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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
宗門改革考⑥ ―南無帰依僧の教学―     2018年 09月 14日
 かつて丸山照雄は本願寺派の「門信徒会運動」を評し、「伝統教学」が中世教学のままであるため、近代仏教学を土台とした教化思想と、宗教学や社会学的な合理的解釈の「癒着」した運動になっており、信仰運動の根本的エネルギーを生む教学が欠け、常にプラグマチィックな思想に流される傾向が見える、と指摘しました(丸山照雄「伝統仏教諸教団における自己改革運動」初出昭和43年3月、『教団とは何か-丸山照雄宗教論集-』昭和47年8月)。
 さらに佐藤三千雄は「教団を教団たらしめるもの」を問い、「教義から教団を引出そう」としたり、また、「教義によって教団の必然性を論証しよう」とする〈立場と方法〉ではなく、「教え自体のなかに集いの原理が含まれている」のでなければ、「教団というものは依然として副次的なものにすぎず、教学の本格的な対象とはならないだろう」と述べました(佐藤三千雄「教団論の試み」昭和49年3月)。
 そして龍渓章雄は、「教学」は教団の実践原理であり、同時に批判原理でなければならないと述べました(龍渓章雄「真宗教学論序説」昭和55年12月)。
 以上三氏の指摘から、今日、「持続可能な宗門組織」のグランドデザインを描くための「教学」に要請されるのは、佐藤三千雄のいう「教え自体のなかに集いの原理」を読み込んでいく〈立場と方法〉であり、同時に、丸山照雄のいう「常にプラグマチィックな思想に流される傾向」を修正する〈立場と方法〉であるといえましょう。
 さらに佐藤三千雄は、「人と仏のつながりが人と人との交わりと相即」するところに現成するのが「教団」であるといい、「人と仏のつながり」が「人と人との交わり」となるところでは、「われわれの思い(主観性)」をこえた「規準点」が要請され、この「規準点」は「聖教」であるか、「教団の教義」であるか、「勧学寮」であるかは別問題であるといいます。
 この「人と仏のつながり」が「人と人との交わり」となるところに、「南無帰依僧」の具現化が現成されるのであり、それは、「教学なき現場」「現場なき教学」という、「宗門が抱えている教学と現場の乖離の止揚」であると共に、教団の実践原理にして、同時に批判原理でもある「教学」の創出に通じるものであるといえましょう。

by jigan-ji | 2018-09-14 01:02 | つれづれ記
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