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<慈願寺について>
![]() ![]() 慈願寺本堂 ![]() 門信徒会館 ![]() 庫裏 名称:粟野山無量光院慈願寺 所在地:栃木県那須郡那珂川町健武1220番地 地図はこちら>> 宗派:浄土真宗本願寺派 本山:龍谷山 本願寺(西本願寺) 本尊:阿弥陀如来(南無阿弥陀仏) 宗祖:親鸞聖人(1173-1263) 教義:阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還カエって人々を教化キョウケする。 [粟野山慈願寺略縁起] 粟野鹿崎に開創 当山は、粟野鹿崎(現茨城県茨城郡城里町)の信願房の開基になる寺で粟野山と号し、阿弥陀仏を本尊とする道場ゆえ無量光院と名づけ、まさしくは粟野山無量光院慈願寺と申します。 当山開基の信願房は、親鸞聖人直弟二十四輩の一人にして、俗姓は清和源氏の末葉、佐竹氏の始祖・佐竹昌義(法名蓮寂)の孫、稲木三河守義清と申し、稲木(現茨城県常陸太田市)の城主でした。遁世して慈清と号し、後に稲田(現茨城県笠間市稲田)の親鸞聖人に拝し、その弟子となり、名を信願房定信と改めました。天福元年(一二三三)、信願房は常陸国粟野鹿崎に道場を建立し、人々に教えを広め、正嘉元年(一二五七)、彼の地にて入寂しました。 健武の道場 健武の慈願寺は信願房の開基にして、釈定念の寄付した旧跡です。 もと健武出身の和久勝介が稲木家に仕え、信願房に随伴して稲田に通ううちに信願房の弟子となり定念と名のりました。貞応元年(一二二二)の春、故郷である健武の地に、親鸞聖人と信願房を招き、七日間の説法をお願いしました。その時に建立したお堂が、後に親鸞堂と呼ばれました。 その後、親鸞聖人は京都へお帰りになりました。信願房、並びに慈願寺第二代信慶法師は、粟野と健武の両道場を、その路を遠しとぜず、父子往来して、み教えを説かれました。 奥州大網(現福島県白河市)の本願寺第二代如信上人は、毎年京都に上洛の往返、道筋にあたる健武の道場に必ず立ちよられました。ちなみに如信上人の廟所は、茨城県久慈郡大子町上金沢(法龍寺)にあります。 本願寺第三代覚如上人の東国御経回の折、慈願寺第三代慈慶法師は粟野より健武の道場にお供し、その時、覚如上人より慈願寺の寺号を賜りました。 その後、慈願寺は兵火などに遇い、粟野、那珂西郡の大山(第三代慈慶法師)、大畠(現常陸大宮市、第四代唯願法師)と寺基を移しましたが、天正八年(一五八〇)、慈願寺第十二代了願法師の代、健武の道場は親鸞聖人しばらく逗留の勝地にして、如信上人、覚如上人も相続いて逗留された、最も尊崇すべき道場なれば、衆議一決して、健武の地に慈願寺を再興することになりました。 昭和・平成の慈願寺 その後、徳川水戸藩の嫌悪仏法、明治維新の廃仏毀釈等の法難、さらに辺鄙の地という地理的環境も妨げになり、寺運衰えたかにも思われましたが、慈願寺第二十四代釈堅昭の代、昭和三十五年(一九六〇)四月十七日に本堂再建、同五十七年(一九八二)二月二十八日に門信徒会館落成、平成元年(一九八九)十月十九日に庫裏落成、そして平成二十一年(二〇〇九)六月二十日、釈行信が慈願寺第二十五代の法灯を継承し、このたび平成二十五(二〇一三)年十二月十日、親鸞聖人七百五十回大遠忌法要記念事業として本堂・廊下屋根葺替工事完成慶讃法要を挙行することになりました。 慈願寺の法宝物 幾星霜幾多の変遷を経て今日に及び、由緒深き道場も幾度か烏有に帰し、今日に伝えられる法宝物は次の通りです。 ・親鸞聖人御筆「六字名号」・親鸞聖人御自作「木像御真影」 ・連座御影(光明品)覚如筆(那珂川町文化財指定) ・親鸞聖人御満足の御影(伝親鸞聖人御筆) ・親鸞聖人御歯骨(聖人五十歳の御歯) ・阿弥陀如来木像(親鸞聖人御自作) ・聖徳太子二歳の「南無仏太子木像」(伝親鸞聖人御自作、那珂川町文化財指定・左の写真) ・蓮如上人御筆「六字名号」、他
by jigan-ji
| 2013-11-03 01:02
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