浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
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カテゴリ:聖教講読   
  • 正信偈講読[123]
    [ 2015-07-01 01:02 ]
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    [ 2015-06-09 01:02 ]
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    [ 2015-05-31 01:02 ]
  • 正信偈講読[113]
    [ 2015-05-30 01:02 ]
正信偈講読[123]    2015年 07月 01日
 補遺[75] 如より来生して、「有情身」はもとより「草木国土魚米瓦礫」として現ずる

 正信偈講読[30](2013年8月12日)を補足します。

◎入生死園示応化
 「生死」とは、煩悩の果、迷いの意です。先には煩悩を林に喩えたので、ここでは生死の園と対句になっています。普門は「生死の園、これ煩悩となす。その果地を示す。」(『發覆』一九八頁)と釈しています。煩悩の林も生死の園も、ともに智眼をもたない衆生のいる世界を意味します。
 「応化」とは縁に応じて化作する、応同化益の意で、その人の迷いに相応して救うことです。還相回向のはたらきを示しています。普門は「摩訶衍に云く。言ふところの応は、根機に随順し、しかも相違せず。時に随い、處に随い、趣に随い出現す。」(『發覆』一九七頁)と釈しています。
 隨慧は「入トハ廻入。生死園トハ六趣四生ナリ。示応化トハ仏身・獨覚身・縁覚・声聞・梵王・帝釈・一切ノ天身・長者居士・宰官・婆羅門・比丘・比丘尼・童男・童女・龍・夜叉・等ノ化現無方ナル。コレ普現色身三昧ノ相ナリ。コレヲ普賢ノ徳ト名ク。吾祖ノ謂フ所ノ報応化種々ノ身ヲ示現スト是ナリ。タヽ有情身ヲ現スルノミニ非ス。草木国土魚米瓦礫一切現セストイフコトナシ。」(『説約』四〇一頁)と釈しています。隨慧によれば、阿弥陀如来は如より来生して、「有情身」はもとより「草木国土魚米瓦礫」として現ずるといいます。
 『浄土論』では「菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他す。速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得るゆゑなり。」(七祖篇四二頁)と述べ、『論註』では「仏の所得の法を名づけて阿耨多羅三藐三菩提となす。この菩提を得るをもつてのゆゑに名づけて仏となす。いま「速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得」といふは、これ早く作仏することを得るなり。」(七祖篇一五四頁)と釈しています。すなわち天親、曇鸞は五念五果を成就して仏果を得るという立場ですが、親鸞は「得至蓮華蔵世界 即証真如法性身」とあるように往生即成仏の立場です。これは親鸞の己証(こしよう)です。
 なお、渡辺顯正師は「広由本願力回向~入生死園示応化」について、次のように図示しています(『正信念仏偈講述』一八〇頁)。



by jigan-ji | 2015-07-01 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[122]    2015年 06月 30日
 補遺[74] 応化身を示し、神通に遊ぶ

 正信偈講読[30](2013年8月12日)を補足します。

◎遊煩悩林現神通
 「遊煩悩林現神通 入生死園示応化」は【現代語訳】に「さらに迷いの世界に還り、神通力をあらわして自在に衆生を救うことができる」と述べられた」とあります。
 『正信偈大意』には、「「遊煩悩林現神通 入生死園示応化」といふは、これは還相回向のこころなり。弥陀の浄土にいたりなば、娑婆にもまたたちかへり、神通自在をもつて、こころにまかせて、衆生をも利益せしむべきものなり。」(註釈版一〇三一頁)と釈しています。「五果門」の園林遊戯地門の意で、還相回向を明かします。
 『念仏正信偈』(宗祖部四四九頁、註釈版四八七頁)も全く同文です。『入出二門偈頌』は「入生死薗煩悩林 示応化身遊神通 至教化地利群生(生死の薗・煩悩の林に入りて、応化身を示し、神通に遊ぶ、教化地に至りて群生を利せしむ」(宗祖部四八二頁、註釈版五四八頁)と頌しています。
 「遊」とは「遊戯(ゆげ)」する、あそぶがごとく衆生救済をする意で、菩薩自娯楽です。『論註』には「遊戯」を、「「遊戯」に二の義あり。一には自在の義なり。菩薩、衆生を度することは、たとへば獅子の鹿を搏つがごとく、なすところ難からざること遊戯するがごとし。二には度無所度の義なり。菩薩、衆生を観ずるに畢竟じて所有なし。無量の衆生を度すといへども、実に一衆生として滅度を得るものなし。衆生を度するを示すこと遊戯するがごとし。」(七祖篇一五三頁)と、遊戯を「自在の義」と「度無所度の義」にて釈しています。
 「煩悩林」とは、煩悩が林のごとく多い、私たちの住んでいる迷いの世界、娑婆世界の意です。恵然は「煩悩林の中とは、因に約して境を明かす。林は惑多を喩ふ。」(『會鈔』三〇三頁)と釈し、隨慧は「煩悩無数コレヲ譬ルニ林ノコトシ。生死廣博コレヲ譬ニ園ノコトシ。煩悩ハ因ナリ。生死ハ果ナリ。此園林凡愚ハ此ニ逼悩シ。菩薩ハコレヲ自娯楽ノ地トス。」(『説約』四〇〇頁)と釈しています。
 「神通」とは神通力のことです。「神通」といえば六神通がよく知られています。四十八願の第五願から第十願(註釈版一六~一七頁)まで六つの願がありますが、六神通の願です。六神通とは梵語シャッド・アビジュニャー(sad-abhijna)の漢訳で、六通ともいいます。すぐれた智慧に基礎づけられた自由自在な活動能力です。六通のうち漏尽通は聖者のみが得られ、その他の五つは凡夫でも得られるとされます。

1、天眼(てんげん)通=一切のものを、邪魔ものなしに見ることのできる力。
 2、天耳(てんに)通=どんなものでも聞こえる力。
 3、神足(じんそく)通=どこへでも自由に行ける力。
 4、他心通=他人の心がよくわかる力。
 5、宿命(しゅくみょう)通=自分の過去のことをことごとく知ることのできる力。
 6、漏尽(ろじん)通=一切の煩悩が尽きたことを知る力。

by jigan-ji | 2015-06-30 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[121]    2015年 06月 25日
 補遺[73] 蓮華蔵は土を顕し、法性身は証を示す

 正信偈講読[30](2013年8月12日)を補足します。

◎即証真如法性身
 「即証真如法性身」は【現代語訳】に「ただちに真如をさとった身となり」とあります。「五果門」の屋門の意を明かします。普門は「修行所居の屋寓は、即ち真如法性身を証するこれなり。」(『發覆』一九六頁)と釈しています。
 「即証」とは、即時に証得する意です。普門は「即証とは、頓証の義なり。これ則ち速は無為法身を証するなり。」(『發覆』一九六頁)と釈し、隨慧は「華蔵ニ至ルコトヲ得ルモノハ即證ス。至ルコトヲ得サルモノハ、化土ニトトマリテ漸進分證ス。今ハカノ迂回ニアラス。故ニ即證ト云フ。」(『説約』三九八~三九九頁)と釈しています。
 「真如法性身」とは阿弥陀如来と同体の身になる意です。「真如」とは真実如常の意味で、真実であり、常住不変の意味です。「法性」とは、諸法の体性という意味で、一切の法のもとになるものの意です。『念仏正信偈』には「蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなはち寂滅平等身を証せしむ。」(註釈版四八七頁)とあります。「真如法性身」とは「寂滅平等身」であり、「寂滅平等身」は『論註』(七祖篇三七・一三一頁)に拠ります
 僧叡は「真如法性身」について、「「真如法性身」とは「論」に無為法身という。即ちこれ入一法句の覚体なり。願に滅度という。」(『要訣』四七一頁)と釈し、「証文類」の「かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。」(註釈版三〇七頁)の文を引用しています。なお、月筌は、「身とは、『論註』に曰「身名集成」(「身」を集成と名づく・七祖篇八一頁)と、今は功徳の集成を謂ふなり。」(『勦説』三七頁)と釈し、隨慧は「経(『大経』三経七祖部二一頁、註釈版三七頁)ニ虚無之身無極之體ト云フ是ナリ。」(『説約』三九九頁)と釈しています。
 若霖は以上の「得至蓮華藏世界」と「即証真如法性身」の二句について、「蓮華藏は土を顕し、法性身は証を示す、其実は至証(得至と即証を指す・池田注)同時なり、ただ説くに前後あるのみ」(『文軌』五七頁、『説約』三九九頁)と釈しています。
by jigan-ji | 2015-06-25 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[120]    2015年 06月 24日
 補遺[72] 華蔵世界と極樂国土

 正信偈講読[30](2013年8月12日)を補足します。

◎得至蓮華蔵世界
 「得至蓮華蔵世界」は【現代語訳】に「阿弥陀仏の浄土に往生すれば」とあります。「五果門」の宅門の意で「得入蓮華蔵世界」(三経七祖部二七七頁・七祖篇四一頁)に拠ります。
 「得至等」の二句は浄土の証果、当益です。『浄土論』の「宅門」には、「得入蓮華蔵世界」とありますが、今は「得至」と替えています。その理由について、若霖は「至は必至の至にして正定より滅度に至るの次第なり。蓮華蔵世界とは弥陀内證の真理即ち一法句なり。」(『文軌』五五頁)と、慧琳は「得至トハ。得ハ果位ニウルヲイフ。今ハ彼土ノ大果ヲ明ス。故ニ論ニ得入ト云ヒ。ココニ得至トイフ」(『帯佩』五三九頁)と、隨慧は「論ニ得入ト云。今得至ト云。論ハ安楽土ヨリ華蔵ニ証入スル次第ヲ示ス。故ニ入ト云。今ハ穢土ヨリ報土ニ至ルニ依ル。故ニ至ト云」(『説約』三九六~三九七頁)と釈しています。
 さらに、「華蔵世界」と「極樂国土」について、『六要鈔』では問答を設けて、次のように述べています。

 □問「蓮華蔵世界」とは、いかなる土か。□答智光の『疏』に「廬舎那仏は蓮華蔵世界に坐すと言うがごとく、今、蓮華蔵世界と言うのは、無量寿仏所居の住処はこの世界に准ずるので、義に随ってこう言うのである。すなわち修行安心の宅である。」とある。この文のとおり極楽と花蔵とは一土である。□問華厳世界は純菩薩の居であり、極楽国土は五乗に通入している。何んで一土であるのか。□答両土と分けることはしばらく機見に随い、深旨に達すればおのおの別土ではない。したがって極楽は大乗善根清浄の土であるから、実に二乗、三乗の異はない。これによって『智論』(巻三四)には「一乗清浄無量寿世界」と判別し、今の『論』には「蓮華蔵界」と説く。名は異なっているが義は同じであることを知らなければならない。(和訳六要鈔一三〇~一三一頁、宗祖部二七〇頁)

 「蓮華蔵世界」の語は『大経』にはなく、『浄土論』の宅門に拠ります。「蓮華蔵世界」とは、蓮華によって蔵せられる世界の意味で、毘盧遮那仏の浄土であって、『華厳経』や『梵網経』では、諸仏の浄土の中でもっともすぐれた浄土のことです。「蓮華蔵世界」の語は『浄土論』(七祖篇四一頁)や『浄土文類聚鈔』(註釈版四八七頁)や『入出二門偈頌』(註釈版五四七頁)や『唯信鈔文意』(註釈版七〇九頁)などに使用されていますが、親鸞のうえでは、転用して弥陀の浄土の名としています。
 存覚は「華厳世界」と「極楽国土」と「両土と分けることはしばらく機見に随い、深旨に達すればおのおの別土ではない」と述べ、隨慧は「華蔵ノ名諸仏ノ土ニ通ス。故ニ(中略)弥陀ノ真土ノ別名タル。無量光明土及諸智土ヲ挙ク。(中略)若定散漸進ノ機ハ。極樂ニ生シテ而シテ華蔵ニ進ム。(中略)若直往ノ機ハ直ニ華蔵ニ至ル。極樂ニ即シテ華蔵。華蔵極樂無ニ無別ナリ。」(『説約』三九七頁)と釈しています。
 法霖は「浄土論は初め安楽国といい、その得益の處に至って得至蓮華界という。常途の判教は、蓮華界に至るをもって聖道門となす。安楽世界に至るをもって浄土門となす。今かへりて華蔵界に至るというは、これ聖浄二門互融の相、娑婆にあって融せず、浄土に至って即ち融す。」(『捕影』四五頁)と釈しています。すなわち、「蓮華蔵世界」の名は、全く弥陀自証の境地を顕し、「安楽浄土」の名は衆生を摂受する阿弥陀如来の浄土です。まさに、「蓮華蔵世界」に至れば「聖浄二門互融」すというわけです。
 「世界」について隨慧は、「世界トハ探玄三(四十二号)云。「世是時。界是分斉。謂。時中ニ於テ分斉顕現」」(『説約』三九七頁)と釈しています。
by jigan-ji | 2015-06-24 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[119]    2015年 06月 18日
 補遺[71] 「海ノ八徳」「海ノ十相」

 正信偈講読[15](2013年7月7日)を補足します。
 「唯説弥陀本願海」は【現代語訳】(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』)に「ただ阿弥陀仏の本願一乗海の教えを説くためである。」とあります。
 『尊号真像銘文』には「「唯説弥陀本願海」と申すは、諸仏の世に出でたまふ本懐は、ひとへに弥陀の願海一乗のみのりを説かんとなり。」(註釈版671頁)と釈しています。すなわち、「唯説」とは、すべての仏の出世の本意は、弥陀の本願の救いを説くことにあるというわけです。
 「本願海」とは、仏願の深広にして涯底なきことを海に喩えました。『大経』「往覲偈」には「如来の智慧海は、深広にして涯底なし。二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり。」(註釈版47頁)とあり、善導の『往生礼讃』には「弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。」(七祖篇671頁)とあります。『論註』には「「海」とは、仏の一切種智は深広にして崖りなく、二乗雑善の中・下の死尸を宿さざることをいひて、これを海のごとしと喩ふ。」(七祖篇84頁)とあります。
 月筌は「海」を、『涅槃経』(国訳大蔵経第9巻342頁)に依る海の八徳を挙げて、「一に漸々転た深し、二に深にして底を得難し、三に同一鹹味、四に潮限りを過さず、五に種々寶蔵あり、六に大身の衆生も居る所、七に死骸を宿さず(不宿死骸・池田注)、八に一切の萬流大雨之に投じて増さず減ぜずと」(『勦説』11頁)と釈し、隨慧は「海ノ十相ヲ説ク。一ニ漸次ニ深シ。二ニ死骸ヲ受ケズ。三ニ餘ノ水ハ本ノ名ヲ失ス。四ニ一味。五ニ多寶。六ニ極メテ廣ク入リ難シ。七ニ広大ニシテ無量。八ニ大身ノ衆生多シ。九ニ潮、時ヲ失セズ。十ニ能ク一切ノ大雨ヲ受ク。北本涅槃三十二(三十一號)海ノ八徳ヲ説ク。彼ノ十相ノ中。餘水失本名ト、及ヒ廣大無量トノ義ヲカク。餘ハ皆同シ。」(『説約』351頁)と釈しています。なお、恵然は「死骸」に「凡死骸は神を脱した、之尸なり。今、凡情を転じて彼の死尸を捨てる」(『會鈔』274頁)と注しています。
by jigan-ji | 2015-06-18 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[118]    2015年 06月 17日
 補遺[70] 「依報ヲ照シ」「正報ヲ益ス」

 正信偈講読[11](2013年6月28日)を補足します。
 「超日月光照塵刹」の「塵刹」とはちりのような国の意で、『大経』には「あまねく無際の土を照らし」(註釈版25頁)とあり、『如来会』には「かの仏の光明は普く仏刹を照らすこと、無量無数不可思議なり。」(三経七祖部196頁)とあります。
 隨慧は「照塵刹トハ。此ノ十二光、普ク微塵刹土ヲ照シテ遺餘アルコトナシ。補行ニ云ク。「刹トハマサニ刹摩ト云フベシ。此ニハ土田ト云フ。即チ一仏所主ノ土ナリ」。名義集ニ云ク。「刹摩、正音ハ制多羅、此ニハ土田ト云フ」。義章十九(初號)ニ云フ。「刹コレ界ト其ノ義則チ通ズ」。即チ経ニ「普照無際土」(三経七祖部14頁)ト説キ、「光明遍照十方世界」(三経七祖部57頁)ト云フ是ナリ。一切群生蒙光照トハ光照ノ利益ヲ示ス。上(照塵刹・池田注)ハ依報ヲ照シ、此(一切群生蒙光照・池田注)ハ正報ヲ益ス。」(『説約』341~342頁)と釈しています。

by jigan-ji | 2015-06-17 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[116]    2015年 06月 10日
 補遺[68] 小児ノ母ヲ呼ブニ帰投救護ノ語無シトイエドモ、其意自ラ具スルガ如シ

 隨慧は『正信念仏偈』の「帰敬偈」を釈して、「帰命南無ハ梵漢並挙ク。讃阿弥陀ノ偈ニ「南無不可思議光。一心帰命稽首礼」(三経七祖365頁、七祖篇177頁)ト。是其例ナリ。」(『説約』328頁)と述べています。
 さらに『念仏正信偈』の「帰敬偈」は「西方不可思議尊」で、「帰命」「南無」の語が無いことを問い、それについて若霖の『文軌』を引用して、「文軌云。「此帰命ハ自ラノ為、他ヲ勧メルタメノ二囀声有リ。謂ク、我レ已ニ帰命セリ、諸ノ有縁亦我ノ如ク帰命セヨ。文類聚鈔ニ、直チニ西方不可思議尊ト言ヒテ帰命ノ語無シ、然レドモソノ義自ラ具ス、論主直チニ世尊ト唱ヘテ、帰命ノ語無シ、然ルニ註家ハ具サニ帰啓、乞加ヲ以テ之ヲ解ス。譬ヘバ小児ノ母ヲ呼ブニ帰投救護ノ語無シトイエドモ、タダソノ名ヲ呼ベバ、其意自ラ具スルガ如シ(『文軌』23頁)云々」(『説約』328~329頁)と釈しています。
 つまり、隨慧は若霖の釈に依拠して『念仏正信偈』の「帰敬偈」に「帰命」「南無」の語はなくても、「西方不可思議尊」と称えるなかに、「帰啓、乞加」の意が含まれている。それは、「帰投救護ノ語」がなくても、子どもが「お母さん」と呼べば、母親はその意を汲み取るようなものであるといい、だから「帰命」「南無」の語はなくても、その意は「西方不可思議尊」に含まれていると主張します。
by jigan-ji | 2015-06-10 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[115]    2015年 06月 09日
 補遺[67] 等ノ言観小両経ノ隠彰ノ義ヲ摂ス

 隨慧(1722~1782、真宗大谷派贈講師)はその著『正信念仏偈講義説約』(真宗全書第39巻所収、以下『説約』と略す)にて、『正信念仏偈』は大分して二つになり、その一つは大経に依り、二つは師釈に依ると言い、次のような問答を設けています。

問フ何故ゾ。三経ニ依ラスシテ偏ニ大経ニ依ルヤ。答。我祖ノ興宗立教。総シテ三経七祖ニ依リ。別シテハ大経論註ニ依ル。和讃ハ広ク浄土ノ法門ヲ讃ス。故ニ三経ノ意ニ依ル。今ハ別シテ真宗ノ行信ヲ明ス。故ニ偏ニ大経ニ依ル。観小両経ハ顕ニ十九二十ノ願ヲ開設ス。方便ノ教也。故ニ真実教文類云。大無量寿経。[真実之教 浄土真宗] 愚禿鈔云。易行浄土本願真実之教。大無量寿経等也ト(宗祖部455頁、註釈版502頁)。等ノ言観小両経ノ隠彰ノ義ヲ摂ス。(『説約』真宗全書第39巻326頁)

 隨慧は、親鸞は三経七祖によって立教しているにもかかわらず、なぜ、依経段は三経でなく偏に『大経』に依っているのかと問いを立てます。それに答えて、和讃は広く浄土の法門を讃ずるので三経の意に依っているが、『正信念仏偈』は真宗の行信を明かしているので、「教文類」に真実の教は『大無量寿経』とあるように、偏に『大経』に依るといいます。第十九願と第二十願を開設する『観経』『小経』は、『愚禿鈔』に「易行浄土本願真実之教『大無量寿経』等也」あるように、「等」に摂せられ、この「等」の言に『観経』『小経』の隠彰の義が摂せられていると釈しています。
by jigan-ji | 2015-06-09 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[114]    2015年 05月 31日

  『親鸞教学論叢』(1997年所収)

 補遺[66] 「南无」の読み仮名について

 正信偈講読[4][65]を補足します。

 浄土真宗本願寺派では、「南無阿弥陀仏」の「南無」を「ナモ」と読み慣わしています。その理由は、親鸞の真蹟本『唯信鈔文意』や『西方指南抄』などに、「ナモ」と読み仮名が付されていることから、古くから「南無」を「ナモ」と読む読み方が伝承されてきたことによります(篠島善映「『南無阿弥陀仏』の読み仮名について」、浄土真宗本願寺派発行『宗報』平成元年9月号)。
 また、玄智の『考信録』には「南無ノ無ノ字。祖書ニミナ模(モ)ノ声トス。他家ノ書ニモコノ様アリ。声明家ニ甲念仏・八句念仏ノ如キ。マタ模ノ声ニ唱ヘリ。按スルニ広韻[唐天寶十載。孫恛作]初巻十慮ノ部ニ。無(ム)武夫切。有無也ト。又十一模ノ部ニ無(モ)莫胡切。南無出釈典ト出セリ。コレニヨルニ、南無ノトキハ別音模ニシテ。有無ノ無ニ同ジカラス。」(真宗全書第64巻13頁)と記しています。
 今日、真宗大谷派では「南無」を「ナム」と読ませていますが、隨慧は「帰命トハ梵ニ南无ト云フ。无ハ字彙ニ古無字。又莫胡之切音模。南無出釈典。句會小補云。无與旡不同。旡音既。娜謨曩謨南謨娜麽[文軌ニ諸文ヲ引カ如シ]等ノ音一ナラズ。應師音義七曰。南無或作南謨。或言那謨。皆以帰礼訳之。」(『正信念仏偈講義説約』真宗全書第39巻327頁)と釈し、「南无」を「ナモ」と読んでいます。
 さらに深励は、「南无不可思議光。南无ト云、新訳ノ梵語テハ納麽トモ曩莫トモ云。文軌(『真宗叢書』第4巻所収「文軌旁通」10~11頁・池田注)ニ釈アリ。今ハ旧訳ナリトキニ、コノ南无ニ祖師訓シテナモトアリ。コレハ広韻模ノ韻ノ下ニアリ。コノ下ノ註ニ南无出釈典トアリ。コレニ依テトキトキ南无ヲナモト付玉フ。仏書テハ大部補註七(七)云「南无無莫胡切」」(『正信偈講義』49頁)と釈し、「南无」の「無」は「莫=maku」「胡=ko」の反切で「mo=モ」と読むと釈して、「南无」を「ナモ」と読んでいます。深励は具体的な「祖師」の「訓」を示していませんが、親鸞の真蹟聖教を指していることは明らかです。
 なお篠島善映は「「南无」の読み仮名についての一考察」にて、親鸞の真蹟聖教にみられる「南无」の用例(漢文20例、和文57例、合計77例)を確認した上で、次のように述べています。

 「南无阿弥陀仏」の「南无」を「ナム」と読むことは、一般大衆の間で古くからあったようである。室町末期に来日したキリシタン宣教師(日本イエズス会)が、日本語学習のために編纂した辞書に『日葡辞書』(慶長八年・一六〇三年刊)がある。その「南無」の項に「Namu ナム(南無)。仏に対して称名をしたり、拝礼をしたりするのに使う言葉。例、Namu Amidabut」(四四七頁)とあり、当時の一般の人々は、「南無阿弥陀仏」を「ナムアミダブツ」と発音していたことが知られる。しかし、「ム」と読むのは「有無」の「無」の字音であり、「南无」の「无」の場合は「モ」の音が字音にかなった読み方である。そして、上来みてきたように、親鸞聖人の「南无」の読み仮名には「ナモ」と「ナム」とがあるが、「ナム」は聖人の意図的な読み分けによるものとみられるのであり、聖人の読み仮名は基本的には「南无」の「无」の字音にかなった「ナモ」であり、また、親鸞聖人以降の歴代宗主も、江戸期の玄智の唱読音もすべて「ナモ」である。従って、本派本願寺において伝承されてきた「南无阿弥陀仏」の「南无」の読み仮名は「ナモ」であるということができよう。(篠島善映「「南无」の読み仮名についての一考察―本派本願寺に伝承されてきた読み仮名を中心に―」、『親鸞教学論叢』1997年所収)
by jigan-ji | 2015-05-31 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[113]    2015年 05月 30日


 補遺[65] 伝灯第八相承高僧

 正信偈講読[23](2013年7月28日)を補足します。
 安田理深は、「親鸞は七高僧じゃないけれども、自分の使命は論家だという自覚に立って『教行信証』をつくろうとされたんだと思いますね。『教行信証』の仕事は論家ですわ。いわば八高僧です。自分で「八高僧だ」と言ったら変なもので、だから「自分は法然上人の弟子である」と。」(安田理深『教行信証講義ノート 化身土巻(十九)』1981年、86~87頁)と、親鸞を「八高僧」と捉えています。
 この「八高僧」との指摘は、すでに恵然がその著『正信念仏偈會鈔句義』にて、「吾祖これを得これを伝え、敬信すべきを勧める。若しかくの如き則ちこの四句(弘経大士宗師等から唯可信斯高僧説の四句)、これ吾祖伝灯相承の本心を明かすの偈已む。伝灯第八相承の高僧、勧信至切。門葉その素志をわすれることなかれ。」(真宗全書第39巻318頁)と述べています。
 恵然は親鸞を「伝灯第八相承の高僧」と捉えています。恵然は親鸞を「八高僧」と理解していたと言えましょう。
by jigan-ji | 2015-05-30 01:02 | 聖教講読