偈講読[179](2016年1月29日)の補遺(「非意業の信心」について)を補足します。
 1984年5月9日、西本願寺の宗学院において信楽峻麿は、「今日における真宗教学の課題」と題した特別講義を行いました。そのなかで「非意業」の信心理解について、次のように述べています。

 伝統教学においては、真宗の信心とは非意業であると申しております。このことはかつて三業惑乱事件をめぐって、大瀛や道隠らが、功存、智洞の所説を批判するためにいいだしたことで、充分に学問的根拠があっていったことではありません。信心が非意業であるとは、もとより信心とは身業とも口業ともいいませんから、それは三業にあらざるものとして、人間におけるいっさいの経験を超えたものであるということでありましょう。このような信心についての解釈はいったいいかに理解すべきでしょうか。このことについて、かつて昭和四年に、源哲勝氏が『信の意識の考察』という本を著わされました。私は学生時代に図書館でこの本と出会い、大きな刺戟をうけたことがあります。内容はあまり堅いものではありませんが、宗教的体験、宗教意識、宗教的理性などという言葉が多く用いられており、信心を宗教的意識として捉えようとするまったく新しい視点に立つものでありました。このような新しい視点は、そのほかに、わずかながらも当時の真宗教学に芽生えていたことが知られます。龍谷大学はその前身において、すでに明治二十五年に「比較宗教」の講義を設け、三十五年には「宗教哲学」を、四十一年には「宗教心理」の講義を開き、大正九年には独立して宗教学宗教史専攻を開説しております。その点、源氏はもともと仏教学の唯識教学を専攻された学者でありましたが、このような宗教学、宗教心理学にも深くかかわられたものであろうと思われます。しかしながら、注意されることは、この源氏の書物が刊行されてまもなく、昭和六年の『宗学院論輯』の第五輯には、「一念覚不論集」という特集がおこなわれております。その内容は、信心とは意識にあらず、非意業であるという先哲の論文の紹介です。そして翌七年の第九輯には、普賢大円氏の「非意業の研究」という論文が発表されます。このことは、明らかにかかる新しい視点、宗教心理学などに基づいて、真宗信心を宗教的な意識現象、心理現象として捉えようとする動向に対応するものであったことが知られます。この宗学院が伝統教学擁護のために創られたことからすれば、そのことも当然かと思われます。かくして伝統教学においては、いまもって、なお真宗信心とは非意業であると主張されているわけであります。
 しかしながら、今日ではことに人格心理学などの発展もあって、宗教における信心、信仰をひとつの宗教的態度として捉える発想があります。すなわち、信心をうるとは、新しい人格変容、人格成長をとげることであって、まったく新しい人格主体を確立することを意味するというわけであります。ここに信心の性格や、それにともなう救済の構造を見ようとするものであります。私は今日の真宗教学は、このような視点から多くのものを学ぶべきだと思います。しかしながら、だいぶ以前のことですが、私がそのような宗教心理学の研究に触発されて、真宗における信心について、いささかの考察を試みたところ、その時にも、伝統教学の教権からきびしく問われたことがありました。真宗信心とは、非意業であり、他力であって、いっさいの人間的な営みを超えているものだというわけです。しかしながら、私は思うのです。結論的にいうならば、信心というものを非意業として捉え、人間的な営みのいっさいを超えていると考えるかぎり、その信心主体に基づく行動の成立が語られようがありません。その信心は自己の内面的観念的な営みには意味があるとしても、何らの具体的な行動の原理とはなりえないでありましょう。まさに観念としての信心ではありませんか。その点、かかる理解に立つかぎり、真宗者の生活実践においては、つねに真俗二諦論にならざるをえず、信心と実践とは無縁となり、生活実践の原理は、信心以外の他の価値体系を借りてこなければならないでありましょう。過去の真宗教学が、近世、近代を通じ、真宗者の生きざまを教えるにあたって、つねに信心為本に対するに、王法為本、仁義為先を語り、外なる原理に妥協し、それに追随してきた理由がここにあるわけであります。(信楽峻麿『宗教と現代社会―親鸞思想の可能性―』200~202頁、1984年12月10日)
by jigan-ji | 2016-03-31 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[195]     2016年 03月 30日
 補遺[147] 恵心の本意にはかなわねど敬って恵心僧都というまでのこと

 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(『学問のすゝめ』)といった福沢諭吉は生涯、勲章、爵位などの栄典を受けませんでした。
 福沢は「僧侶の身に俗爵位等」は「無用」であると考えていましたから、「本願寺の授爵は何れの點より見るも無益の沙汰にして甚だ感服せざる所」(「本願寺の授爵」『福沢諭吉全集』第15巻456頁)と批判しました。
 了祥は「源信」の「僧都」という「官位」について、「元祖・吾祖・蓮師まで無位無官遁世の形、浄土門の本姿」、「恵心僧都とはいえども弟子の譲りで仕方なしの僧都」といい、次のように述べています。

今の『続往生伝』にも全く源信の望みでないことがみえており、また、長明の『発心集』でみると、源信、ひとりの老母ありてそこへ貢ぎたいと思し召せどもかなわぬ。あるとき公家の招待をうけて御施物をもらわせられ、それを老母に送らせられたれば、老母かえりて大いに怒り、母に地獄の業を作らせことだときびしいご意見から遁世の心しきりになったとある(『発心集』第七巻第八話[清文堂発行本一九八頁]・濱田注)。『法華験記』をみても壮年のときより遁世の思いであったとあって、三十歳になるかならぬかで僧位僧官決してお望みはない。もと御兄弟一男三女でその妹の安養の尼も道心堅固のこと、『拾遺往生伝』にも恵心にもすぐれたとある。また、かの増賀聖も恵心と同門で、これも『発心集』でみれば在所へ法事に衣服を着かざってゆかれたのを母の御意見にあって遁世したとある。また、覚超僧都、これも同門、後に恵心の弟子となる。それも『元享釈書』(巻四、三五丁)に時のおきさき、難産について天子より御請待つをえてもゆかれぬ。これによって九條殿に仰せつけられて九條殿がおいでになってもし参内なくば我も家にかえらずときびしい御催促、そこで詮方なく承知なされ、同じ車にてかえらぬと見て徒歩で参内せられ、加持せられたればたちまち御安産、(帝)大きに喜ばせられ、これも僧都をくだされたがまたうけぬ。逃げてかえられるところをあとから追いかけてうしろから宣旨をよんだ。これよりして覚超僧都と呼んだとある。みなありがたいこと。元祖・吾祖・蓮師まで無位無官遁世の形、浄土門の本姿、しかれば恵心僧都とはいえども弟子の譲りで仕方なしの僧都。それもうるさくてすぐに御辞退。しかるに恵心の本意にはかなわねど敬って恵心僧都というまでのこと。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―源空・源信篇―』105~106頁)
by jigan-ji | 2016-03-30 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[194]     2016年 03月 25日
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(『昭和定本日蓮聖人遺文』第一巻一〇四~一〇五頁)

 補遺[146] 恵心についての一難

 日蓮は『守護国家論』にて、「当に知るべし、往生要集の意は爾前最上の念仏を以て法華最下の功徳に対して、人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書なり。故に往生要集の後に一乗要決を造って自身の内証を述る時、法華経を以て本意と為す。」(『昭和定本日蓮聖人遺文』第一巻一〇四頁)と述べています。これに対し了祥は、以下のように反駁しています。

 日蓮に『守護国家論』という書がある。その中に源信『往生要集』を作って念仏をすすめたようであるが、その後はわかすぎて『一乗要決』を作り法華をすすめたのであって前にかいた『往生要集』は恵心の実意でないと、例の如く念仏をそしった。これはとるにたらぬことなれども、返答をしらぬとまごつく。もの製作の前後をいはば、『阿弥陀経』の『略記』(=『阿弥陀経略記』)は長和三年の作で『一乗要決』よりまた八年あとの作、後に『一乗要決』を作ったので先の『往生要集』は方便だといわば『一乗要決』のあとでまた『小経』の『略記』を作らせられたので、先の『一乗要決』もまた方便なるべし、と破すべし。兎角に日蓮は前後ばかり言をいえど一概に前後ばかりできまるものではない。『無量義経』に四十余年未顕真実とある。それがいつものおはこであるが、これ道理の前でも四十余年、まことをいわず、嘘ばかり説いてきかせたと、もしや釈迦が仰せられたなら四十余年ながのうそこきがいうことであって、この度、『法華』で説く真実といっても誰が聞いてまことにする者がある。(中略)また『無量義経』を珍重するが、その『無量義経』は『法華』の序分、『法華』の先へ説いた、前の狂言なれば後の『法華』からみると『無量義経』も前方便のうちとなる。(中略)今恵心の作も前後を定めるというは老人をだますような粗末なことにして信ずるものはない。(中略)まずこれが恵心についての一難であるから弁ずる。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―源空・源信篇―』一一一~一一二頁)
by jigan-ji | 2016-03-25 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[193]     2016年 03月 24日
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 補遺[145] おそらくは「源空上人(ママ)式文」なるべし

 三田全信は『成立史的法然上人諸伝の研究』(1966年初版、1976年12月25日再版)にて『源空聖人私日記』に関して、「日記とは、日日の出来事や感想などの記録を意味し、それに私の字を添えて、法然上人個人の伝歴を記すことを意味するのか、或は公にする意味でなく、私に秘めておく意味のものであるか、編者の意図するところが明確でない。しかし此伝が、法然上人の霊異を多く集めている風が見うけられるから、或は後者の秘蔵の伝記を意味するのでなかろうか。」(103頁)と述べています。
 さらに、霊山勝海は『西方指南抄論』(1993年7月17日)にて『源空聖人私日記』の「私日記」について、「「私日記」とは他の人の知らない自分だけの記録という意で、公開のために書いたものではないというのである」(252頁)と述べています。
 しかし、了祥は法然の諸種の伝記を考察するなかで、『西方指南抄』中の『源空聖人私日記』(拾遺部上157頁以下)について、「おそらくは「源空上人(ママ)式文」なるべし」と、次のように述べています。

『西方指南抄』中に『源空上人(ママ)私日記』というがある。漸く五、六枚あるもの。しかしながら御存生の始めより御入滅のことまであっていはば略伝と思うべし。しかるにその『私日記』という題号何のことやらわからぬ、考えてみるに古いものに「式」というを「私記」と書いたことが多いでおそらくは「源空上人(ママ)式文」なるべし。終りに「南无釈迦牟尼仏、南无阿弥陀如来、南无観世音菩薩、南无大勢至菩薩、南无三部一乗妙典法界衆生平等利益」とあって、式文の体にちがいない。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―源空・源信篇―』41頁)

なお、了祥は『源空聖人私日記』は「おそらく勢観房源智の作なるべし。」(同143頁)と述べています。
by jigan-ji | 2016-03-24 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[192]     2016年 03月 22日
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 補遺[144] 闇仏教に対する明仏教

 了祥は「本師源空明仏教」の「明仏教」を、以下のように釈しています。
 なお、文中に差別的な表現がありますが、歴史的資料として原文のまま引用しますのでご留意下さい。

 まず始めに明仏教というこれが何でもない三字のようだが甚だ思し召しのあるとみえる三字。それはすべてものごとは裏へ一つかえしてみるとその義がわかることがある。この明仏教を裏へ返すというと闇仏教になりて仏の教意に迷って闇いということになる。故に明仏教は闇仏教に対すると見て、その闇仏教というは何のことじゃというに、大総序に「尓れば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし」(聖典一四九頁・『真宗聖典』池田注・以下同)如来出世の本懐たる浄土真宗の教をそしりて「行に迷い信に惑い、心昏く識りすくなく、悪重く障多きもの」(同)とある。これが真宗の四法にまぬけに迷うもの。さて『信巻』の別序に「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す。定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し」(同二一〇頁)とある。これは別して真宗の信証に迷うてくらいもののこと。さて『化身土巻』の終りに「諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし」(同三九八頁)とある。これからみると浄土真宗の四法にあだをなし死罪流罪にあわせる坊主も俗ももろともに如来真実の教意、仏の真宗の四法に皆迷うて昏い盲人ども、この仏教に闇いものに対して真宗興立の大祖をここに明仏教とほめ、次に真宗教証興片州と仰せられたにちがいない。現在『御本書』(『教行信証』池田注)の前後に四法に昏く迷う者があげてあって、元祖を明仏教の、真宗の興立の祖師とほめるは闇仏教に対する明仏教。ときにそこにまた深い謂れのあるというは、まず前後にかくの如き迷うじゃの昏いじゃのとあまりにきびしい仰せられ方のようなが、そこが上にも弁ずるこの『御本書』ご制作は一度ならず二度目まで。並榎の竪者定照が根本となって念仏にあだを結ぶのときその真宗念仏にあだするもの、それは『法事讃』の終り(下巻)に、前に出世本懐をあげて後に五濁増時多疑謗(聖全①六〇五頁)とそれをそしるものをかくの如きの生盲闡提の輩と、めくらものどもにしてある。その根本は『十往生経』に弥陀をそしる報いをあげて、まずこの世にあって聾・盲人・唖なんどの報いをうけ、未来に地獄におちて八万劫中その苦悩をうけるとある。これ念仏真宗誹謗の者を昏い盲人という仏説。それに対して仏教、真実の出世本懐の真宗を見開いた元祖を明仏教とほめる。そこに大切の中の大切あるはもとこの『正信偈』即ち『顕浄土真実文類』、明仏教と真宗と一にすると明仏真宗となる。その真宗は即ち真実の義。これに依って明仏教真宗と顕浄土真実と全く同じ。さて教証はもとより教行信証の略、それでみると顕浄土真実教行信証がぞろりとみな元祖の下に出してある。しかれば顕浄土真実教行信証とある、これ吾祖の私にあらず、まことに元祖上人。またこれが無理か、見たがよい。『教巻』の最初に浄土真実の往相回向の教行信証じゃとある。その浄土真宗を「真宗興立の大祖」と元祖になされたからは顕浄土真実教行信証は根本は元祖にありと顕わすのが吾祖の御意に相異ない。かくの如く眼を開いてみると古人の解し方皆粗い。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―源空・源信篇―』五〇~五二頁、二〇〇〇年五月十日)
by jigan-ji | 2016-03-22 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[191]     2016年 03月 16日
 補遺[143] 梵語漢語の例で意味に相違なしとみるがおだやかな

 了祥は『正信念仏偈』の偈題を釈するに、「言がさかさまになって心が一つだ」ということを「梵語漢語の例で意味に相違なしとみる」、興味深い釈をほどこしています。

 『略文類』の方では正信と念仏と逆さになって「念仏正信偈」と出ておる。それを弁ずるの一偈で、これについて古来さまざまの説があるによって色々と考えてみたところが煩雑な義をつけるはよくない。(中略)さて言がさかさまになって心が一つだというは、近く例すれば『唯識論』という論の題号、つぶさには『成唯識論』という。しかるに天竺言葉と唐言葉、体と用の前後の相違があって、梵語では体前用後、茶を飲む、飯を食う、茶といい飯という体が前にあって、飲むといい食うというはたらきは後につける。漢語では用前体後、飲茶食飯と、飲・食が前で、茶・飯の体は後へつけていう。日本はまず天竺と同じこと。故に梵語の例では「唯識を成ずる論」と「唯識」が先、成が後となる。漢語の例では「成唯識論」と「成ずる」とはたらきを上において「唯識」の体を後とみる。『観経』もそのこころで『観無量寿経』というは唐言でおいた題号。『無量寿観経』ということがあるが、それは天竺風でおいた題号。梵語と漢語の相違のみじゃと見ると別に義は設けられぬ。今がその例で、唐風でやると正信念仏で念仏を正信するというこころ、天竺風でやると念仏正信でやはり念仏を正信するということ、梵語漢語の例で意味に相違なしとみるがおだやかな。それをちょっとみると、正信念仏というときは念仏が体となって正信の念仏という義になり、『念仏正信偈』というときは正信が体となり念仏がつけ言のようにみえれども、そのように分けては悪い。こころは一義とみてしまうがよい。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究』二一一~二一二頁)
by jigan-ji | 2016-03-16 01:02 | 聖教講読