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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
正信偈講読[261]     2020年 05月 08日
 補遺[213] 文献解釈の落とし穴 ―ボランティアは自力?―

 木越康(大谷大学教授)は、震災という悲惨な事態を契機として、親鸞思想とボランティアの問題についての議論をすると、「ボランティア活動は聖道の慈悲であり、自力ではないか」「支援活動は聖道の慈悲であって、親鸞が説く浄土の慈悲とは異なる」といった「真宗的ブレーキ」がはたらくといい、こうした「真宗的ブレーキの正体」は何かを、その著『ボランティアは親鸞の教えに反するのか―他力理解の相克―』(二〇一六年三月)にて考察しています。
 この問題について、私は、文献解釈の視点から考えてみたく思います。
 すなわち、『正信念仏偈』の「自然即時入必定」の「自然」を、西吟は「自然とは、仏を憶念する者は自らこれを計せざれども、仏願力に因つて自ら必定に入るゆゑに自然といふなり。また因を修するに自らその益を得。これ因果自然の義なり。」(『要解』巻三・一九丁左~二〇丁右)と釈しています。さらに、月筌は「為さずして然るゆえんなり。いわゆる「即入必定」の益は行者の所為ならず、仏徳よりして然るがゆゑなり」(『勦説』二五頁)と釈し、普門は「自然とは、任運不作意の義。自功に依らず、仏力の然らしめるゆゑに自然なり。」(『發覆』一八五頁)と釈し、法霖・隨慧は「無功用の義」(『捕影』三八頁、『説約』三八四頁)で釈しています。
 「自然」が「因果自然の義」をも含めての解釈から、「行者の所為ならず、仏徳よりして然る」、「任運不作意の義」、「無功用の義」と解釈されていくなかで、往生浄土の因として否定された「行者の所為」や「作意」や「功用」を、日常生活での所作一般においても否定すべき内容として解釈されるようになったのではないでしょうか。ここに文献解釈の落とし穴があるように思います。
 一茶は「おらが春」の中で、「他力信心他力信心と、一向に他力にちからを入れて頼み込み候輩は、ついに他力縄に縛れて、自力地獄の炎の中へばたんとおち入り候。」(『一茶 父の終焉日記 おらが春 他一篇』、岩波文庫、一九一~一九二頁)と述べています。
 「ボランティアは自力」「ボランティア活動は聖道の慈悲」との「真宗的ブレーキ」は、一茶のいう「他力縄に縛れて、自力地獄の炎の中へばたんとおち入り候」に等しいようにも思います。

by jigan-ji | 2020-05-08 00:02 | 聖教講読
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