浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
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カテゴリ:聖教講読   
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正信偈講読[107]    2015年 04月 28日

  浄土宗宗務庁発行『勅修御伝 法然上人行状絵図』(昭和45年7月10日)

 原尾悟編『きりしたんの殉教と潜伏』(2006年12月1日、教文館)

 補遺[59] 「殉教」について

 正信偈講読[105][106]を補足します。

 親鸞は「承元の法難」で流罪になりました。この時のことを『教行信証』「後序」に、「真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。」(註釈判471頁)と記しています。さらに、『歎異抄』「後序」には、「法然聖人ならびに御弟子七人、流罪。また御弟子四人、死罪におこなはるるなり。」(註釈版855頁)と記されています。
 この『教行信証』や『歎異抄』の記述は、「死罪」や「流罪」についての、客観的な事実の記述です。しかし、その後、「承元の法難」の「死罪」について、『法然上人行状絵図』(徳治2[1307]年から約10年の歳月をかけて作ったというのが定説とされている)には、次のように述べられています。

 六条川原にして安楽を死罪におこなはるゝ時、奉行の官人にいとまをこひ、ひとり日歿の礼讃を行ずるに、紫雲そらにみちければ、諸人あやしみをなすところに、安楽申けるは、念仏数百遍のゝち、十念を唱へんをまちてきるべし。合掌みだれずして、右にふさば、本意をとげぬと知るべしといひて、高声念仏数百反のゝち、十念みちける時きられけるに、いひつるにたがはず、合掌みだれずして右にふしにけり。見聞の諸人随喜の涙をながし、念仏に帰する人おほかりけり。(『勅修御伝 法然上人行状絵図』第33巻「上人流罪」、224~225頁)

 また、覚如が制作した法然の伝記『拾遺古徳伝』(1323年)には、次のように述べられています。

 善綽房西意(摂津くににして誅す。佐々木判官[実名しらず]が沙汰と云々)・性願房・住蓮房・安楽房(已上近江のくにむまぶちにして誅す。二位の法印尊長が沙汰と云々)已上死罪、四人。このひとびと誅せらるるとき面々に不可思議の奇瑞をあらはす。あるひはながれいづるところの血より青蓮華出生す、あるひはくびおちてのち合掌をあらためて念珠をくること百八の念珠をもて三遍と。云々 あるひはかうべよりひかりをはなて、おつるところのくび高声念仏十餘遍これをとなふ、あるひはくちより蓮華出生す。種々奇特のことらありけりとなん。(『拾遺古徳伝』巻七、『真宗聖教全書』歴代部737~738頁)

 『法然上人行状絵図』は「死罪」がおこなわれたことを、「見聞の諸人随喜の涙をながし、念仏に帰する人おほかりけり。」と記しています。さらに、覚如は「このひとびと誅せらるるとき面々に不可思議の奇瑞をあらはす。」と記し、「不可思議の奇瑞」を具体的に記しています。
 すくなくとも『法然上人行状絵図』や『拾遺古徳伝』の立場は、時の権力から弾圧を受けた側に立って、言い換えれば、「死罪」を誅せられた側に立って、「死罪」の意味付けをしていることが知られます。つまり「承元の法難」での「死罪」は、決して「犬死」ではないとの意味づけです。
 しかし、自ら「死罪」「成敗」を求め、「死罪」「成敗」を受け入れる論理があります。それが「殉教」の論理です。
 時代は下りますが、浦上(長崎市)のカクレキリシタンは殉教を勧めた文献を伝存してきました。その文献が、寛政2年から7年(1789~1800)の浦上一番崩れ(キリシタン捜索)の際に長崎奉行所に没収され『耶蘇教叢書』として伝わっています。それには「マルチリヨノ勧メ」「マルチリヨノ心得」「マルチリヨノ鑑」が収められ、当時、キリシタンの間にはマルチリヨ(殉教)が勧められていたことが知られます。「マルチリヨノ心得」は、次のように述べています。

 十三、キリシタン成敗ノ時、他所ヘ落[チ]行キ、カクレ忍[ブ]コト不苦トハ雖[モ]、人有[リ]テ丸血留ノ望[ミ]ニモヘ立[チ]、勧[メ]出[デ]テ害セラレハ、是即[チ]勝レタル丸血留也。故ニ其[ノ]徳モ甚重[キ]也。故ヲ如何ニト云[フ]ニ、有[ラ]ユルコトノ中ニ、第一捨[テ]難キ命ヲ、自油ノ上ヨリイサミ悦[ン]テデウスニ捧レバ也。(原尾悟編『きりしたんの殉教と潜伏』103頁)

 「マルチリヨノ心得」は、キリシタンが「成敗ノ時」、つまり処刑されるとき、他の場所に逃げたり、隠れたりすることは、苦しからずといいます。親鸞も「そのところの縁尽きておはしまし候はば、いづれのところにてもうつらせたはひ候うておはしますやうに御はからひ候ふべし。」(註釈版773頁)と述べています。
 さらに「マルチリヨノ心得」は、もし殉教の希望に燃え立ち、自分から進んで処刑されれば、それは優れた殉教であり、その徳も極めて大きい。なぜなら、あらゆることの中で一番大切な命を、自由意志で喜んでデウスに捧げたからである、と言います。
 親鸞はここまでは言っていないように思います。親鸞は弾圧される側に立って、「死罪」や「遠流」を解釈することはあっても、弾圧される側で「死罪」や「遠流」を他人に勧めることはなかったように思います。
 「マルチリヨノ心得」は、「有[ラ]ユルコトノ中ニ、第一捨[テ]難キ命ヲ、自油(自由意志・池田注)ノ上ヨリイサミ悦[ン]テデウスニ捧」ることが「殉教」であると述べています。
 あらゆることの中で一番大切な命を、自由意志で喜んで自らの信ずる神・仏に捧げることを、弾圧される側で解釈するか、それとも弾圧する側で解釈するかによって、「殉教」と見るか、「自爆テロ」と見るかの境目があるように思います。
by jigan-ji | 2015-04-28 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[106]    2015年 04月 27日

 高木昭良『七祖教義概説』(昭和43年1月10日)

 高木昭良『正信偈の意訳と解説』(昭和47年8月1日)


 補遺[58] 龍樹は殉教したのか?(承前)

 多田鼎の龍樹殉教説は、さらに高木昭良によって弘められます。
 高木は、その著『七祖教義概説』(昭和43年)、並びに『正信偈の意訳と解説』(昭和47年)にて、次のように述べています。

 伝記によると、大士は大乗仏教を顕揚するのあまり、異教徒の迫害にあって殉教されたともいわれ、また一説には、命終の近づくのを知って一室にこもられ、後日、弟子が戸を開いてうかがったとき、大士はすでに蟬脱されていたといわれている。(『七祖教義概説』23頁、『正信偈の意訳と解説』135頁)

 高木は「龍樹の死」について、①「異教徒の迫害にあって殉教された」という説と、②「大士はすでに蟬脱されていた」という説の、二つの説を紹介しています。
 高木の指摘する、②の「大士はすでに蟬脱されていた」という説は、『龍樹菩薩伝」や『付法蔵因縁伝』によることは明らかです。しかし、高木のいう①の「異教徒の迫害にあって殉教された」という説の典拠は示されていません。
 推測ですが、高木の①②の二つの説は、『龍樹菩薩伝」や『付法蔵因縁伝』に語られる「大士はすでに蟬脱されていた」という「龍樹の死」の指摘(即ち②)と、その「龍樹の死」の解釈(即ち①)とを混同して、二つの説としたものと思います。
 こうして、以後、浄土真宗内で、典拠不明のまま、龍樹殉教説が独り歩きすることになったものと思います。

by jigan-ji | 2015-04-27 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[105]    2015年 04月 23日



 補遺[57] 龍樹は殉教したのか?

 龍樹は「殉教」したという説があります。浄土真宗系某会のホームページでも、龍樹の殉教を大きく取り上げています。
 しかし、このいわゆる龍樹殉教説は、管見によれば、明治になって多田鼎が主張し、その後、井上哲雄が敷衍した説のように思われます。
 一般に龍樹の伝記は『龍樹菩薩伝』や『付法蔵因縁伝』(共に大正新修大蔵経第50巻所収)によって語られてきました。
『龍樹菩薩伝』には「龍樹の死」を、次のように語っています。
 
 このとき、ひとりの小乗〔仏教=現代では上座部仏教。以下、一般読者の便宜のため、「小乗仏教」と表記する〕の法師がいて、〔ナーガールジュナに対して〕常にいかりをいだいていた。ナーガールジュナはこの世を去ろうとするときに、かれに問うて言った―「あなたは、わたくしがこの世に永く生きながらえていることを、ねがっておられるのですか」。〔その小乗の法師は〕答えていった―「実は〔あなたの長生きを〕願っていないのです」。そこでナーガールジュナは退いて、静かな庵室に入り、いく日もたっても出て来なかったので、かれの弟子が戸を破って中を見たところが、かれはついに蝉のもぬけの殻のようになって死んでいた。ナーガールジュナがこの世を去ってから今に至るまで百年を経ている。南インドの諸国はかれのために廟を建て、敬いつかえていることは、仏にたいするがごとくである。かれの母がアルジュナという名の樹の下でかれを生んだから、その縁によってアルジュナという語をもって名づけたのである。アルジュナというのは樹の名である。龍がかれの道を完成させたのであるから、龍(ナーガ)という語をもって名づけた。そこでかれの名を「ナーガールジュナ」(龍樹)というのである。(中村元『龍樹』講談社学術文庫、30頁より)

 多田鼎は、その著『正信偈講話』(明治40年7月18日)にて「龍樹菩薩の後年」について言及し、次のように解説しています。

 而して此のいさましき信念の旗をたて、菩薩は印度の中央より、西部及び南部に教化をつたへて、到る處疾風の枯葉を巻くやうな勢であつた。わけて南方印度にあつては多くの国王が之に帰依せられた。彼の猛烈な獅子のやうな迦那提婆が、獅子国、即ちセイロンより来たつて教を菩薩に受けられたのも此時である。かくて菩薩は、伝ふる所によれば頗る長い生涯を送つて、たえず伝道に力を尽くされた。然るに其伝道の盛大は、一方において異教の徒を狼狽せしめ、又恐怖せしめた。それがためであらう、古来殉教といふやうなことを、あまり盛に書き立てない仏教伝記者の常習として、今も明らかには記してをらぬが、どうも此菩薩は異教者の迫害の中に敢えなく終はられたやうであります。而して其臨終の處は、一時、菩薩の伝道の中心であつた南印度の北端コサラの都であつた。菩薩逝きて後南方印度の人々其徳を慕うて菩薩のために廟をたて之に事ふること、ちやうど仏に事へたてまつる様であつたとのことであります。(232~233頁)

 多田は、「古来殉教といふやうなことを、あまり盛に書き立てない仏教伝記者の常習として、今も明らかには記してをらぬが、どうも此菩薩は異教者の迫害の中に敢えなく終はられたやうであります。」と述べています。多田は「龍樹菩薩の後年」にて、『龍樹菩薩伝』『付法蔵因縁伝』に語られる「龍樹の死」について直接言及しているわけではありません。しかし、多田の主張する龍樹殉教説は、『龍樹菩薩伝』や『付法蔵因縁伝』に語られる「龍樹の死」を強く意識した、多田流の解釈に思います。
 この多田流の解釈を、『龍樹菩薩伝』や『付法蔵因縁伝』に語られる「龍樹の死」と結び付け、その「龍樹の死」の解釈の問題として、改めて主張したのが井上哲雄です。
 井上哲雄は、その著『真宗七高僧伝』にて龍樹の「示寂」を、次のように解説しています。

 ○示寂 然るに猶ほ一人の小乗の法師がありまして、菩薩が小乗を貶して大乗の法をお弘めになることを憎んでをりました。菩薩は或時その法師に向つて「お前は俺がいつまでも、生きてゐればよいと思ふか、どうか」とお尋ねになりました。法師は、「いゝや、永く生きてゐて貰ふことはお断りだ」といひました。菩薩はそれきり一室に閉じ籠られて、何日経つても出て来られません。そこでお弟子の方々が戸を破つて御覧になると、はや往生を遂げてをられました。南天竺の人々は、それを聞き伝へて驚き悲しみ、その場に廟を建てゝ、仏跡の如く尊み拝みました。
 この示寂の伝説について某師は、次の様な説明を試みてをられる。〔以下、多田鼎の著から上の文を引用している〕(井上哲雄『真宗七高僧伝』昭和10年4月11日、47~48頁)

 以上から、龍樹殉教説は、明治以降、多田鼎と井上哲雄を介して弘まった説であると思われます。
 ちなみに、今日、石飛道子は『龍樹菩薩伝』や『付法蔵因縁伝』に語られている「龍樹の死」について、次のように解釈しています。

 これが、龍樹の死についての伝記である。菩薩やブッダは人々のために生きる人である。したがって、他者によって請われて生きるのである。かれらの寿命は、みずから自在にできると考えられている。だから、なすべきことをなし終えてしまったら、龍樹にしても、ゴータマ・ブッダにしても、いつこの世から去ってもいいのである。そのとき、誰かが「もっと長生きしてください」と頼むなら、かれらは寿命を延ばしてさらに人々のために教えを説くだろう。しかし、誰も望まないのなら、かれはこの世を去る。部派仏教の法師は、龍樹がこの世に留まることを望まないと答えたので、龍樹はこの世を去った。
 ここで「蝉が抜け殻を残すように」というのは、身体は残して心が身体から去っていったことを意味しているのだろう。つまり、龍樹菩薩の場合、輪廻の生存であることを示している。菩薩は、煩悩を完全に断つことなく気の遠くなるような果てしない年月輪廻を重ねて、ブッダとなることをめざすのである。(石飛道子『構築された仏教思想 龍樹―あるように見えても「空」という』2010年、23頁)
by jigan-ji | 2015-04-23 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[104]    2015年 04月 16日


 補遺[56] 「粟散片州」について

 正信偈講読[43]を補足します。

 道綽は『安楽集』第一大門「教興所由」において、「もし教、時機に赴けば、修しやすく悟りやすし。もし機と教と時と乖けば、修しがたく入りがたし。」(七祖篇182頁)と「約時被機」を述べています。[ちなみに、日蓮は『教機時国鈔』にて「一に教とは(中略)二に機とは、(中略)三に時とは(中略)四に国とは、仏教は必ず国に依ってこれを弘むべし。(中略)日本国は一向大乗の国なり。大乗の中にも法華経の国と為るべきなり。」(『昭和定本日蓮聖人遺文』第1巻241~244頁)と述べています。]
 普門は「真宗教証興片州」を釈するなかで、「興片州は、興は発興なり、弘興なり。片州は、これ上の凡夫人の機を挙ぐ。片州は處を挙げ、下、悪世は時を挙げる。しかれば則ち弥陀の本願は、これ機に順い、時に叶い、處に叶ふ。」(『正信念仏偈師資發覆鈔』真宗全書第39巻244頁)と釈し、また、問答をもうけ、「問ふ。時機に契ふを許すべし。處に契ふは如何なる義や。答ふ。日本神国は仏法流布する大乗相応の地なり。又、天台の云く。故に知る。弥陀、この世界の濁悪の衆生と偏に因縁ある。要決の云く。弥陀の本誓、誓って娑婆を度す云々。弥陀如来、本、娑婆の主となす。何ぞ宿縁を忘れん。つぶさには十因のごとし。また上に述べる云々。」(同244頁)と釈しています。
 さらに、「片州とは日域なり。(中略)周礼、五黨を州となす。注。黨は五百家二千五百家云々。(中略)今、片州とは小国の義なり。これ粟散片州なり。一萬国餘を国と云ふ。萬以下四千已上を中国となす。三千以下七百以上を小国となす。六百以下三百以上、これ小しかして国となさず。しかして日域は六十餘国、百に足らず、島となす。(中略)粟は形小さいに譬える。散は多いの義なり。小国は多にして粟を散らせるごとし云々。片は片雲と云ふごとし。これ小の義なり。」(同244頁)と釈しています。
 普門の「弥陀の本願」は「機」と「時」と「處」の三つにかなうといい、「日本神国」は「大乗相応の地」であるという、「處」の概念の提起は、親鸞にはみられない特色に思います。
 古く周代には「五百家」の集落を「黨」といい、「二千五百家」からなる集落を「州」と呼んだようです。『高僧和讃』「源空讃」には「本師源空世にいでて 弘願の一乗ひろめつつ 日本一州ことごとく 浄土の機縁あらはれぬ」(註釈版595頁)と和讃しています。「日本一州」とありますが、この「州」はここでは国のことで、つまり日本を指します。日本は通常六十四国に分かれ、壱岐と対馬の二国を合わせて六十余州と言われました。中国は四百余州あったといわれます(豊原大成『三帖和讃ノート 高僧和讃篇』251頁)。
 現在の中国でも広州や福州など、州の字を持つ都市が少なくありません。日本でも州と書いて「くに」の意を表すことは、甲斐国を甲州、下野国を野州、上野国を上州などの例があり、九州は豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の九国からなっていました。
by jigan-ji | 2015-04-16 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[103]    2015年 04月 15日


 補遺[55] 「懈慢国」とは

 正信偈講読[40]を補足します。

 普門は「報化二土」を釈するなかで「懈慢国」について、次のような問答をもうけています。

 問ふ。懈慢とは如何なる義や。答ふ。つぶさには下に述べるがごとし。これ人に約し名を得る。問ふ。前後に意を発せる(七祖篇1127頁、三経七祖部898頁)とは何。答ふ。古今の人、往生を望む者なり。問ふ。心不牢の者、深く懈慢に著すれば、浄土に生るとは、途中で懈慢国を見、彼に著すや。答ふ。懈慢とは、平生の業が、彼に熟すゆゑえに、臨終の時、彼の影像が現れるか。しかれば途中で、これを見るに非ざるなり。(『正信念仏偈師資發覆鈔』真宗全書第39巻239頁)

 つまり、普門は、執心不牢の人は懈慢国に生ずといわれるが、懈慢国とは、平生業(=念仏)で浄土に行く途中にあるのかと問い、それに対して、懈慢国は、臨終の時に、その影像が現れるのではないかと解し、よって、懈慢国は浄土への途中で見るものではない、というわけです。
 普門は「懈慢国」を釈するに「影像」という言葉を用いています。普門は「影像」という言葉の定義をしていません。しかし、少なくとも肉体や物質の位相の概念ではなく、精神や霊・魂の位相の概念として用いられているように思います。普門の「懈慢国」は、臨終の時に現れる「影像」という解釈は、近代に生きた金子大栄師の『浄土の観念』の「観念」に先んじた、大変興味深い解釈に思います。

by jigan-ji | 2015-04-15 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[102]    2015年 04月 10日

 『正信念仏偈師資發覆鈔』(真宗全書第39巻221頁)

 補遺[54] 「善導独明仏正意」の句から、なぜ音階が変わるのか?

 今日、「正信偈」のお勤めの時、「善導独明仏正意」の句から音階が変わります。その理由について、普門(1636~1692)は『選択集』を引用して、次のように述べています。

 静かにおもんみれば、善導の『観経疏』は、これ西方の指南、行者の目足なり。乃至 玄義を指授する僧は、おそらくはこれ弥陀の応現なり。しかればいふべし。この疏はこれ弥陀の伝説なりと。いかにいはんや、大唐にあひ伝へていはく、「善導はこれ弥陀の化身なり」と。しかればいふべし、またこの文はこれ弥陀の直説なり。すでに「写さんと欲はば、もつぱら経法のごとくせよ」といふ。この言誠なるかなや。仰ぎて本地を討ぬれば、四十八願の法王なり。十劫正覚の唱へ、念仏に憑みあり。俯して垂迹を訪へば、専修念仏の導師なり。三昧正受の語、往生に疑なし云々。これ則ち伝伝導師を以て本となすゆゑなり。今独明と云ふ、その意知るべし。また宗門は報恩のため、朝夕此の偈文(正信偈・池田注)を読誦す。文類中、善導独明の句に至り、同音を止め、ここにおいて調声は、これを始め、これを誦す。亦此の謂なり。(『正信念仏偈師資發覆鈔』真宗全書第39巻221頁)

 つまり、善導は「弥陀の化身」であり、その本地は「四十八願の法王」(阿弥陀仏)であるから、「善導独明仏正意」の句から調声が音階を変えて誦するというわけです。
by jigan-ji | 2015-04-10 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[101]    2015年 04月 09日
 補遺[53] 「釈迦ノ悲引」か「綽師ノ悲引」か

 正信偈講読[35](2013年8月27日)を補足します。

 「像末法滅同悲引」は、『安楽集』第三大門「輪廻無窮」の結尾に「当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。」(七祖篇241頁)と述べ、同第六大門「経教住滅」において「第三に経の住滅を弁ずとは、いはく、「釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には、衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅す。如来痛焼の衆生を悲哀して、ことにこの経を留めて止住すること百年ならん」(大経・下意)と。」(七祖篇271~272頁)あるに拠ります。
 道綽は『大経』には「釈迦牟尼仏一代の経法は、正法が五百年、像法が一千年、末法が一万年で、その後には、修行する根機がなくなって聖道の諸教はなくなるであろうが、釈迦如来はそのいたましい衆生を哀れんで、殊にこの浄土の経法をとこしえにとどめられるであろう。(大経の意)」(『聖典意訳七祖聖教上』104頁)と述べています。
 親鸞もまた「化身土文類」に「まことに知んぬ、聖道の諸教は、在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は、在世・正法、像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引(斉悲引・池田注)したまふをや。(中略)しかれば、四種の所説は信用に足らず。この三経はすなはち大聖(釈尊)の自説なり。」(註釈版413~414頁)と述べています。
 つまり道綽は「この浄土の経法をとこしえにとどめられる」のは「釈迦如来」であり、親鸞もまた「浄土真宗」「この三経」は「大聖(釈尊)の自説」であると解しています。
 普門はこの「像末法滅同悲引」は、「釈尊之悲引」か「道綽之悲引」かと問答をもうけ、「釈尊、特留此経を以て、今また悲引のゆゑなり」と「釈尊之悲引」と解するとともに、「釈尊之悲引。則道綽之悲引也。」(『正信念仏偈師資發覆鈔』真宗全書第39巻216頁)と述べています。
 しかし深励は従前の解釈に満足せず、「同悲引」は「綽師ノ悲引」であると、次のように述べています。

 此句ニ付テ古来論アリ。コノ悲引ハ釈迦ノ悲引カ、綽師ノ悲引カト云ニ、コレハ綽師ノ悲引ナリ。爾レハ綽師ハ末法ニ入テ十一年ノ后ニ出玉フ。爾ハ像法ノ時機マテ悲引スヘキ筈ナシ。若又綽師ノ所弘ノ法カ、像末法滅同悲引トイハヽ、綽師斗リニ限ラス、七祖ミナ弥陀ノ本願ヲ弘玉フカラハ、綽師ニ限ヘカラスト云ニ付テイロイロノ説アリ。云何心ウヘキヤト云ニ、是コノ一句ノ言遣ヲミレハ、綽師所弘ノ法カ、二時悲引トノ玉フト思レル。ナセナレハ、化土巻ニ云「信知聖道諸教為在世正法而全非像末法滅之時機乃至浄土真宗在世正法像末法滅濁悪群萌齋悲引」(註釈版413頁)。今コヽモ言遣ハ化巻ト同シ。是ハ綽師ニ限タルニアラス、七祖ミナ三時ニ通入スルケレドモ、聖道ノ教ハ在世正法ノ為ニシテ、末ノ代ニ合ヌユヘニ、別シテ像末悲引ナリ。故ニコノ一句化巻ニ対映シテミレハ綽師所弘ノ法ナリ。爾レハ七祖ミナ所弘ノ法ナルニ、綽師ノ下斗リテ云タハ云何ト云ニ、七祖ノ中テ綽師斗ハ別シテ所弘ノ法ヲ引受テ末法ノ時機ヲ悲引スルカ綽師ナリ。ナセナレハ綽師ハ末法ノ初ニ生タ人ユエニ、末法ノ時機ヲ悲引ナサルコト多シ。集上三右云「計今時衆生即當仏去世後第四五百年。正是懺悔修福應称仏名号時」(七祖篇184頁)。爾ハ末法ノ衆生ハ弥陀ノ本願ニ依テ出離スヘシトノ玉フ。又聖浄二門廃立ノ處モ「當今末法現是五濁悪世唯浄土一門可通入路」(七祖篇241頁)ト、コレラモ當今ノ末法ノ時機ヲ悲引シ玉フ。コレハ綽師モト所弘ノ法カ像末法滅同悲引ユヘニ、ソレヲ承テ末法ノ時機ヲ悲引ナサル。若綽師ニモ華厳等ノ法ヲスヽメ玉フナラハ、末法ノ衆生ヲ悲引スルコトナラヌ。所弘ノ法カ像末悲引シ玉フユヘニ。楽集ニタヒタヒ像末ノ時機ヲ悲引ナサルヽコト多シ。綽師ノ後ノ懐感善導モ末法ノ機ヲ悲引ナサレトモ、綽師ホトニハナイ。綽師ハキヒシク悲引サレルヽナリ。綽師ハ末法ノ初ニ出世シ玉フ故ニ、時機ノ劣タコトヲカナシミナケカセラレテ在ス。故ニ悲引シ玉フコト重ナリ。故ニ今、綽師ノ下ニ像末法滅同悲引トノ玉フナリ。(深励『正信偈講義』179頁)

 すなわち、「末法ニ入テ十一年ノ后ニ出玉フ」道綽に、それ以前の正法・像法の二時の衆生を悲引することは不可能です。しかし、「綽師所弘ノ法」は「釈尊、特留此経」の法ですから正法・像法の二時の衆生を悲引することが可能です。しかし、「所弘ノ法」をもっていえば、「七祖ミナ所弘ノ法」は同じですから、「同悲引」を道綽の一段で語る必然性はありません。「同悲引」を道綽の一段で語る必然性について、深励は「綽師ハ末法ノ初ニ出世シ玉フ故ニ、時機ノ劣タコトヲカナシミナケカセラレテ在ス。故ニ悲引シ玉フコト重ナリ。故ニ今、綽師ノ下ニ像末法滅同悲引トノ玉フナリ。」と述べています。
 金子大栄師の「普遍の法と特殊の機」という言葉を依用すれば、「七祖所弘の法」は「普遍の法」といえましょう。この「普遍の法」が、道綽という「特殊の機」を通して、時代・社会に開顕されることによって「綽師所弘の法」となります。深励は、この道綽という「特殊の機」を通して、時代・社会に開顕する方法(=立場)で「同悲引」を釈しています。
 親鸞は「同悲引」「斉悲引」を「釈迦ノ悲引」の立場で解しています。ですから、近年の「同悲引」の解釈、〝「同悲引」とは、同は同じく、等しくの意で、悲引は大悲によって引導する、大悲の導きの意です。つまり、像法、末法、法滅の世にあっては、聖道自力の教えではまったく救われない衆生を平等に大悲をもって、浄土に往生させて仏のさとりを開かせて下さるとの意です〟は、「七祖所伝の法」たる「普遍の法」の立場での解釈で、穏当な解釈に思います。
 しかし、時代・社会の歴史的現実的な課題に向き合い、「キヒシク悲引サレル」「悲引シ玉フコト重ナリ」の時は、「特殊の機」の立場から「七祖所弘の法」(=普遍の法)を解釈する深励の方法(=立場)が不可欠に思います。
by jigan-ji | 2015-04-09 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[100]    2015年 04月 01日
 補遺[52] 因果の二義

 正信偈講読[32](2013年8月21日)を補足します。

 「報土因果」の四字については、報土と因果の二つと見るか、報土の因と報土の果と見るか等々の問題があります(浜田耕生『正信念仏偈の研究』88頁以下)。今は、衆生が浄土に往生する因と果の意で解釈するのが良いと思います。
 従来、この「因果」は二つの意味で解釈されてきました。一つは、報土建立の因果(因位の願行と果上の三種荘厳)であり、二つには報土往生の因果(往生の因と菩提の果)です。
 普門は、「因果は二義有り。一に報土について因果を論ず。二に衆生得生の因果についてこれを論ず。初めの報土の因果は、因はこれ法蔵願心、浄仏国土の行因なり。果は法蔵願心の剋果なり。故に因果共に一願心に在るゆゑなり。論註、仏土の荘厳を釈する時、上、仏の因位に約してこれを説く、下、その果体に約してこれを釈す。故に因果顕誓願と云ふなり。(中略)次に衆生得生の因果についてこれを論ずとは、それ衆生往生の因は、これ第十八願なり。又衆生得生の果は、第十一願ゆゑなり。論註に云く、おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり。いま的アキらかに三願を取りて義の意を証せん云々。この三願は上に述べる。十八・十一・二十二 しかれば則ち生因これ本願なり。得果本願力なり。」(普門『正信念仏偈師資發覆鈔』真宗全書第39巻204~206頁)と釈しています。
by jigan-ji | 2015-04-01 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[99]    2015年 03月 31日

普門『正信念仏偈師資發覆鈔』(真宗全書第39巻203頁)

 補遺[51] 論註解の三字、文言穏便歟

 正信偈講読[32](2013年8月21日)を補足します。

 「天親菩薩論註解」は、曇鸞が天親の『浄土論』に註釈を施したことを指します。迦才の『浄土論』(大正藏経第47巻97頁)には「注解天親菩薩往生論、裁成両巻。」(「浄土五祖伝」拾遺部上480頁)とあります。
 普門は「この一句(天親菩薩論註解・池田注)の文点」について、「或ひは云ふ。天親菩薩の論の註解。この時、註解の二字、能釈の名となすなり。又或点は、論を註解して、この時また上のごとし。二字能釈の名となす。また点に云く。天親菩薩の論註に解す。この時、解の一字、下の七句に蒙し。しかれば六要並びに諸鈔、皆註解と云ふなり。解の字、下の七句にわたる、これを見よ。私の錬磨なり。この義を存す。論註解の三字、文言穏便歟云々。」(『正信念仏偈師資發覆鈔』真宗全書第39巻203頁)と釈しています。
 さらに、恵空は、「論註解とは、或ひは註解の二字、句頭にあるへし。字法前に云ふ如し。又直に釈題名と為す。此の時ハシテトヨマズ。論註解ニトヨムヘシ。」(『正信念仏偈略述』真宗全書第39巻63頁)と釈しています。
 普門は「論註解の三字、文言穏便歟」といい、恵空は迦才の『浄土論』のように「註解天親菩薩論」であるべきだといいます。
by jigan-ji | 2015-03-31 01:02 | 聖教講読
正信偈講読[98]    2015年 03月 26日

 慧琳『正信念仏偈駕説帯佩記』1776年(『真宗全書』第39巻524頁)

 補遺㊿ 「信心正因・称名報恩」について

 正信偈講読[26](2013年8月2日)を補足します。

 「報恩」に関して「信心正因」と「称名報恩」の関係をどう理解すべきかが問題となります。この点について先学は、「従来は信心正因と称名報恩の関係について、信心正因を示さんがための称名報恩であり、称名報恩を示さんがための信心正因であるとせられている。つまり、称名は唯報恩の行業であるのみにして、なんら果に対して力用がないという義が確立して、よく信心正因の義が克明になるというのである。これは、自力の称名を否定するための表現であろうが、このような表現は称名が正定業であることを軽視する誤解を招くこともある。自力の称名を嫌うあまりに、報謝の称名が強調せられ、それがそのまま正定業であることが等閑にならないよう注意する必要がある。すなわち、念仏は正定の業だけれども称える心は報恩であるというよりも、念仏は正定の業なればこそ称える心は報恩でしかないという表現がより適切となるであろう。」(村上速水『正信念仏偈讃述』1985年、130頁)と述べています。
 また、慧琳の「世人動モスレハ念仏マフサント思フハ。自力策厲ナリト嫌フ者アリ。他力ノ信ニ催サレテ。念仏マフサントオモヒタツハ。何カハ自力ノ企ナラン。故ニ弥陀大悲ノ誓願ヲフカク信センヒトハミナ等(註釈版609頁・池田注)トノタマフ。唯能常称ト云フハ此ノ意ナリ」(慧琳『正信念仏偈駕説帯佩記』1776年、『真宗全書』第39巻524頁)との指摘に留意したく思います。
by jigan-ji | 2015-03-26 01:02 | 聖教講読