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私たちの生活が衣・食・住の生命を維持し、養うだけの日常生活で尽きるならば、言葉は二十種で足りるという。
しかし私たちは多くの言葉をつくり、それをもちて生活している。 言葉それ自体には実体はない。人が自動車とか、一万円札と言ってみても、その人の口から自動車や一万円札が出てくるのではない。言葉を受ける人、聞く人がそれを映像化するのである。 「赤」という言葉を聞いて「革命」を思う人もあれば、「赤いジュータン」を思う人もある。「赤」という言葉それ自体には、何ら実体はないが、それを聞く人が映像化し、実体化するのである。言葉に先んじて実体をイメージする。それが「偏見」である。 言葉を教学の原理とする教え、それが浄土教であるいわば言葉を食(じき)となすのである。その中心となる言葉、それが「南無阿弥陀仏」の六字の名号である。 「南無阿弥陀仏」が心に薫(くん)ずるというかたちにおいて、阿弥陀仏とその世界たる浄土が、私たちの人生のヴィジョンとして映像化されるのである。それは「南無阿弥陀仏」の六字の名号を食(じき)となした「浄土の映像」である。「願生浄土」のもつ意味がここにうかがわれよう。 (本稿は1981年7月21・22日こころの電話で放送したものです。)
by jigan-ji
| 2008-08-01 23:25
| 仏教のお話
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