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信楽峻麿は、なぜ宗学と教団を批判したのでしょうか。 親鸞教義が誤解され歪曲される大きな原因は、親鸞聖人にとって結論であったものが、しばしば前提として説かれ、ときにはそれを強制する形で説かれているということである。たしかに聖人の教義といわれるものは、聖人が到達した結論―たとえば、他力のすくい、悪人のすくい、往生のすくい―というものにちがいない。しかしその結論は突如として現われたものではない。文字通り彫骨鏤身の辛酸と苦悩と模索のなかから見出されたものである。ある意味ではそのプロセスこそ重要である。しかるに、往々にして聖人の求めたものが語られず、その厳しい道程が語られないで、一挙に結論だけが語られる。真宗の教えを聞く人ならば、面喰うのがむしろ当然であろう。頭から他力でなくてはならぬと強制され、悪人であることを強いられ、浄土に往生を強制されるように考えてしまう。そこに大きなギャップが生まれるのは必然である。(『親鸞教義の誤解と理解』一〇八~一〇九頁) 村上は、「聖人の教義といわれるものは、聖人が到達した結論」であるといいます。その「結論」を解釈しようとすれば「精微をきわめた訓詁解釈学」が要請されましょう。その意味で、「完全無欠な教義として整備された論題」や「精微をきわめた訓詁解釈学」は「主客二元論」とならざるを得ません。しかし、「結論」にいたる「プロセス」「厳しい道程」を私の課題として、主体的に問題にしようとすれば、「主客一元論」の視点が要請されましょう。
by jigan-ji
| 2018-11-14 01:02
| つれづれ記
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