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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
教財一如考 ―森岡清美氏の指摘から(その4)―     2026年 01月 12日
 教財一如考 ―森岡清美氏の指摘から(その4)―

 森岡清美氏は「宗門収入を確保する制度」は「門末大衆の愛山護法の赤誠」による「自発的な信施の志」、「仏恩報謝の自発的な懇志」「信仰に基づく自発的な志納」によるべきであると主張します。
 しかし、同時に、「徳義だけで七〇〇〇余カ寺の一大宗門を統治していけるはずはなく、必ず一定の標準を示してその遵守を求めなければならない。したがって、明文をもってこれを示さねばならず、義務とか権利とかを前提とした事態が必ず出現する」(『真宗大谷派の革新運動』47頁)現実をも認めています。
 つまり森岡氏は「自発的な懇志」「自発的な志納」が《理想》であるが、「七〇〇〇余カ寺の一大宗門を統治」しようとすれば、「義務とか権利とかを前提」とした「一定の標準を示してその遵守を求めなければならない」という《現実》があるというわけです。
 この《理想》の立場に依拠して「教財一如」の具現化を論ずれば「懇志に勝る収入なし」となり、資産運用や収益事業に関しては否定的となりましょう。反対に《現実》の立場に依拠して「教財一如」の具現化を論ずれば、財源確保のための「義務」と「割当」をめぐる議論となり、「意見の不一致」があればその対応を求められることになりましょう。
 なお今日、「懇志」といえば「仏恩」への「報謝行」といわれ、「金銭」=「財施」をイメージします。しかし、金龍静氏によると直参制【註】を軸とする戦国期教団は「懇志」=「金銭」ではなく、その都度出仕して「奉仕する」=「役の勤仕」で集団組織の形成・維持を図っていた「夫役教団」であったといわれます。ですから門徒も単に阿弥陀仏や親鸞聖人を信じているから門徒というのではなく、役をつとめる限りでの門徒でした。役の勤仕とは教義的にいうと身業の報謝行になります。開山聖人御座所をまもる雑公事番衆らは、非常時には一番最初に武力行使の報謝行である「軍役」をつとめました。福間光超氏によると報謝行が口業の称名のみに収斂されたのは、1800年代の三業惑乱以降とされます(金龍静「第一三章 戦国期蓮如教団の構造」『蓮如教団論』2025年)。
 『歎異抄』(第18章)には「一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ」と、「一紙・半銭」、言い換えれば、「財施」は仏法に本来無関係と述べています。しかし、親鸞聖人はその消息にて、「かたがたよりの御こころざしのものども、数のままにたしかにたまはり候ふ」(註釈版737頁)と、「財施」への御礼を述べています。
 親鸞聖人は消息中(註釈版804頁)にて「御こころざしのもの」と「念仏のすすめのもの」とを区別しています。ちなみに、『浄土真宗聖典(註釈版)』は、「『こころざしのもの』は門徒個人の懇志、『念仏のすすめのもの』は毎月の『二十五日の御念仏』に集まった同行たちが醵出した懇志を意味するようである」と註しています。この「御こころざしのもの」と「念仏のすすめのもの」との区別に留意し、宮崎円遵氏は親鸞聖人の消息中の「念仏のすすめのもの」とは「念仏勧進によって得られた特殊な懇志」(『初期真宗の研究』87頁)と解し、さらに平松令三氏は「経済上は上級聖の得分に相当するのではなかろうか」(『親鸞』199頁)と、親鸞聖人には「上級聖の得分」としての収入源があったと解しています。
 親鸞聖人在世時、諸宗の寺院は所領たる荘園によって護持・運営されていました。戦国乱世になり荘園が傾き諸宗寺院が窮するなかで、蓮如上人は各地に無数の講を結び、財的に大きな力となりました。『帖外御文章』には、例年の報恩講にあたって、「毎年約束銭之事慥に請取候。かへすがへすありがたくおぼえ候」(『帖外御文章』121他)という消息が多数あります。
 宗門の将来を見すえ「懇志」=「金銭」「夫役」や、「念仏のすすめのもの」「毎年約束銭」をどう解釈するかの問題をも踏まえた、《教》と《財》との連携した「宗門財政」のための「教団経済観の改革」(『本願寺史』第2巻736頁)論議の土壌作りが、今日要請されているように思います。 (了)

【註】金龍氏は「直参とは、宗祖親鸞およびその一流の『家』への帰属を示す言葉である。直参身分の獲得・維持のためには、宗祖に直接参じる『役』を担うことが必須であった。その役は、聖人親鸞への公役(くやく)であり、各種の夫役(ぶやく・御堂出仕)・雑公事役(門番役など)とか貢物の献上も義務づけられている。本願寺は、この直参衆を教団の直接構成員としていった。戦国期の本願寺教団は、基本的にこの直参衆と直参衆のもとに集う陪臣身分の被直参衆、この二類で構成されていたのである」(『蓮如教団論』664頁)と指摘し、さらに「蓮如は覚如と違って、ほとんど仏光寺派の『絵系図』批判を行っていない。逆に、絵系図批判を記した覚如著の『「改邪鈔」ヲ袖ニイレテ(中略)カノ方(仏光寺の門徒)ヲ勧化セシムル条、不可説ノ次第』(文明八 七月二七日御文)とさえ指弾している。蓮如は、各自が仏光寺派に属していた当時からの師弟・本末関係には関与せず、彼らを本願寺の宗祖祖像に直参せしめていったのである。(中略)ともかく、旧仏光寺勢の大量参入によって、本願寺教団は畿内・東海・北陸に限定された地域教団から、全国教団へ向けての歩みを進めることが可能となった。」(『蓮如教団論』668頁)と指摘しています。

by jigan-ji | 2026-01-12 00:02 | つれづれ記
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