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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
真宗余聞 (6) 信楽峻麿はなぜ教団と宗学を批判したのか(その1)     2018年 11月 14日

 信楽峻麿は、なぜ宗学と教団を批判したのでしょうか。
 かつて村上速水(そくすい)は、「私たち真宗の教えを学んできた僧侶にとって、特に反省すべきは、教義論題の形骸化と、訓詁解釈学といわれる従来の真宗学のあり方を問うことではなかろうか」「完全無欠な教義として整備された論題から、いったい、何の感銘や感激が得られるであろうか。また、精微をきわめた訓詁解釈学によって、果たして聖教全体に、あるいは文字の底に流れる著者の生々しい信仰体験をつかむことができるであろうか」(村上速水『親鸞教義の誤解と理解』七、一二頁)と「真宗教学への反省」を述べました。信楽も共感するところがあったでしょう。
 しかし、信楽の宗学と教団批判の本質的な理由は、信楽の強調した「めざめ体験」による「人格主体の確立」という真宗信心理解、言い換えれば、《知情意の統合→「人格」形成》という真宗信心理解にあったのではないかと思います。
 すなわち、信楽の「めざめ体験」における「人格主体の確立」は、《仏と私》という「主客二元論」ではなく、「阿弥陀仏は私の心に宿っている」という「主客一元論」に立った真宗信心理解であり、伝統的な「落ちるものをお助けくださる救済教」という真宗信心理解とは似て非なるものでした(信楽峻麿『親鸞はどこにいるのか』一三、五四、七五~七六頁)。
 では、こうした信楽の「主客一元論」の真宗信心理解は、なぜ主張されたのでしょうか。その背景には、二つの理由が考えられます。
 その一つは、信楽は「他力信心非意業の説」の考察を通して、「真宗の信心」を「宗教的意識」として、「ひとつの宗教的態度」として捉える必要性を主張し、「真宗の信心」を「非意業」と理解するかぎり、「真宗者の生活実践においては、つねに真俗二諦論にならざるをえず、信心と実践とは無縁となり、生活実践の原理は、信心以外の他の価値体系を借りてこなければならない」と主張しました(信楽峻麿『宗教と現代社会―親鸞思想の可能性―』二〇〇~二〇二頁)。この「真宗の信心」を「宗教的意識」として、「ひとつの宗教的態度」として捉えたところに、信楽の真宗信心理解の特徴があります。この信楽の真宗信心理解こそ、その後の信楽の伝統宗学と教団批判の原点です。
 二つには、村上のいう「真宗教学への反省」があったように思います。
 すなわち、村上は「親鸞教義が誤解され歪曲される大きな原因」について、次のように述べています。

  親鸞教義が誤解され歪曲される大きな原因は、親鸞聖人にとって結論であったものが、しばしば前提として説かれ、ときにはそれを強制する形で説かれているということである。たしかに聖人の教義といわれるものは、聖人が到達した結論―たとえば、他力のすくい、悪人のすくい、往生のすくい―というものにちがいない。しかしその結論は突如として現われたものではない。文字通り彫骨鏤身の辛酸と苦悩と模索のなかから見出されたものである。ある意味ではそのプロセスこそ重要である。しかるに、往々にして聖人の求めたものが語られず、その厳しい道程が語られないで、一挙に結論だけが語られる。真宗の教えを聞く人ならば、面喰うのがむしろ当然であろう。頭から他力でなくてはならぬと強制され、悪人であることを強いられ、浄土に往生を強制されるように考えてしまう。そこに大きなギャップが生まれるのは必然である。(『親鸞教義の誤解と理解』一〇八~一〇九頁)

 村上は、「聖人の教義といわれるものは、聖人が到達した結論」であるといいます。その「結論」を解釈しようとすれば「精微をきわめた訓詁解釈学」が要請されましょう。その意味で、「完全無欠な教義として整備された論題」や「精微をきわめた訓詁解釈学」は「主客二元論」とならざるを得ません。しかし、「結論」にいたる「プロセス」「厳しい道程」を私の課題として、主体的に問題にしようとすれば、「主客一元論」の視点が要請されましょう。
 信楽の「主客一元論」に立った真宗信心理解は、「真宗の信心」を「宗教的意識」として、「ひとつの宗教的態度」として捉えるとともに、村上のいう「プロセス」「厳しい道程」を自己の課題として、主体的に問題にしようとした結果であるといえましょう。



by jigan-ji | 2018-11-14 01:02 | つれづれ記
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