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浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
「情報化社会と仏教の在り方」     2026年 01月 19日
 「情報化社会と仏教の在り方」

1、情報発信の課題。
 今から28年前、1998(平成10)年に勤修された「蓮如上人五百回遠忌法要」では「イノベーター上人が、やって来た」のポスターが作成され、全国の寺院に掲示されました。その後、世界はテクノロジーの進化にあわせて加速度的に変化し、インターネットやパソコン等の情報通信技術を通して入手する情報量は、28年前に比べて、格段に増加しています。もし、浄土真宗がテクノロジーの進化にあわせた法義相続の取り組みを等閑視すれば、浄土真宗にご縁のない一般生活者にとって、浄土真宗の法義に触れる機会は圧倒的に減少してしまうでしょう。
 10年前、僧侶育成体系プロジェクト委員会の提出した「10年、20年後の日本社会で求められる僧侶像・寺院像」(『宗報』2016年11・12月合併号)には、「ホームページの無いお寺は、世の中に存在しないお寺として見なされる」「生活者のインターネットを通じた宗教情報収集が増加する中、ホームページ等を持たないお寺は広義の布教力が相対的に低下。ホームページ程度の情報発信ができないと、今後は世の中に存在していないものと捉えられる」と記しています。
 「法は人を通して伝わる」と言われますが、対面での法義相続を基本としたこれまでの門信徒の維持はいうまでもなく、次世代の一般生活者を対象とした、情報技術を使った法義相続に取り組まなければ、一般生活者にとって浄土真宗は、「未知」の宗教教団になってしまうでしょう。テクノロジーの進化にあわせた法義相続への取り組みが要請されています。

2、情報の真偽と事実確認
 2003(平成15)年3月、アメリカはイラクを攻撃、フセイン政権は崩壊しました。
 当時、ブッシュ政権は米議会や米国民、そして国連、日本をふくめた世界に対していいました。「イラクは大量破壊兵器を持っている」「イラクには毒ガスや生物兵器を作る工場がある」「イラクは核兵器を作ろうとしている」等々。
 さらに、「イラクはニジェールからウランを買おうとしていた」とブッシュ政権はいいました。しかし、その資料は偽造資料でした。ブッシュ政権はそれが偽造資料だと知りながら使いつづけ、CIAが信用できない資料だと判断した一年後、ブッシュ大統領は2003年の年頭教書にそれを使い、その演説がイラク攻撃の直接の根拠となりました。(C・ダグラス・ラミス『なぜアメリカはこんなに戦争をするのか』2003年)
 イラク戦争後、イラクから大量破壊兵器が見つかったという証拠は提示されませんでした。
 今日、私たちの周りにはSNS等を通じて多くの情報が氾濫しています。米議会や米国民は、大統領がいうのだから間違いないと思ったことでしょう。しかし、情報には真偽があります。一方的な情報に振り回されないためにも、情報の真偽と事実確認が必要不可欠に思います。

3、情報と宗教の関係
 かつて戸頃重基氏は「情報化社会と仏教の在り方」を論じる中で「情報と宗教の関係」について、大変重要な指摘をしています。

 「宗教とは絶対者の自己意識である」、といったドイツの古典哲学の代表者ヘーゲルは、また、こういうことをいった。「現代人は毎朝、教会へいって祈りをするかわりに新聞をよむ」と。
 ドイツでは、今世紀のはじめ、すでに「新聞学」という学問が成立し、1910年の第1回のドイツ社会学大会で、マックス・ウェーバーが、新聞社会学を提唱していたほどであるから、19世紀のドイツではもうかなり新聞が普及し、一般の市民をして教会の存在から、情報社会へ注意をそらせるほどとなり、その結果がさきのヘーゲルのことばとなってあらわれたものと思われる。(中略)情報化社会に注意をはらうことが、なぜ、人びとの教会にたいする関心を失わせるのであろうか。それは人びとが情報化社会のなかで、「聖」の価値よりも「俗」の価値に強く心をひかれるからである。「聖」とは、信仰、祈り、瞑想、悔い改めなどのときに体験される宗教的な価値をいうのであるが、現代の人びとは中世人と異なり、このような宗教的価値よりも、直接、間接、じぶんの社会生活に影響をおよぼす世俗的価値に関心をもたざるをえなくなっている。中世的な世界観と価値観の崩壊が、現代にこのような現象をもたらしたといえる。なによりも寺院や教会の在り方が、まったく俗化をとげてしまっているこんにち、もはや中世のように人びとを「聖なるもの」の価値にひきつけることはできなくなってしまった。いまや「聖」にたいして「俗」があるのではない。ただ「俗」のなかにしか「聖」の所在は求められないのである。「俗」を離れては「聖」すらありえないのが現状だ。(戸頃重基『仏教と社会との対話』1973年)

 ヘーゲルの顰みに倣っていえば、今日、「毎朝、朝食の前に仏壇で勤行をし、朝食をいただいたあと新聞を読む生活スタイル」も、大分変化してきたように思います。
 53年前の戸頃氏の「情報化社会に注意をはらうことが、なぜ、人びとの教会にたいする関心を失わせるのであろうか。それは人びとが情報化社会のなかで、『聖』の価値よりも『俗』の価値に強く心をひかれるからである」、「もはや中世のように人びとを『聖なるもの』の価値にひきつけることはできなくなってしまった。いまや『聖』にたいして『俗』があるのではない。ただ『俗』のなかにしか『聖』の所在は求められないのである。『俗』を離れては『聖』すらありえないのが現状だ」との指摘は一考に値しましょう。
 情報化社会における「非僧非俗」や「非聖非俗」について、一考してみる必要もありましょう。


by jigan-ji | 2026-01-19 00:02 | つれづれ記
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