浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
カテゴリ:聖教講読 ( 203 )    
正信偈講読[204]     2016年 05月 28日
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 補遺[156] 一つの仮説―平和の守護神としての聖徳太子―(承前)

 金龍静は、「石山戦争を政治史でなく宗教史の流れから捉え返すと、この戦いは、仏法・王法のもたれあいを拒否し、仏法の自立性=政教分離を主張した蓮如教団と、仏法を王法の下へ屈服させようとした新興武家権力(織田信長)という、同じ発想から出発し、一世紀におよぶ曲折を経て別方向へ進んだ二大勢力の最終的な激突と見ることができる。蓮如教団内にも織田政権内にも、もはや中世に主流をなした顕密的な仏法王法相依思想(両輪説)は見受けられず、残された選択肢は、仏法の自立か屈服かの択一しかなかった。」(『一向一揆論』三三二頁)と指摘しています。
 「仏法の自立か屈服かの択一しかなかった」、「法敵」と戦う「戦国期一向衆」にとっては、まさに「「平和」の守護神たる「聖徳太子」によって、外敵から護られていた。」(『一向一揆論』一九九頁)と実感を持って受けとめられたでありましょう。
 さらに金龍は、「蓮如につどう人々」に言及し、「道宗のように宗教的内省へ、道徳のように自力救済へと向かう途は、新興教団をたちまち二極分解に導くものと予期されるが、その予想に反して、厚信者で一揆指導者の例は少なくない。たとえば、加賀の菅生願生(願性)は、長享一揆時の江沼郡の一揆の大将であり、同時に、蓮如に深く信順する「正信の門徒」であり、蓮如庶子(一門)の加賀山田光教寺蓮誓の強力な支援者でもあった。厚信の心も一揆を戦う心も、共に報謝行のあらわれだからである。」(『一向一揆論』三〇九~三一〇頁)と述べています。
 しかし、その後の江戸幕藩体制下において、「一揆」は「公に対する私の反逆」であり、「禁ぜられるべき謀反」となります。よって「一揆を戦う心」=「平和の守護神としての聖徳太子」は後衛に退き、「厚信の心」=「報謝行」=「権力の私的性格」を補佐する「七祖」「聖徳太子」理解が前衛に出てくることになります。
 江戸時代後期の覚照(1796~1848)は、『高僧和讃』の最後に七高僧の名と聖徳太子の名が列記(註釈版五九九頁)されている理由について、次のように述べています。

 次上は七祖同く選択本願を宣揚することを明す。此下、更に其人名を列するなり。然るに、此中太子を標挙するものは、専ら其の本意に約する故に、第三帖に聖徳皇のあはれみて等と云ふ。蓋し讃主の意、太子を七祖に対して、是を観勢二士として、二大士の本意、唯一仏名を専念するに在ることを表し、以て今宗を開く、其の本あることを顕すものなり。故に、祖傳に云く。「大師聖人すなはち勢至の化身、太子又観音の垂迹なり、この故に、われ二菩薩の引導に順して、如来の本願をひろむるにあり、真宗これに依て興し、念仏これに依て煽なり。是併ら聖者の教誡に依りて、更に愚昧の今案をかまへす、彼二大士の重願たゝ一仏名を専念するにたれり」(註釈版一〇四五~一〇四六頁)。蓋し按するに、讃主の今宗を開闡したまふや、安心を七祖に承け、行儀を太子に依りて、以て真俗不二の宗旨を開く。自ら非僧非俗と称するもの、豈但左遷の事縁に由るのみならんや。此乃ち二大士の意を稟承して、深く他力真宗の実義を顕すものなり。然るに其の太子奉讃は之を第三帖の終に附するもの、太子の行状即範を末法の時機に垂るゝことを顕して、今日願生の行者をして、其の行状、此に依らしめんか為の故なり。今太子の下に局て其の出生の年号等を記するもの、正像既に尽きて、漸く末法に入るの初を顕して、竟に第三帖の張本を成せんか為の故歟」(寶池閣覚照著・東陽閣圓月校『高僧和讃雁峰録』一三一~一三二丁、明治二十六年。適宜句読点を入れるとともに、片仮名を平仮名に改めました)

 さらに、明治から昭和時代に生きた是山恵覚(1857~1931)は、次のように述べています。

 太子の別讃は第三帖の終に在り(註釈版六一五頁以下・池田注)、此に七祖と併せ列ぬるものは、宗祖の意は、太子の本意は七祖と同じく弘願真宗を弘通するに在りとなすが故なり、傳文(『御伝鈔』・池田注)に云く「大師聖人(法然・池田注)すなはち勢至の化身、太子(聖徳太子・池田注)また観音の垂迹なり、このゆへにわれ二菩薩の引導に順じて如来の本願をひろむるにあり、真宗これに依りて興じ、念仏これに依りて煽なり、是れ併ら聖者の教誡に依りて更に愚昧の今案をかまへず、彼二大士の重願ただ一仏名を専念するにたれり」(註釈版一〇四五~一〇四六頁)と、思ふに、七祖の非俗は其安心を顕し、太子の非僧はその行儀を示す、宗祖合せ取つて以て真俗不二の妙宗を開顕したまふなり、上下の人を合せ集めて併せ列ぬる祖意、また自ら知らるゝ。(『高僧和讃講義』、『真宗叢書』別巻是山和上集五三二頁)

 そして、大江淳誠(1892~1985)は、次のように述べています。

 そして七高僧がすんだから今度は聖徳太子を一番あとにだされた。聖徳太子には十一首の「和讃」がある。それで七高僧と太子をだしてある。これは智度である。『高僧和讃』や『正像末和讃』等のところは智度である。「太子和讃」の方は悲度である。こういうことで真俗、俗ということはないけれども、観世音と勢至ということになる。それで「聖徳太子和讃」の方には観音をだしてある。そうすると七高僧の方は勢至になる。観音・勢至、そうすると阿弥陀仏の脇侍は観音、勢至である。そして観音は聖徳太子、勢至は七高僧と、こういうような形に「三帖和讃」はできておる。だから「和讃」というのは一首一首解読していかんといけないが、この全体をどうみるかということを是非みておけねばならん。だから昔からあれを仮名の『本典』というのです。もっともご『本典』よりも細かいところをいろいろと書いてある。ご『本典』に聖徳太子のことを書いてないけれども、「和讃」にはでておる。というようなことで、この「和讃」はひとつよくみておけなばならんのです。和綴の本には、石泉師の『観海篇』(井上哲雄編『真宗学匠著述目録』には僧叡の著として『三帖和讃観海篇』八巻、明治三十年刊とある・池田注)という三冊の漢文体の註釈がある。これを述べ書きにしたものに『雁峰録』(『真宗学匠著述目録』には覚照の著として『三帖和讃雁峰録』四巻、明治二十六年刊、東陽圓月校訂とある・池田注)というのが和本で三冊ある。大変よい本です。だから後の本は皆これをうけて書いておるのです。是山和上も『三帖和讃講義』を書いてござるがほとんどこれをうけておるのです。良いのはうけたらいいので、とにかく「和讃」を一遍みておかねばいかん。みておくには前後の関連と『本典』とのかかわりをみると大変味わいがある。(『教行信証講義録 下巻』一一一六~一一一七頁)

 『高僧和讃』の最後に七高僧と聖徳太子の名が列記されている理由について、江戸時代後期から昭和に至る宗学者は、「安心を七祖に承け、行儀を太子に依りて以て真俗不二の宗旨を開く」(覚照)、「七祖の非俗は其安心を顕し、太子の非僧はその行儀を示す、宗祖合せ取つて以て真俗不二の妙宗を開顕したまふなり」(是山恵覚)と、「真俗不二の宗旨」、「真俗不二の妙宗」に帰結しました。それは、まさに「厚信の心」=「報謝行」=「権力の私的性格」を補佐する「七祖」「聖徳太子」理解であり、親鸞在世中の「山門」や「興福寺奏状」とほぼ同一の「仏法王法相依思想(両輪説)」に立脚した「七祖」「聖徳太子」理解といえましょう(『一向一揆論』三一二~三一三頁参照)。
 今日、宗学における『高僧和讃』最後の七高僧と聖徳太子の名の列記についての理解は、是山や大江の解説からも知られるように、そのネガは「仏法王法相依思想(両輪説)」に依拠するものであり、時代の変遷とともに、モノクロがカラーとなり、アナログがデジタルになっても、ネガは徳龍や覚照と同じです。ネガの焼き直しで、やりすごすことも可能かも知れません。しかし、「戦時教学」を反省し、新たな真宗の平和論を構築しようと思うなら、「仏法王法相依思想(両輪説)」に依拠した、古いネガの焼き直しではなく、新しいネガが要請されてくると思います。
 戦国期には「厚信の心も一揆を戦う心も、共に報謝行のあらわれ」と理解され、それが「正信の門徒」とされました。新しいネガで「正信の門徒」は、どうイメージされるべきか、一考を要します。
by jigan-ji | 2016-05-28 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[203]     2016年 05月 24日
 補遺[155] 一つの仮説―平和の守護神としての聖徳太子―

 金龍静は「血染めの名号」に触れて、次のように述べています。

 五箇山平村の渋谷道場に、「血染めの名号」が残されている。それは最後の一揆を支えたものが、唯一阿弥陀如来だったことを今に伝えている。中世は宗教の時代でもあり、戦乱の時代でもあった。本来的に私的性格を帯びているさまざまな勢力は、仏神によってはじめて公的な性格を付与されることとなった。権力自体も仏神の加護によって、ようやく「公的」権限を行使しえる時代であった。戦国の争乱は、現代の我々が描きがちな、公に対する私の反逆、私に対する公の征伐という構図で理解すべきではなく、私であり同時に公である諸集団どうしの、存在をかけた戦いだったのである。その意味で「血染めの名号」は、まさに中世的時代相を伝える最後のものであった。もっとも幕藩権力の側では、仏法の独自性、権力の私的性格をそのままにしておいて良いとは思っていなかった。幕藩権力は、新たに「天」の思想を構築し、天の下での新たなる公的存在を主張していった。仏法はもはや、それとは独自に存在することは許されなくなっていった。仏あるいは神に保障されてきた一揆も、天の道に反し、忌まれ、禁ぜらるべき謀反とか私的な反乱との認識が徐々に形成されてくる。仏神の絶対性の終焉、それは一揆の時代の終焉であり、中世の終焉であった。(『一向一揆論』一七一~一七二頁)

 すなわち、宗教の時代である中世においては、本来的に私的性格を帯びているさまざまな勢力は、仏神の加護によって公的な性格を付与され、そのことによって公的権限も行使できることになりました。ですから権力者は公的な性格を付与する仏法の独自性を否定し、権力の私的性格を克服するために、新に「天」の思想を構築し、仏神に保障されていた一揆を禁ぜらるべき謀反や私的な反乱に落とし込むことで、仏神の絶対性を終焉させようとしたといわれます。
 よって、「戦国の争乱は、現代の我々が描きがちな、公に対する私の反逆、私に対する公の征伐という構図で理解すべきではなく、私であり同時に公である諸集団どうしの、存在をかけた戦いだったのである。その意味で「血染めの名号」は、まさに中世的時代相を伝える最後のものであった。」と述べています。
 さらに金龍は「聖徳太子」について、次のように述べています。

 戦国期一向衆は、「平和」の守護神たる「聖徳太子」によって、外敵から護られていた。本願寺は当初、細川晴元方の依頼に応じたが、「なぜ細川なのか」と自問する時、晴元の祖父政元が「聖徳太子ノ化身(中略)当流ノ守護」といわれていた点に注目される。太子像の安置場所は内陣右=北余間である。石山坊とそれに隣接する法安寺は、天王寺の北東部=鬼門に位置する。本願寺の用いる太子像は一六歳像だが、その讃文から見て、用明天皇の病気快癒祈願の孝養像でなく、廃仏派物部守屋の調伏像たることは明らかである。太子=細川氏は仏敵にたいする本願寺の守護者、という意識が潜在的にでも存在していたのであろう。(『一向一揆論』一九九頁)

 今日、浄土真宗のほとんどの僧侶、門信徒は、本願寺や一般寺院に奉懸される太子御影を、「用明天皇の病気快癒祈願の孝養像でなく、廃仏派物部守屋の調伏像たる」聖徳太子と認識してはいないと思います。ちなみに経谷芳隆『本願寺風物誌』には、「本山に奉懸の太子御影のおすがたは、太子十六歳の守屋誅伐の絵像で、有髪俗體に袈裟を召され、柄香炉をさゝげたもう三宝頂礼のおすがたである。そして、その賛銘の文は、磯長御廟に太子自ら埋められた瑪瑙石記文(太子の未来記とも言う)の最初の一節、「吾為利生出彼衝山入此日域降伏守屋之邪見終仏法之威徳」の御文であつて、これは、一般末寺でも同じであると思う。」(同七六~七七頁)と記しています。
 蓮如開版『高僧和讃』の最後に七高僧の名と聖徳太子の名が列記されています。しかし、専修寺本には七高僧と聖徳太子の名の列記はありません(『増補 親鸞聖人真蹟集成』第三巻参照)。蓮如の「廃仏派物部守屋の調伏像」についての認識は定かではありませんが、蓮如には聖徳太子の名を記した明確な意図があったはずです。
 覚如は『御伝鈔』の「蓮位夢想」にて「聖徳太子、親鸞上人を礼したてまつり」(註釈版一〇四六頁)と、聖徳太子に親鸞を拝ませています。
 「廃仏派物部守屋」については、江戸時代後期の宗学者においても、明確に認識されていました。徳龍(1772~1858年)は『高僧和讃』の最後に七高僧の名と聖徳太子の名が列記(註釈版五九九頁)されている理由について、次のように述べています。

 この七祖太子の名を列ねたまふは、三朝能弘の相を記したまふなり。さてこゝに列ねたまふは何故そなれば、先づやすく七祖の三朝に現はれたまふことを弁へ示したまふ。聖徳太子の御名を挙けさせられて、此の日本に念仏一門ことに広まらせらるゝことを顕はしたまふ。時に高僧和讃なれば、七高僧を列ねたまふ道理は明かなれども、別に御讃文もなき、聖徳太子を挙けたまふは如何そといふに、此の聖徳太子日本に現はれて仏法弘通したまはねは、源信源空と現はれ出てさせられても、たやすく念仏の法りを弘めたまふへき様なし。(中略)さて今列名に付き、高僧の列名は先に和讃あれは、其の道理明かなれども、讃文もなき聖徳太子を挙げたまひしか心得難しといふ不審より、種々に申しなすことなれとも、今私に案するに、これは讃文の有無にはあつからす。滅後弘伝の相を示し玉ふなり。如来滅後三朝に七高僧あらはれ玉はすんは、何によりてか弥陀弘願の法門を聞くことを得ん。たとひ天竺支那にはその機縁熟して、其の高僧現はれ玉ふとも、此の日本に念仏の広まる源は、聖徳太子の御時に、その仏教おこり、殊更に仏教破滅の大悪逆、守屋の大臣なといひし種々の魔障をなせしものを、みな対治して仏教を弘め玉ひしが聖徳太子の恩徳なり。故に祖師上人は和国の教主聖徳皇と讃嘆して、この太子の仏法御弘通は太子の御傳等に記すことは、人みな知るところなり。しかるに今高僧と太子との別は、太子はこの日本の政をとりて王法を本とし玉ふ。(中略)故に七高僧は仏法を弘通し、太子は王法をもて導き、今日朝廷を始め、下庶民の則として、今日やすくいたし居るは、みな太子の定めさせられたる掟なり。これ即ち大経の所説、王法をもて仏法を弘め、仏法をもて王法を守る御説相。常に申す如し。(『高僧和讃講義』、『真宗全書』第四一巻四八二~四八四頁)

 徳龍は「此の日本に念仏の広まる源は、聖徳太子の御時に、その仏教おこり、殊更に仏教破滅の大悪逆、守屋の大臣なといひし種々の魔障をなせしものを、みな対治して仏教を弘め玉ひしが聖徳太子の恩徳なり。」と述べ、さらに「七高僧は仏法を弘通し、太子は王法をもて導き」と、真俗二諦の世俗倫理を説いています。
 江戸時代後期に生きた徳龍は、「仏教破滅の大悪逆、守屋の大臣」を「対治」した「聖徳太子の恩徳」を讃嘆しても、「一揆」は「公に対する私の反逆」であり、「禁ぜらるべき謀反」と映じたことでしょう。まさに徳龍は、「七高僧は仏法を弘通し、太子は王法をもて導き」と、「仏法の独自性を否定し、権力の私的性格」を補佐する意味において、「仏法」や「聖徳太子」を解釈したのでした。
 一つの仮説ではありますが、「私であり同時に公である諸集団どうしの、存在をかけた戦い」をした蓮如にとって、まさに「聖徳太子」は「平和」の守護神であり、ゆえに『高僧和讃』に七高僧の名とともに「聖徳太子」の名を列記したのではないでしょうか。
by jigan-ji | 2016-05-24 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[202]     2016年 05月 16日
 補遺[154] 学的誠実さについて②―「元祖吾祖を流罪させたは「念仏成仏はこれ真宗」と知らざるゆえ―

 補遺[153](正信偈講読[201]2016年5月7日)を補足します。

 大江淳誠は『教行信証』「後序」の解説のなかで、「後跋の文は、承元の法難もでてはおるけれども、それをいうためではない。いかに恩師法然上人のお徳が大きく、浄土宗がおこってきたかということをおっしゃるのです。」(『教行信証講義録 下巻』一一二一頁)と述べました。
 しかし、了祥は『正信念仏偈』「善導讃」の「矜哀定散」の句を釈するに、『高僧和讃』「善導讃」(註釈版五八九頁)の「大心海より化してこそ」と「世々に善導いでたまひ」の二首に、善導・法照の名を出した「善導和讃の意」や「深義」について、「元祖吾祖を流罪させたは「諸寺の釈門真仮を知らず」「万行諸善はこれ仮門」、「念仏成仏はこれ真宗」と知らざるゆえ」と主張しました。
 なお、以下の引文中に差別的な表現がありますが、歴史的資料として原文のまま引用しますのでご留意下さい。

 大心海より善導と出て一度大心海へ帰り、又二度三度同じ大心海から出る後善導は法照少康というこころ。ときにここに又いはずして吾祖のふかい手ごとあり。さてこの和讃など文の上ばかりみて本へかけぬというはずさん千万。それは少康は別に書なし(『往生西方浄土瑞応刪伝』は少康と文諗の共撰といわれるが、異説もある。『浄土真宗辞典』参照。池田注)、法照は『五会法事讃』あり。『和讃』又は『二門偈』に善導の下に「念仏成仏是真宗」(『浄土和讃』「大経讃」註釈版五六九頁、『高僧和讃』「善導讃」(註釈版五九二頁)は「念仏成仏自然なり」とある。『二門偈』(註釈版五五〇頁)には「念仏成仏する、これ真宗なり」とある。池田注)とある、それがもと善導の言ではない。後善導じゃによりて法照の言(『浄土五会念仏略法事儀讃』註釈版一七二、一八七頁・池田注)を前善導にして善導が「念仏成仏是真宗」と仰せられたとのぼさせられたもの(善導は往生後も、法照や少康と姿を変えて現れたという。『唯信鈔文意』註釈版七〇四頁参照・池田注)。先ずこの念仏成仏の念仏から名号の功徳の功徳蔵をひらきてぞという言が出たもの。これ一々筋のあること。さてその法照の『五会讃』、真宗正法ということを推し立てて念仏が真宗正法ということをはりきりてある。そのつぶさな文は『行巻』に出てある(聖典一七九頁)。それに「何者名之為正法若因道理是為真宗好悪今時須決択(なにものをかこれを名づけて正法とする。もし道理によらばこれ真宗なり。好悪今の時すべからく決択すべし。註釈版一七二頁)」とて持戒坐禅万行万善これ真宗の正法にあらず、念仏のみ真宗の正法と出ておる。そこを取意して万行諸善これ仮門というたもの。さてその前の文に仏の出世本懐が出してある。そこをとって「諸仏の本意とげたもう」(註釈版五八九頁)とあげたもの。この「とげたもう」などの言、解してみてもそこずみがせぬこと。しかるに本へつけてみると、先ず善導は古今楷定とて古来の諸師を破しつぶし、機を凡夫と定め、法を念仏に決して弘願他力をみがきたてる。又法照は万行諸善と念仏成仏と相対して真仮を決着す。かくの如くみがき決着して弘願他力の念仏成仏を顕わす意味じゃで諸仏の本意とげたまふと仰せられたもの。
 さてここに法照少康を出して真仮をみがきたてる様子を仰せられる文、深義あり。それは先、元祖吾祖を流罪させたは「諸寺の釈門真仮を知らず」(註釈版四七一頁参照)「万行諸善はこれ仮門」(註釈版四一三・五六九頁)、「念仏成仏はこれ真宗」と知らざるゆえに執れたもの。その真仮をしらぬ盲人聾者にきかするがこの讃、その盲人聾者の中で殊更やかましいが天台、その比叡山に慈覚大師常行堂をたてて念仏すゝめる、その念仏が法照禅師が御開山(法照の五会念仏を最澄の弟子であり、第3代天台座主の慈覚大師円仁が唐より伝えた・池田注)、善導大師が根本。これに依って天台盲人ともにきかせてやるは善導法照でなければならぬ。ゆえにこの二首の讃に善導法照を出してそちらで敬う善導法照こうじゃがどうじゃときかせたもの、まずこれが善導和讃の意。この二首の意味を合わせてこの『正信偈』をみると、善導を「独明」「矜哀」と仏なみに御取扱の思召がよくわかるでまずこの和讃の意を弁ずべし。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―善導篇―』三三八~三三九頁、並びに三八〇頁も参照されたい)

 二首の和讃に善導・法照の名を出した「善導和讃の意」や「深義」は、「聖教は句面のごとくこころうべし」(『蓮如上人御一代記聞書』註釈版一二六〇頁)や「文々句々の解釈」からは知られないでしょう。了祥は「すべて文句を解するより学問はこのような利筋をみるが大事」(『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―善導篇―』三七五頁)とも述べています。まさに「善導和讃の意」や「深義」は、了祥の「私」と「歴史」の視点に依拠した解釈に思います。
 福嶋の語った「〝護教〟とはその誤りをただすこと」(「現代教学樹立の前提」)の「誤り」とは、「聖教は句面のごとくこころうべし」や「文々句々の解釈」の誤りを正すという意味ではなく、「私」と「歴史」を具体的に課題とし得ない方法を正す意と理解する必要がありましょう。
by jigan-ji | 2016-05-16 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[201]     2016年 05月 07日
 補遺[153] 学的誠実さについて―「〝護教〟とはその誤りをただすこと」―
 
 かつて金子大栄は、「思ふに文々句々を解釈することは、古典を読むために必要な基礎であるとはいへ、それは唯だ理解の初歩たるものに過ぎない。然るにその文々句々の解釈を行ひつゝ、聖教の全意を明らかにしようとするところに宗義学の特殊の妙味があるのである。」(金子大栄『正信偈講読』「序」、一九四九年)と述べました。「文々句々の解釈」は「古典を読むために必要な基礎である」が、それは「聖教の全意を明らかにしようとする」ものでなければならないというわけです。
 また、佐藤三千雄は「教学には、なんら現象的な地盤をもたずに、自由かってに概念的な構成を事とする傾向がある。そして、それがしばしば深遠な哲理であるかのように思われる。筆者はその類の論理にあまり興味がない。」(佐藤三千雄『生活の中の信仰』「はしがき」、一九八三年)と述べました。「現象的な地盤をもたずに、自由かってに概念的な構成を事とする」とは、換言すれば、「私」と「歴史」の欠落ともいえましょう。
 三木照國は、「龍大で学ぶ近世以来の宗学には「私」という領域が欠落し、(中略)金子・曽我師の教学には「歴史」が欠落している」(三木照國『教行信証講義-教行-』「はしがき」、一九八六年)と述べました。
 この「宗学」における「私」や「歴史」の欠落の原因は、真宗史において「三業惑乱」以降の「伝統宗学は、実は近世末からの新宗学」であり、「宗学に歴史学的視点を導入することに強い拒否反応を示す風潮」(金龍静『一向一揆論』、二〇〇四年)がある、との指摘からも推察されます。
 思うに、「近世末からの新宗学」たる「伝統宗学」に依る『正信念仏偈』の講録の多くは、「文々句々の解釈」を金科玉条とし、「現象的な地盤をもたずに、自由かってに概念的な構成を事」とした教学的営為に陥りがちであり、「私」と「歴史」に関する「危ない箇所はほとんど削除」(中島岳志「親鸞思想はなぜ超国家主義へと接続したのか」『浄土真宗総合研究』第九号、二〇一五年)したかのごとき解説になっているように思います。言い換えれば、一部の講者を除き、多くの講者は「危ない箇所」や危ないテーマを意図的に避けた解説になっているということです。「私」と「歴史」の欠落の要因の一端が、ここからも知られます。
 ちなみに大江淳誠は『教行信証』「後序」を解説して、次のように述べています。

はじめの方に承元の法難が書いてある。だがあれは法然上人の非常なお徳によって日本一州悉く浄土教が盛んになったということ、それがために興福寺の学徒が上訴をしてああいうことになったとなっているのだが、だいたいがこれは法然上人のおてがらを述べられた。法然上人の大きなお徳で、日本に浄土教が盛んになったということをいわれるのです。死罪・流罪のことを書いてあるけれども、それをいうためでないので、法然上人のお手がらをご讃嘆になる。(宗学院創立五十周年記念出版・大江淳誠和上宗学院講義録『教行信証講義録 下巻』一一一〇頁、一九八四年)

真影図画、製作書写、後述の文はこれを書くためです。承元の法難が書いてあるけれども、それは法然上人の大きなご功績によって日本一州に浄土教が広まったということをいわれるのです。それで他宗の者がいろんなことをいうて、あのような朝廷に上訴をして死罪・流罪のような悲しいことがおこったというのだけれども、それをいうためではないで、それは法然上人のご功績をいうためなのです。(『同上』一一一〇~一一一一頁)

後述の文は承元の法難やら、そんなこと書いてはあるけれども、意味は法然上人の尊いおぼしめしをうけた。承元の法難は何のために書いたか。恩師法然の功績を讃嘆する。(中略)後跋の文は、承元の法難もでてはおるけれども、それをいうためではない。いかに恩師法然上人のお徳が大きく、浄土宗がおこってきたかということをおっしゃるのです。(『同上』一一二一頁)

近頃問題にされている『菩薩戒経』の文、いろんなことを書いてあっても、あそこは鬼神をおがまんということを書いてあるのです。天神地祇をあがめたり、方角をみたり、吉時良日をみたり、こういうことは仏法でないという。邪義だという。あれは邪義をいましめてある。ついでに国王や父母の文がでてきたからといって妙なことをいう。現代は現代の解釈であればよい、それはまた別の立場でやる。それなら別にまたいわねばならん。祖師のおぼしめし、祖師の引文は何もそんなことでない。あそこは鬼神を拝むなということを書いてある。というようなことを、文は全く総合的に全体を総合して考えていかねばならんのです。ただそこだけみて勝手なことをいうと、とてつもないことになる。まあその辺のことを考えておかねばならん。これで『教行信証』の後述の文を窺った。(『同上』一一二一~一一二二頁)

 大江にとっては「承元の法難」の「死罪・流罪」の記事は、『菩薩戒経』の「国王や父母の文」とオーバーラップして、よほど「危ない箇所」に映じたようです。
 大江も参照した本願寺派宗学院編『本典研鑽集記 下巻』は「後跋」の解説中にて「承元の法難」や「死罪・流罪」についての言及はなく、「この一段の歴史的研究に至つては更に他日の考察に譲り、茲には詳説せず、読者幸に之を諒せ。」(『本典研鑽集記 下巻』五六〇頁、一九八二年複刻三刷、初版一九三七年)の一行でかたづけています。
 福嶋寬隆は「親鸞の信仰を形骸と化さしめることによって成立する江戸宗学をほとんど唯一絶対の教学とし、それをあたかも私物化したようなかたちで〝学階〟を扱い、江戸宗学的枠組みからはずれたところで教学する者があろうものなら〝異安心〟の名のもとに恫喝して羞じないような、そのような真宗学界の雰囲気は徹底的に打ち破られねばならないであろう。」「信仰者としてかたくななまでに誠実であろうとする姿勢こそは、私たちがこれから取りくもうとする現代教学樹立のための前提として重要であるばかりでなく、少なくとも近代以降の真宗にもっとも欠けていたものである」「そのありようを多少とも批判されようものなら、与しやすしとみるや頭ごなしに罵倒しかねない、それでいて手に負えそうになければ沈黙・無視をきめこむ、そのような人びとによってなされているあの真宗学、みずからを一私見として対象化し得ず、厚顔にも無謬性を主張してやまない真宗学である。」(福嶋寬隆「現代教学樹立の前提」初出は伝道院研究部編『真宗教学研究(第一集)』一九七一年、『歴史のなかの真宗―自律から従属へ―』二〇〇九年)と述べました。「現代教学樹立の前提」として、まさに「学問・研究の態度、ひいては生きる態度における誠実さ、真剣さ」が大切であるというわけです。
 親鸞は『教行信証』「後序」を生涯削除することはありませんでした。『教行信証』「後序」の「予其一也(予はその一つなり)」(註釈版四七一頁)の名告りは、「斬新にして真剣な、自己の生存をかけたが故にのっぴきならないところからの問題提起」(福嶋寬隆「現代教学樹立の前提」)であるにもかかわらず、本願寺派のいわば公的な『教行信証』の解説書で、「この一段の歴史的研究に至つては更に他日の考察に譲り、茲には詳説せず」といわれては、親鸞もさぞ苦笑を禁じ得ないでしょう。
 『正信念仏偈』の学び、さらにいえば親鸞思想の学びのためには、「古典を読むために必要な基礎である」「文々句々の解釈」をふまえるとともに、「私」や「歴史」を具体的に課題とし得ない「深遠な哲理」や「その類の論理」を弄ぶことなく、「危ない箇所」や危ないテーマをも課題とする学的誠実さが要請されていると思います。福嶋は「〝護教〟とはその誤りをただすこと」(「現代教学樹立の前提」)と述べましたが、まさに至言です。
by jigan-ji | 2016-05-07 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[200]     2016年 05月 01日
 補遺[152] 「独明」の「独」とは―古今楷定の視点と出世本懐の視点―
 
 正信偈講読[36](2013年9月1日)、[133](2015年7月25日)を補足します。

 『正信念仏偈』の多くの解説書には「善導独明仏正意」の「独明」の「独」は、七高僧中の他の六祖に対するのではなく、古今の聖道諸師に対する「独」と、「古今楷定」の視点から解釈しています。しかし、了祥は独自の「出世本懐」の視点から、次のように述べています。

善導独明仏正意等、この初めの一句についてはじめ弁じたところ。深草の『見聞』から三論の学風へ選んで善導の釈体を定めたまではよけれども、この初の句へかかりての弁がちと了簡がちごうたによってそこを弁じなおさねばならぬ。これが文は解すとも(文を解せば)、済んでしまう程のことなれどもその思召について古来の学者皆難儀をするところで、善導が独り仏の正意に明らかなというについて、先ず『六要鈔』は『選択集』の終りに浄土の祖師を選んで、ただ善導一師に依るというを引いて、そこがぐにゃぐにゃとして七祖の外の諸師にえらぶやら七祖の中でまたえらぶやら訳もろくに知れぬように書いてある。その外の末註はみな七祖の中でえらぶではない。唯、浄影・天台等の諸師にえらぶのだと弁じきってある。『帯佩記』もまずこの意。そこで学寮などで法談をするに禁題とて讃題にするなという文のあるなかで、この善導独明がその一で法談の讃題にさえ出させぬほどにやかましいこの一句。よって先に弁じたと落ちつきはかわらぬが、ここはなま半かに解してはおかれぬで、次第を立てて否応のいわれぬように止めをさしておかねばならぬ。それが先ず仏の正意といえば善導ではしれた弘願のこと。その弘願他力は善導ばかりではない、曇鸞は他力の親方。天親は本願力の根本。七祖みな弘願他力をいう人だから善導ばかり仏の弘願他力に明らかなとはいわれぬ。そうかと思えば七祖並べた真ん中に独明といえば善導独りに限ったこと、独明の言に善導に限っていてこころは七祖みなにあるで、そこで古来の学者がもやもやするところ。これがここに限らずものごとはその大体の目がただ散ると何もかも迷うて散るもので、先に弁じた如く、如来の出世本懐ということ。吾祖にはもっぱらあり、元祖にもそこそこあると、元祖までは仏の出世本懐を推し立てたもうというところまでは古来の学者もいうことだ。その元祖のもとは『般舟讃』はまだご覧なされぬで『法事讃』の文によって善導の釈で『略要文』には出世本懐の別の一章が出てあり、勢観の『隨聞記』にも『法事讃』の文で出世本懐を仰せられてあると、善導が本懐のもとだと、気がついてみれば龍樹天親曇鸞道綽どこにも出世本懐のことはない。善導にばかり(ある)のじゃによってなる程体は弘願なれども仏の出世本意といいたてたは善導ひとりじゃと、出世本懐のもとの善導じゃということが知れれば迷うものはない。そこが知れぬによって古来まごついたもの。よって私の了簡、弘願は七祖みないえども、それを仏の出世本懐じゃとはじめていうたが善導ゆえに独明仏正意と讃歎すると見定めるが私の了簡。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―善導篇―』一一~一二頁)

 多くの解説書のように「仏正意」を「古今楷定」の視点から解釈すれば、「独明」の「独」は、古今の聖道諸師に対すると解釈すべきでしょう。しかし、了祥のように、「弘願は七祖みないえども、それを仏の出世本懐じゃとはじめていうたが善導」と「出世本懐」の視点から解釈すれば、「独明」の「独」は、七高僧中の他の六祖に対する「独」と解釈することも可能に思います。了祥は、また、「善導独明の一句は(中略)善導ばかりが釈迦諸仏出世の本懐の正意を明かしたと標するこころ」(『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―善導篇―』一四八頁)とも釈しています。
 しかし「善導讃」八句の内容は『観経』の意であり、その意味からすれば「独明」の「独」は、「古今楷定」の視点から解釈したほうがよいのではないかと思います。
by jigan-ji | 2016-05-01 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[199]     2016年 04月 30日
 補遺[151] 日蓮が悪くいい柳の木の自害坊にした
 
 正信偈講読[36](2013年9月1日)、[133](2015年7月25日)を補足します。

 親鸞は『尊号真像銘文』に「善導の別徳をほめたまうていはく、「善導は阿弥陀仏の化身なり」とのたまへり。」(註釈版六五五頁)と釈し、『高僧和讃』「善導讃」には「大心海より化してこそ 善導和尚とおはしけれ」(註釈版五八九頁)と、善導を「阿弥陀仏の化身」と尊崇しています。
 しかし、善導の伝記に関して、善導は柳樹より身を投じて自絶したと捨身往生が伝えられるものがあります。
 それは『続高僧伝』(『唐高僧伝』『唐伝』ともいう。貞観十九年・六四五年成立。池田注)第二十七遺身篇の「時に光明寺に在りて法を説く。人あって導に告げて曰く。今、仏名を念ぜば定んで浄土に生ずるやいなや。導曰く。仏を念ぜば、定んで生ず。その人礼拝おわりて、口に南無阿弥陀仏と誦し、声声相次いで光明寺の門を出て、柳樹のうえに上がり合掌して西に望みてさかさまに身を投じ、下りて地に至って遂に死ぬ、事台省に聞く。」(『大正大蔵経』第五〇巻六八四頁)の内容を、宋の戒珠の『浄土往生伝』や王古の『新修往生伝』等に善導が捨身往生したと誤伝したものです(『七祖要義』六九頁、普門『發覆』二一八~二二〇頁参照)。
 仰誓や了祥は善導の「柳樹投身之事」に関する諸伝記を挙げて吟味しています(仰誓『夏爐』一六五頁、濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―善導篇―』二七頁以下)。
 村上速水は、「大師の伝記は種々あるが、なかんづく道宣(五九六~六六二)の著わした『続高僧伝』は大師の生存中の成立でもあり、最も信憑できる。南山律の開祖道宣が、自身より十七年後輩であり、かつ生存中の善導大師の伝記を『続高僧伝』に収録した事実は、以て大師の徳を証するに足る。」(村上速水『正信念仏偈讃述』一七一頁)と述べています。
 さらに佐藤成順は『続高僧伝』「遺身篇」の会通伝について、次のように解説しています。

『続高僧伝』は南北朝時代から隋・唐初の仏教者の伝記であり、道宣の自序によると、貞観十九(六四五)年に一応完成した。しかしその後、加筆増広されていて、善導の伝記を載せる遺身篇の会通伝は、貞観二十三年までに加筆された部分である。会通伝に会通が貞観末年に焼身したという。貞観は二十三年までであるので貞観末年を二十三年とし、この時善導伝も記されたとすると、善導は三十七歳の壮年期であり、伝記を書いた道宣は五十四歳である。(中略)善導伝を収録する会通伝は「遺身篇」に収めている。遺身は、身を捨てることであり、『法華経』に、「仏を供養するには身をもって供養するにはしかず」(薬王菩薩本事品)と説くのに由来して、中国では実際に、護法のための捨身供養が行われていた。儒教でも仏教でも自ら命を絶つことは否定されるが、しかしその実例は多く、僧伝では、護法のために身を捨てた僧の伝記を集めて遺身篇と名づけている。この伝記の主人公の会通という僧は、終南山の豹林谷に棲み、仏法の供養のために『法華経』の薬王菩薩本事品を読誦しながら焼身したという。この会通伝の末尾に付け加える形で善導の伝記に言及している。それは善導の信者の中に遺身者がいたからであり、遺身の一事例として善導に言及したのである。道宣は、自分より十七歳も年少の善導という、当時まだ無名の山僧が長安で多数の信者を集め、ついに繁華街に近い光明寺で投身自殺まで起こした。道宣は、この事件を聞いて驚きの念をもって善導に注目し、善導伝を書いたのであろう。善導を高僧として讃える意図で書いた伝記ではない。それがかえって善導の実像を伝えている。善導はこの事件で名を知られるようになったと思える。(佐藤成順『善導の宗教―中国仏教の革新―』浄土選書34、二〇〇六年七月一日、七六~七九頁)

 村上や佐藤の解説からも、善導が生存中の伝記に記載された、柳樹より身を投じて自絶したとの、善導の捨身往生説は誤伝であることは明らかです。
 この善導の捨身往生説について、了祥は善導を「柳の木の自害坊にした」のは日蓮だといい、次のように述べています。

『戒珠傳』(戒珠『浄土往生伝』・池田注)、善導を柳の木から落ちて死んだ人にするはもと『唐高僧傳』(『続高僧伝』・池田注)も別に善導の伝はない。(『唐高僧伝』の・池田注)遺身篇の会通の下に善導が出て(大正㊿六八四頁上)、その善導の教化で門前の柳の木よりおちて無理死して往生をいそいだ者があるとあり、それを偽せかざりして善導のことにくっつけて日蓮が悪くいい柳の木の自害坊にしたのだ。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―善導篇―』三七頁)

 この善導の捨身往生説は、創価学会教学部編『仏教哲学大辞典』(昭和四十八年七月十七日、三版)の「善導」の項にも採用されています。

ぜんどう【善導】 中国唐時代の浄土宗の僧(六一三―六八一)。善道ともかく。道綽の弟子。出生は臨淄(山東省)というが、一説には泗州(安徽省)ともいわれ、明らかではない。姓は朱氏。幼時に密州の明勝法師について出家し、法華経、維摩経を学んだが、たまたま仏寺中の西方変相の絵を見て浄土に生まれようと願い、後具足戒を受け、妙開律師と共に経典をさがしたあげく、観無量寿経を得てそれに専念するようになった。その後、西河の玄中寺におもむき、道綽の弟子となり、観無量寿経の講を受け、修行して念仏を行じた。のち終南山妙(ママ)真寺、長安の光明寺等を転々としながら、人々に称名念仏をすすめ、三十年間、浄土の法門を演説した。しかし、そののち、ついに気が狂い、寺の前の柳の木に縄を掛けて、自殺をはかり極楽往生を願ったが、枝が折れるか縄が切れるかして地面に落ち、腰を折って十四日間苦しみぬいて死んだと伝えられている。おもな著書としては、観無量寿経疏、往生礼讃、般舟讃、観念法門等があり、浄土宗の教義を整理している。これらの教義は、釈迦一代聖教の方等部であり、四十余年の説では権経方便の教えである。無量義経(八八㌻、日蓮大聖人御書全集等の㌻・池田注)に「四十余年には未だ真実を顕さず」とある。しかるに念仏者達は、三部経以外の教えをみな雑行、雑修となし法華経を誹謗している。故に念仏は無間地獄の法である。この念仏を信ずる者には、往生を願って自殺する者が絶えなかった。しかし善導の死相によって、念仏者の極楽往生は虚偽であり、むしろ末路は無間地獄に堕ちることを証明したのである。下山御消息(三六一㌻)には「されば念仏者が本師の導公は其中衆生の外か唯我一人の経文を破りて千中無一といいし故に現身に狂人と成りて楊柳に登りて身を投げ堅土に落ちて死にかけて十四日より二十七日まで十四日が間・顛倒狂死し畢んぬ」とある。(『仏教哲学大辞典』第四巻一九五~一九六頁)

 了祥は「すべて学問というはただものを解するばかりではない。心を正理に決して嘘ついたことに動かぬが学者の心中。今この善導の伝のことなども真偽を決して正説をみるが学問なり。」(『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―善導篇―』一〇四頁)と述べています。
 善道は「ついに気が狂い、寺の前の柳の木に縄を掛けて、自殺をはかり極楽往生を願ったが、枝が折れるか縄が切れるかして地面に落ち、腰を折って十四日間苦しみぬいて死んだと伝えられている」は、とても「真偽を決して正説をみるが学問」に依拠した見解とは評せません。
by jigan-ji | 2016-04-30 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[198]     2016年 04月 09日
 補遺[150] 一偈のあらましを科文を知りて心得べきなり

正信偈講読[184]・補遺[136](2016年2月15日)を補足します。

 経論を解釈するにあたって、その文句の段落を分科したものを科文(かもん、科ともいう)といいます(『仏教語大辞典』一五一頁)。
 善導は『観経』の要義を示して古今を楷定するにあたって、諸師の分科である序分・正宗分・流通分の三分説に対して一経五分説(序分・正宗分・得益分・流通分・耆闍分)を立て(七祖篇三三五頁)、さらに序分を二序七縁、三序六縁に分科して『観経』を解釈しました(『七祖要義』七六~七八頁)。当然、そこには諸師には通じない分科、言い換えれば、善導独自の科文が立てられました。
 了祥は「一偈のあらましを科文を知りて心得べきなり」といい、『正信念仏偈』の科文を「佛法僧の三宝に分けてみる見方」と「教行信証の四法へ割りつける事義」を取り上げ、次のように評しています。

 この偈を佛法僧の三宝に分けてみる見方がある。その見方は初めから一切群生蒙光照までが佛宝なり。本願名号以下難中至難無過斯までが法宝なり。印度西天以下が僧宝なり。吾祖佛法僧の三宝と挙げてそれに御帰依なされる偈文であるとみる見解は智空の説(『正信念仏偈要解助講』・濱田耕生補註より)、そのもとは善導大師の道俗時衆等の帰三宝偈のこころから思いついたもの。これはとんだこじつけで、『正信念仏偈』と念仏を信ずるが当たり前の偈を三宝に帰敬なされるとみては御製作の御意がとんだことになる。さてまた教行信証の四法へ割りつける事義があってその分け方は、初が依経、印度西天以下が依釈と二つに分けて、その依経の中が弥陀と釈迦の二尊に分かれて、弥陀の下で初から一切群生蒙光照までが教、本願名号が行、至心信楽が信、成等覚証が証。さて釈迦の下が、如来所以興出世唯説弥陀本願海が教、五濁悪時群生海応信如来如実言が行と信、能発一念以下がまた信なり。不断煩悩以下が証。印度西天以下の七祖の文も無理に四法へこじつける。これは海東師(慧然『正信念仏偈会鈔句義』・濱田補註より)の発揮で亀陵師(慧琳『正信念仏偈駕説帯佩記』・濱田補註より)もこれを用いられた。これは随分もっともな料簡で全体が教行信証の書の中へ出た正信偈であるによりて四法がなくてはかなわぬこと。さりながら次第もかえずきちきちと四法へあてると無理をいわねばならぬ。(中略)よって細かな訳を二重三重、別に立てていう科あり、よって私にはまず無理をいわぬように一往科を分けておいてその上、細かにいろいろ分けて聞かせる料簡なり。さてその近来講者、四法をやめて立てられた科目また気に入らぬ、そうまた根性悪くひねくり回すに及ぶまいというに、私の料簡ではこの正信偈の文の前の中、あるいは文の前、または『略文類』、または『和讃』これをとくと読んでみると、吾祖の御言葉で科が分かれている、よってもし私の科を非難せばご大儀ながら極楽まで行って難問すべし。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究』三二~三三頁)

 了祥は智空の『正信念仏偈要解助講』の「佛法僧の三宝に分けてみる見方」は「これはとんだこじつけ」と手厳しく評します。さらに慧然の『正信念仏偈会鈔句義』や慧琳の『正信念仏偈駕説帯佩記』の「教行信証の四法へ割りつける事義」は「次第もかえずきちきちと四法へあてると無理をいわねばならぬ」と評し、さらに「四法をやめて立てられた科目また気に入らぬ、そうまた根性悪くひねくり回すに及ぶまい」と述べています。
 よって了祥自身は、「私にはまず無理をいわぬように一往科を分けておいてその上、細かにいろいろ分けて聞かせる料簡なり。」と述べています。
 さらに了祥は、科には「文にしたがう科」と「義にしたがう科」の二通りあるが、慧琳の源信章八句の科は「その理はよけれども文をそこなうの失あり」と、次のように述べています。

『帯佩記』(慧琳『正信念仏偈駕説帯佩記』・池田注)のこころ、この源信の八句(源信廣開一代教から大悲無倦常照我の八句・池田注)を教行信証の四法へ当てる(真全㊴五七四頁上・濱田注)。その当て方に二つあって、一つには初めの四句が教、第五句が行、六七八が現益とする。二つには初めの二句が教、第三句が行信、第四句が行、六七八が現益。かくの如く二法四法へ当てる。全体科を立てるに二通りあって文にしたがう科と、義にしたがう科とがある。その中、義から科を立てるときはかくの如く四法へ当ててよい、さりながらそこに分別のあるはここの文がきっと四法であると四法になづむと無理をいわねばならぬ。今の中、初めの二句を教という、なるほど教のようだが安養はさとりをひらく処だから証にもなる。専雑執心が行信というもよけれども信が体となっておる。よってただこの八句の中に四法がこもっておるというはよい、ここが教ここが行と文できり当てると無理になる。さてまたご本書が四法は四法なれど真仏土を加えると五法になる化身土を加えると六法になる。よって四法にのみなづむべからず。今四法々々というと安養と報土これ真仏土、しかれば五法ありともいうべし。化土は知れた通り化土、これを加えれば六法ともいうべし。よって『帯佩記』の四法へあてたのはその理はよけれども文をそこなうの失あり。また四法になづんで五法六法といわざる不足あり。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―源空・源信篇―』一七〇~一七一頁)
by jigan-ji | 2016-04-09 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[197]     2016年 04月 08日
 補遺[149] 口先では利口そうにあるいは信順といい

 正信偈講読[89](2015年1月6日)の補遺㊷[請求と許諾(その1)]を補足します。

 真宗大谷派の深励は『正信偈講義』にて、存覚の「得涅槃分」についての釈を、「これ六要の釈なれども、吾祖の御釈に合はず。鎮西の義で釈し玉ふいかさま。(中略)爾ば六要の釈は、吾祖の真土の髙判に違する故に、六要の一義として除ておくべし」と批判しました(法蔵館「香月院深励著作集二」一一二頁)。
 深励に師事しその学風をうけた了祥は、本願寺派の安心理解に対して、「口先では利口そうにあるいは信順といい、その信順というが念佛ぎらい、たのむぎらいの信順だからとんだ信順になる」と、歯に衣着せず批判しました。

さて極重悪人の一句は述専修の相。専修というはいかなるものなれば、雑行も雑修も自力もすてて唯称佛だと知らせたもの。かくの如く学問するというも詮ずるところは往生をまちがわぬように研くこと。しかるに下手な者が庭木を作ると丸坊主に切ってしまうようになる。当流の安心がそれで念観自力くさいとてきってしまい、たのむも自力くさいとてきってしまい、念佛と信心まできってしもうた、あとが何がある。弥陀の本願は念佛と信心との他ない。信心念佛をきると本願はなしになる。これ大事のことで当流でも二三十年先にこれがはやり、今、西の御正意というがこのことだ。念佛往生はもとから嫌い、たのむというも三業で、手をやけずってまた嫌い、弥陀の本願丸坊主にきってしもうておる。そこで口先では利口そうにあるいは信順といい、その信順というが念佛ぎらい、たのむぎらいの信順だからとんだ信順になる。また口では利口そうにたのむというもそのたのむというが助けたまえをきらうたのむのだから、ただおたすけと思うくらいのたのむになる。そこで爺や婆々、下手な坊主まで、信順せよ、たのめと仰せられるというて口でたのむといえばそれで御正意のように思う。そのたのめというたのみ、力をしなわす(撓わす)からみると助けたまえと思うは自力。念佛往生も自力、その上のたのみだから本願丸坊主のたのみ。いたりてこの専修のすがたなぞ定散の信を離れ、往生の大事は如来にまかせ一筋に念佛しておる。これが実の他力の信。まことに他力の帰命。この唯称佛名なりを自力くさいと思うと罰があたる。それも一通りの罰ではない、念佛誹謗の有情となって八万劫中大苦悩の罰、他力専修の相は唯称佛名。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―源空・源信篇―』一六九~一七〇頁)
by jigan-ji | 2016-04-08 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[196]     2016年 03月 31日
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 補遺[148] まさに観念としての信心

 正信偈講読[179](2016年1月29日)の補遺(「非意業の信心」について)を補足します。
 1984年5月9日、西本願寺の宗学院において信楽峻麿は、「今日における真宗教学の課題」と題した特別講義を行いました。そのなかで「非意業」の信心理解について、次のように述べています。

 伝統教学においては、真宗の信心とは非意業であると申しております。このことはかつて三業惑乱事件をめぐって、大瀛や道隠らが、功存、智洞の所説を批判するためにいいだしたことで、充分に学問的根拠があっていったことではありません。信心が非意業であるとは、もとより信心とは身業とも口業ともいいませんから、それは三業にあらざるものとして、人間におけるいっさいの経験を超えたものであるということでありましょう。このような信心についての解釈はいったいいかに理解すべきでしょうか。このことについて、かつて昭和四年に、源哲勝氏が『信の意識の考察』という本を著わされました。私は学生時代に図書館でこの本と出会い、大きな刺戟をうけたことがあります。内容はあまり堅いものではありませんが、宗教的体験、宗教意識、宗教的理性などという言葉が多く用いられており、信心を宗教的意識として捉えようとするまったく新しい視点に立つものでありました。このような新しい視点は、そのほかに、わずかながらも当時の真宗教学に芽生えていたことが知られます。龍谷大学はその前身において、すでに明治二十五年に「比較宗教」の講義を設け、三十五年には「宗教哲学」を、四十一年には「宗教心理」の講義を開き、大正九年には独立して宗教学宗教史専攻を開説しております。その点、源氏はもともと仏教学の唯識教学を専攻された学者でありましたが、このような宗教学、宗教心理学にも深くかかわられたものであろうと思われます。しかしながら、注意されることは、この源氏の書物が刊行されてまもなく、昭和六年の『宗学院論輯』の第五輯には、「一念覚不論集」という特集がおこなわれております。その内容は、信心とは意識にあらず、非意業であるという先哲の論文の紹介です。そして翌七年の第九輯には、普賢大円氏の「非意業の研究」という論文が発表されます。このことは、明らかにかかる新しい視点、宗教心理学などに基づいて、真宗信心を宗教的な意識現象、心理現象として捉えようとする動向に対応するものであったことが知られます。この宗学院が伝統教学擁護のために創られたことからすれば、そのことも当然かと思われます。かくして伝統教学においては、いまもって、なお真宗信心とは非意業であると主張されているわけであります。
 しかしながら、今日ではことに人格心理学などの発展もあって、宗教における信心、信仰をひとつの宗教的態度として捉える発想があります。すなわち、信心をうるとは、新しい人格変容、人格成長をとげることであって、まったく新しい人格主体を確立することを意味するというわけであります。ここに信心の性格や、それにともなう救済の構造を見ようとするものであります。私は今日の真宗教学は、このような視点から多くのものを学ぶべきだと思います。しかしながら、だいぶ以前のことですが、私がそのような宗教心理学の研究に触発されて、真宗における信心について、いささかの考察を試みたところ、その時にも、伝統教学の教権からきびしく問われたことがありました。真宗信心とは、非意業であり、他力であって、いっさいの人間的な営みを超えているものだというわけです。しかしながら、私は思うのです。結論的にいうならば、信心というものを非意業として捉え、人間的な営みのいっさいを超えていると考えるかぎり、その信心主体に基づく行動の成立が語られようがありません。その信心は自己の内面的観念的な営みには意味があるとしても、何らの具体的な行動の原理とはなりえないでありましょう。まさに観念としての信心ではありませんか。その点、かかる理解に立つかぎり、真宗者の生活実践においては、つねに真俗二諦論にならざるをえず、信心と実践とは無縁となり、生活実践の原理は、信心以外の他の価値体系を借りてこなければならないでありましょう。過去の真宗教学が、近世、近代を通じ、真宗者の生きざまを教えるにあたって、つねに信心為本に対するに、王法為本、仁義為先を語り、外なる原理に妥協し、それに追随してきた理由がここにあるわけであります。(信楽峻麿『宗教と現代社会―親鸞思想の可能性―』200~202頁、1984年12月10日)
by jigan-ji | 2016-03-31 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[195]     2016年 03月 30日
 補遺[147] 恵心の本意にはかなわねど敬って恵心僧都というまでのこと

 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(『学問のすゝめ』)といった福沢諭吉は生涯、勲章、爵位などの栄典を受けませんでした。
 福沢は「僧侶の身に俗爵位等」は「無用」であると考えていましたから、「本願寺の授爵は何れの點より見るも無益の沙汰にして甚だ感服せざる所」(「本願寺の授爵」『福沢諭吉全集』第15巻456頁)と批判しました。
 了祥は「源信」の「僧都」という「官位」について、「元祖・吾祖・蓮師まで無位無官遁世の形、浄土門の本姿」、「恵心僧都とはいえども弟子の譲りで仕方なしの僧都」といい、次のように述べています。

今の『続往生伝』にも全く源信の望みでないことがみえており、また、長明の『発心集』でみると、源信、ひとりの老母ありてそこへ貢ぎたいと思し召せどもかなわぬ。あるとき公家の招待をうけて御施物をもらわせられ、それを老母に送らせられたれば、老母かえりて大いに怒り、母に地獄の業を作らせことだときびしいご意見から遁世の心しきりになったとある(『発心集』第七巻第八話[清文堂発行本一九八頁]・濱田注)。『法華験記』をみても壮年のときより遁世の思いであったとあって、三十歳になるかならぬかで僧位僧官決してお望みはない。もと御兄弟一男三女でその妹の安養の尼も道心堅固のこと、『拾遺往生伝』にも恵心にもすぐれたとある。また、かの増賀聖も恵心と同門で、これも『発心集』でみれば在所へ法事に衣服を着かざってゆかれたのを母の御意見にあって遁世したとある。また、覚超僧都、これも同門、後に恵心の弟子となる。それも『元享釈書』(巻四、三五丁)に時のおきさき、難産について天子より御請待つをえてもゆかれぬ。これによって九條殿に仰せつけられて九條殿がおいでになってもし参内なくば我も家にかえらずときびしい御催促、そこで詮方なく承知なされ、同じ車にてかえらぬと見て徒歩で参内せられ、加持せられたればたちまち御安産、(帝)大きに喜ばせられ、これも僧都をくだされたがまたうけぬ。逃げてかえられるところをあとから追いかけてうしろから宣旨をよんだ。これよりして覚超僧都と呼んだとある。みなありがたいこと。元祖・吾祖・蓮師まで無位無官遁世の形、浄土門の本姿、しかれば恵心僧都とはいえども弟子の譲りで仕方なしの僧都。それもうるさくてすぐに御辞退。しかるに恵心の本意にはかなわねど敬って恵心僧都というまでのこと。(濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究―源空・源信篇―』105~106頁)
by jigan-ji | 2016-03-30 01:02 | 聖教講読