信楽峻麿の「主客一元論」に立脚した真宗信心理解は、碧海寿広の指摘に学べば、《知情意の統合→「人格」形成》という宗教論に依拠するものといえましょう。
すなわち、碧海は姉崎正治の宗教論における、「人格と宗教」に関する内容を、「知性と情緒と意志という三つの側面をもち、それぞれがしばしば矛盾をきたす人間の心が、完全に統合された「人格」となり満ち足りている状態が宗教的意識にほかならず、そしてその状態の達成を求めて人が同一化しようとする至高の存在が、すなわち「神」である。宗教における超越性とは、「人格」の統合という心的安定を希求する人間の衝動の向かう先に感得される、「最高無限の理想」なのである」(碧海寿広『近代仏教のなかの真宗』一二六~一二七頁)と述べ、こうした「人格」概念に依拠した《知情意の統合→「人格」形成》という宗教論は、加藤玄智、姉崎正治、西田幾多郎の宗教論にもうかがわれると述べています。
さらに碧海は、この「人格」というキーワードが宗教論から仏教史学に取り入れられて、村上専精の「大乗非仏説」の主張になると指摘します。すなわち、「釈尊は人間だ。村上はそう断言する。だが普通の人間ではない。彼はその「人格」において凡人をはるかに越えている」(同一三三頁)というわけです。
村上専精はその著『仏教統一論 第一編大綱論』(明治三十四年)の「余論」「仏身に対する鄙見」にて、「孰れにしても、各仏陀論は理想論の開展にあらざれば、人格論の開展ならん、故に事実の仏陀は釈迦一人にして、其他の諸仏諸菩薩は理想の抽象的形容なるのみ(中略)釈迦を論じて人間なりとし、又仏身を論じて此釈迦以外に具体的なるものあることなし、所謂報身仏なるものは、畢竟理想界の抽象的形容に過ぎざるものと断定せり」(四五四~四五六頁)と述べています。そして「凡例―明治三十四年十月再版の日―」に、「教理眼を離れ、歴史眼を以て見る(中略)余は非仏説と言ふも非仏意と言ふ者にあらず」(四頁)と述べています。
この信楽の《知情意の統合→「人格」形成》という宗教論から、「戦時教学」批判、「戦争責任」追求は当然の帰結であったでしょう。
すなわち信楽は、「戦争中には、阿弥陀仏と天皇は同じだといいつのり、国のために死んだら神となる。神となるなら仏にもなれると主唱した教学者は、その後も自分の過去をすべて棚あげして、いろいろとまことしやかに、親鸞を語っていますが、当人は何らの自己矛盾を自覚しないのか。驚くべき二重人格、三百代言というほかありません。」(『親鸞はどこにいるのか』四九頁)と厳しく批判しました。
さらに、「しかしながら、このような戦時教学について問うたものは、東西本願寺教団の中では、私ただ一人だけで、誰も口を閉ざして何ら問うことなく黙過しました。かくて、そのことから、西本願寺教団は、私を異端者として、徹底して弾圧し排除して、いまに至っております。その点、私はただ一人して、いまなお孤塁を守りつづけているところです。やがて私が命終したら、もはや誰一人として、この戦争責任を問うものはいなくなることでしょう。かくしてこのような戦時教学は、なんらの瑕瑾もなく、また変革もなくして、そのままこれからの伝統教学に移行していくのでしょうか。自らの誤ちを何ら問うことなく、その錯誤について、徹底して反省し、精算しないかぎ、再び、同じ轍を踏むであろうことは、過去の歴史が証明するところです。」(同四八~四九頁)と述べています。
《知情意の統合→「人格」形成》という真宗信心理解からすれば、「戦時教学」を主唱しておきながら、戦後、何らの自己批判もなく、自分の過去を棚あげしてしまう教学者は、「驚くべき二重人格」ということになりましょう。
「伝統」よりも「変革」「改革」を重くみた信楽の弁に共感する者は少なからずありました。しかし、伝統宗学者には「従来の先哲の耕した労苦を無視し、聖教の本意に反してまでも、自らの私見を固執してこれを正当化せんとする」「近年の学問的ブームとも考えられる思想史教理史的立場ですべてを解釈し、従来の宗学研鑽の迹を看過する」(稲城選恵『最近における真宗安心の諸問題―龍谷大学・信楽教授の所説に問う―』一~二頁)と映じたようです。
以後、「伝統宗学者」と「教団改革の学者」というラベリングが独り歩きし、村上速水の「真宗教学への反省」も生かされることなく、両者の対話の余地を奪ってしまったといえましょう。