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教財一如考 ―森岡清美氏の指摘から(その3)― 森岡清美氏は「教団の民主化」の視点から、《宗門と僧侶》は「より高い席次を獲得したいという名誉心と競争心」でつながっており、《宗門と門徒》は「門徒ひとりびとりの懇志」を「組織的に吸い上げる」関係でつながっていると評しました。 もし「宗門財政」が、このような僧侶の「名誉心と競争心」、門徒の「懇志」という名の《財の収奪》で成り立っているとするなら、まさに「僧侶大衆」にとって宗門は《財の収奪》機関ということになりましょう。それは士農工商の身分制社会にあって、封建領主が農民から年貢米を収奪するという、いわば権力者による富の収奪という理解と同じです。 さらに、《宗門と僧侶》《宗門と門徒》が収奪関係にあるという宗門観は、「本末関係」を「支配従属の関係」、「寺檀関係」を「上下の関係」において捉えます。 戸上宗賢氏は「既成仏教教団の経済的基盤」について論じる中で、圭室諦成『日本仏教史概説』(昭和15年)の論旨を紹介し、はじめ修業と聞法の道場だった寺院は、その規模が拡大すればするほど性格を変え、運営の面でも自給自足の段階にとどまりえなくなって、次第にその形態を転化していく。その原因は寺院の内側よりみれば財政的な困窮、言い換えれば、法要儀式のたびに財施の給付を収納する経済であると指摘し、「いずれにせよ、寺院経済が潤いを増し、徐々にその基盤を築き上げる過程は、周囲の事情や歴史的背景がどのようであれ、寺院が本来あるべき姿から次第に遠ざかり世俗への接近を促進する過程にほかならなかった。」と述べました(戸上宗賢「既成仏教教団の構造変化」、高橋幸八郎編『日本近代化の研究 下 -大正・昭和編-』)。 さらに戸上氏は、「本末関係という支配従属の関係が寺檀関係というこれまた上下の関係と重層して、複雑な組織構造を形成するうちに財的な負担義務もまた確立されていったのである。なかんずく既成仏教教団の経済的基盤は階統的構造の底辺の広がりのなかに相当大きな割合を占めると考えられるであろう。とくに、先述のごとき有力寺院を多く持たない教団の財政的基盤はおのずからこれら末寺寺院とそれに直接結合関係をもつ檀家とが担っていると言わねばならない。」(「既成仏教教団の構造変化」)と述べています。 戸上氏によれば、「本末関係」は「支配従属の関係」であり、「寺檀関係」は「上下の関係」であり、「本山」や「宗派」は「経済的な面では寺院個々、最終的には檀家の義務金分担によって支えられている」(「既成仏教教団の構造変化」)と評します。 この《宗門と僧侶》《宗門と門徒》の関係を支配従属・収奪搾取関係において捉える宗門観は、既成仏教教団の体質改善という意味においては重要な視点に思います。 しかし、「自給自足の段階」に止まり得ない寺院経済や、さらに、「徳義だけで七〇〇〇余カ寺の一大宗門を統治していけるはずはなく、必ず一定の標準を示してその遵守を求めなければならない」宗門組織において、「本末関係」=「支配従属の関係」、「寺檀関係」=「上下の関係」など、宗門を国家や権力者に見立てた財の「収奪・搾取」と批判することは容易いことですが、「法施に依拠した財施」「教財一如」の宗門財政を描くことは容易ではありません。 本来、「懇志」は「報謝行」といわれます。「仏恩」への「報謝行」であると同時に、受益も負担も構成員全体で分かち合う、いわば「御同朋御同行」の精神、すなわち、連帯と共助の精神から進納されるものに思います。しかし、これまでのお互いが助け合う農村社会の考え方が希薄化し、さらに「同朋教団」としての連帯と共助の精神も薄れ、その価値が共有出来なくなると、本山や宗派や寺院に特別の恩恵を感じることも薄れます。また、進納した懇志が、有効に使用されていないと感じるようになると、本山や宗派や寺院の募財や懇志に応じることも苦痛になりましょう。 「法施に依拠した財施」「教財一如」、言い換えれば、 「報謝行」「懇志」進納の喜びと期待と納得は、「御同朋御同行」の連帯と共助の精神を土壌として醸成されるのではないでしょうか。 (続) #
by jigan-ji
| 2026-01-11 00:02
| つれづれ記
教財一如考 ―森岡清美氏の指摘から(その2)― 森岡清美氏は、かつて赤松俊秀・笠原一男編『真宗史概説』(1963年)にて、本願寺派の「堂班制」や「僧序制」に言及し、「堂班制にしても僧序制にしても、僧衣の席次や衣体を学徳や功績によってよりは、宗門に対する上納金の多少によって決定し、より高い席次を獲得したいという名誉心と競争心をあおることで宗門収入を確保する制度であって、凡百の弊害の一根源はここにある」と評し、さらに、「宗門の財源を直接門徒ひとりびとりの懇志において、これを組織的に吸い上げるために半ば義務的な門徒講を創立した」と述べました。 かつて井上豊忠は真宗大谷派の課題の一つに「宗門収入が信施の性質を失い租税の性質を帯つつあること」(『真宗大谷派の革新運動』)を挙げましたが、森岡氏は「教団の民主化」の視点から、《宗門と僧侶》は「より高い席次を獲得したいという名誉心と競争心」でつながっており、《宗門と門徒》は「門徒ひとりびとりの懇志」を「組織的に吸い上げる」関係でつながっていると評しました。 もし「宗門財政」が森岡氏のいうように僧侶の「名誉心と競争心」、門徒の「懇志」という名の《財の収奪》で成り立っているとするなら、まさに「僧侶大衆」にとって宗門は《財の収奪》機関ということになりましょう。しかし、宗門と僧侶や門徒が収奪関係にあるという宗門観は、あまりにも一面的にして一方的な見方ではないでしょうか。 さらに森岡氏は、「仏恩報謝の自発的な懇志に充分のことを期待しえない以上、各種の懇志は義務的な割当として賦課され、かくて一般寺院の財政を圧する。しかし義務を完うさせる強制力を宗門はもたないから、何らか栄誉的な待遇をもって完納寺院に報いなければ、募財の成果を計画通りに挙げることができない」といい、さらに、宗門の現状は「門徒の後れた宗教意識と宗祖の遺徳の上に安住し、あるいは生活に追われて求道の熱意を失った宗門」になっており、ゆえに、「大遠忌を深い懺悔と渇仰の思いをもって迎えるのでなければ、教団復興の方途はついに見失われることであろう」(『真宗史概説』)と評しました。 森岡氏は「宗門収入を確保する制度」は「門末大衆の愛山護法の赤誠」による「自発的な信施の志」「仏恩報謝の自発的な懇志」「信仰に基づく自発的な志納」によるべきであると主張します。しかし、同時に、「徳義だけで七〇〇〇余カ寺の一大宗門を統治していけるはずはなく、必ず一定の標準を示してその遵守を求めなければならない。したがって、明文をもってこれを示さねばならず、義務とか権利とかを前提とした事態が必ず出現する」(『真宗大谷派の革新運動』)現実も認めています。 つまり森岡氏は「自発的な懇志」「自発的な志納」が《理想》であるが、「七〇〇〇余カ寺の一大宗門を統治」しようとすれば、「義務とか権利とかを前提」とした「一定の標準を示してその遵守を求めなければならない」という《現実》も否定していません。問題の本質は、「自発的な懇志」「自発的な志納」と「七〇〇〇余カ寺」に対する「義務」と「その遵守」を、どう両立させるかという課題です。 まさに森岡氏は、この《理想》と《現実》の両立を放擲し、「門徒の後れた宗教意識と宗祖の遺徳の上に安住し、あるいは生活に追われて求道の熱意を失った宗門」は、「大遠忌を深い懺悔と渇仰の思い」をもって迎えねばならないというわけです。 かつて清沢満之たち白川党の改革運動は、「従来の勧財主義を一掃して教学主義とすること」、すなわち「課税ないし売官のような募財を廃止し、信施に基礎を据えた」一派の宗門財政を目指しました。しかし、「宗政当路者」は「捨て身になれば門末は見殺しにしない」という立場に立つことが出来ず、「現実の必要を優先」したのでした(『真宗大谷派の革新運動』)。 森岡氏は真宗大谷派の革新運動において、「募財主義」でなく、「信施」に基礎を置いた宗政改革が迷走し、失敗した要因として、①事務的な失策、②前局の反撃、③総長の弱腰、④法主の守旧的姿勢の四つを挙げています(『真宗大谷派の革新運動』)。 さらに森岡氏は、「大谷派の大部分を占むる非改革派は、是れ固陋僻見の旧思想家」(安藤正純「大谷派滅亡の兆象」『教界時言』九号)を取り上げ、その「固陋僻見の旧思想」を「法主神聖観、法主崇拝を核とする伝統的な真宗僧俗の信念」と捉え、「維新期以来の真宗大谷派宗政はこうした法主専制のうえに有司専制を築き、渥美契縁はそれを最大限活用した」、「法主神聖観という根源を衝くことなしに、根源に支えられた不条理な旧習を更革しようとしても、成功しがたいことは初めからみえていたといえる」と述べ、また、「改革は反動を伴う。とくに外部の識者の指導のもとに、高い教育を受けて広い視野をもった一部の具眼の士が主導した急激な改革は、旧慣になじんだ年配者や内向き志向で我が身大切の当局者、とりわけ安居にかかわる講者たちの反撥を免れえない」と述べました(『真宗大谷派の革新運動』)。 (続) #
by jigan-ji
| 2026-01-10 00:02
| つれづれ記
教財一如考 ―森岡清美氏の指摘から(その1)― 御年93歳にして「最後の著作」と自ら語った森岡清美氏(1923~2022)は、500頁にも及ぶ大著『真宗大谷派の革新運動』(2016年)を上梓しました。内容は、才能ある青年僧の多くが、著名な布教使か高位の学僧を目指したなかで、ひとり宗政家を志望した井上豊忠のライフストリーです。 その「はしがき」は、次のような文章ではじまります。 日本仏教を代表する巨大教団、真宗大谷派は明治初期、維新政府の宗教政策への対応、キリスト教対策、新しい時代の宗政を担いうる人材の育成といった他宗派と共通する一般的問題の外、負債償却と両堂再建という特殊な大問題を抱えていた。負債は新政府への忠誠を示すために求められたたびたびの献金でふくれ上がった莫大なものであり、両堂再建は、幕末に兵燹のため焼け落ちた御影堂と阿弥陀堂の再建が祖師に対する大師号宣下を機として緊急課題となったもの、どちらにも巨額な資金調達が必要不可欠であった。 末寺僧侶と門徒の信施だけでは全く不十分なので、宗政当路者はあの手この手の半強制的な募財と、寺格や各種の資格の売官的免許にたいする礼金収入の道を広げて、明治二七(一八九四)負債を完済し、翌二八年両堂を落成させた。このような資金調達の強行は門末の信仰心を蝕み、教団の基礎を腐蝕する。しかし、僧侶大衆は時流に身を委ねて、あるいは寺格や資格の買官的陞階や取得を競い、あるいは甍巍々たる両堂の落成に随喜の涙を流すに止まっていた。 教団の生命は勧学と布教であるのに、教学面が多年にわたりはなはだしく軽視され、宗政は非教学的な箱物主義の、金集め一点張りの方針で運営されてきた。この事態の深刻な問題性を黙止するに忍びず、明治二九年、教学本位の精神的革新を叫び、寺務改革の運動を起こした有志の一団があった。(『真宗大谷派の革新運動』1頁) 森岡氏は、真宗大谷派の明治新政府への献金でふくれ上がった「負債償却」と、幕末の「禁門(蛤御門)の変」による火災で焼け落ちた「両堂再建」のための渥美契縁(あつみ・かいえん)の「巨額な資金調達」は、「門末の信仰心を蝕み、教団の基礎を腐蝕する」施策であり、その「宗政は非教学的な箱物主義の、金集め一点張りの方針で運営されてきた」と評します。 さらに森岡氏は、「明治一八年設立の相続講に見るように、建前としては任意であるが、実際は義務的・強制的ではなかったか。それでも足りないので、売官行為で募財した。買官は任意であるが、虚栄心を刺激して競争させることで、この任意も結果としては手の込んだ強制である」、「門末の財を収奪し、さらに自発的な信施の志を蝕むものである」、「負債償却と両堂再建のためには募財は不可避である。募財も信仰に基づく自発的な志納であれば、むしろ信仰が鍛錬され、布教と教育に直結することだろう。しかし、義務的・強制的な募財、さらに寺格堂班・特別待遇といった一種のモノと引き替えの募財、つまり競争心を煽っての売官は、信仰を蝕み、教学を慕う志を枯らす」、「当事者は愛山護法のスローガンのもと形振りかまわずがむしゃらに募財を推進して、かえって門末大衆の愛山護法の赤誠を枯渇させてしまった」と評しました。 確かに、「負債償却と両堂再建」のための「巨額な資金調達」や「労務奉仕」「資材提供」が、門末の負担になったことは事実です。しかし、森岡氏は「徳義だけで七〇〇〇余カ寺の一大宗門を統治していけるはずはなく、必ず一定の標準を示してその遵守を求めなければならない。したがって、明文をもってこれを示さねばならず、義務とか権利とかを前提とした事態が必ず出現する」としながらも、「信仰に基づく自発的な志納」こそが《教》と《財》との連携のあるべき姿勢であるという立場から、「宗政当路者」の「募財」は「義務的・強制的な募財」「一種のモノと引き替えの募財」「競争心を煽っての売官」であり、「攻撃されるべき諸悪の根源」は、「宗政当路者」の「独裁的な権力」であるとしました。 森岡氏は、「教学本位の精神的革新」を叫んだのが清沢満之たちの真宗大谷派の革新運動であるという立場にありますから、「甍巍々たる両堂の落成に随喜の涙を流」す「僧侶大衆」は、「宗政当路者」に利用された「後れた宗教意識」(赤松俊秀・笠原一男編『真宗史概説』)にあると映じたのでありましょう。 清沢満之たちの白川党宗門改革運動の成果として、1897(明治30)年、「議制局」という名の議会が開設されました。議会が開設されたのであれば、「負債償却」や「両堂再建」という「現実の必要を優先」(『真宗大谷派の革新運動』)した「宗政当路者」の「独裁的な権力」に基づく施策は実施出来ないかも知れません。しかし、もし、新たな「負債償却」や「資金調達」が必要になった場合、「教学本位の精神的革新」や「後れた宗教意識」批判をもって「宗門財政」を論じることで、事が解決できるかは一考を要しましょう。なぜなら、「現実の必要を優先」した「宗政当路者」の施策は、議会における「多数決」という議決に基づいて執行されることになるからです。 (続) #
by jigan-ji
| 2026-01-09 00:02
| つれづれ記
「苟もその真面目を明らかにして相互に会心するときは」 福沢諭吉の『学問のすゝめ』は十七編からなります。その六編(「国法の貴きを論ず」明治7年2月)、七編(「国民の職分を論ず」明治7年3月)」に対して、楠木正成(楠公)の討死が無益な死と論じたものと解釈され、激しい攻撃を浴びせられました。 福沢は当時を振り返って、次のように述べています。 明治七年の末に至りては攻撃罵詈の頂上を極め、遠近より脅迫状の到来、友人の忠告等、今は殆んど身辺も危きほどの場合に迫りしかば、これは捨て置き難しと思い、乃ち筆を執りて長々しく一文を草し、同年十一月七日慶応義塾五九楼仙万の名をもって朝野新聞に寄書したるにぞ、物論漸く鎮まりて爾来世間に攻撃の声を聞かず。蓋し従前盛んに攻撃したる者もまた攻撃せられたる者も、ただ双方の情意相通ぜざるがために不平を感ずるのみ。苟もその真面目を明らかにして相互に会心するときは、人間世界に憎むべきものなく怒るべきものもなきの事実を知るに足るべし。今その寄書の全文を記すること左の如し。(岩波文庫『学問のすゝめ』187~188頁) #
by jigan-ji
| 2026-01-08 00:02
| つれづれ記
〝相互理解〟の前提―「解釈方法の相違」と「紛争の『起点』」― かつて佐藤三千雄氏は「真俗二諦」批判や「信心の社会性」の主張は「真宗的保守主義に対する批判」であるといい、「その限りにおいて、異を唱えるつもりはない」(「教学と社会」『知と信』1994年)と述べました。 今回の『新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)』をめぐる問題は、「20年近くにわたって仏教界をリードしてきた〝改革運動〟が、保守派によって頓挫させられた事態」であるともいわれます。(小川寛大『誰が「お寺」を殺すのか』2025年10月24日、123頁) もし、そうであるなら、『新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)』をめぐる〝相互理解〟のためには、そのための前提となる教学理解の立場と方法の確認が必要になりましょう。 種々の「論争の根底」には、教学理解における、いわゆる「通途」や「別途」の立場【註】や、さらには、内手弘太氏も指摘するように、蓮如解釈の方法をめぐる問題、すなわち、蓮如を当面で解釈するか、また一度親鸞というフィルターを通した上で解釈するかといった、「解釈方法の相違」があることに留意する必要があります。(内手弘太「島地黙雷と明治真宗教学史」『龍谷大学大学院文学研究科紀要』第36集、2014年12月) この「解釈方法の相違」に関連して、河智義邦氏は「伝統宗学」の二つの流れを指摘しています。すなわち、一つは真宗教義が仏教全体の中でいかに普遍性を持ちうるかに重点を置いて解釈する石泉学派の立場と、もう一つは真宗教義が仏教全体の中でいかなる特殊性を持っているかに重点をおいて解釈する空華学派の流れです。そして、三業惑乱以後に主流になったのが空華学派の学説であると指摘しています。(河智義邦「真宗学の課題―近年の本願寺派の動向との関連―」『遠吠え』第1号、2025年6月30日。初出は『岐阜聖徳学園大学仏教文化研究所紀要』第25号、2025年3月31日) また、辻浩平氏は、「異なる起点は異なるナラティブを生み出す。異なる時点を起点とする人に、いくら『そうでない』と説いてもあまり意味はないし、その人の歴史観を変えることはできない」と述べ、よって「紛争の『起点』」の確認が必要であると指摘しています。(辻浩平「ナラティブの衝突をどう乗り越えるのか―「境界」を行き来する―」親鸞仏教センター『アンジャリ』45号、2025年12月) この「紛争の『起点』」に関連して、ケネス田中氏は「(新しい領解文は・池田注)提唱者自らが掲げている目的を評価の基準とすれば、目的を大まかに満たしていると思います。(中略)『新領解文』は三つの目的を掲げています。1、『信心』を正しく分かりやすく伝える。2、時代状況や人々の意識に応じた伝道方法を採用する。3、特に若い人や仏教や真宗に親しみのなかった人などと縁を結ぶ。私はこの3点が評価の基準となるべきであると考えます。」(『中外日報』2024年1月3日)、さらに、「言うまでもなく、これら3つの目標がどの程度達成されるかによって、本願寺教団の将来が左右されると言ってよいでしょう。『新しい領解文』に関する施策は取り下げられましたが、その改善を目指す精神まで否定してはならないと考えます。現状に満足し、新たな取り組みを拒み、何もしないという姿勢こそ、もっとも避けるべきことであると思います。したがって、『新しい領解文』が掲げた3つの目的は、今後も追究されるべき課題であると言えます。」(ケネス田中「未来志向で進もう―「新しい領解文」を取り巻いた騒動の後―」『遠吼え』第3号、2025年12月22日)と述べています。 「教学」の視点からは「通途」や「別途」、「石泉学派」や「空華学派」の立場があり、「紛争の『起点』」に学べば、ケネス田中氏の指摘する三つの視点や、消息発布の手続きに瑕疵があったとする手続き論の視点があるようです。どの立場やどの視点に依拠するかで「評価」も異にしましょう。 以上から、『新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)』をめぐる〝相互理解〟のためには、「解釈方法の相違」と「紛争の『起点』」という二つの視点に留意した議論が求められましょう。 さらに「紛争の『起点』」に関連して、知切光歳氏や『本願寺史』の指摘する、〝相互理解〟を妨げる要因についても触れておかねばなりません。 知切氏はその著『三業惑乱騒動―真宗安心の法難史話―』(昭和52年8月10日)にて、享和三(1803)年閏正月二十三日前後の本願寺乱入事件(「新義派総国総代の乱暴」『増補改訂 本願寺史』第2巻354頁以下)を『反正紀略』(『真宗全書』71巻48頁~75頁)に基づき詳細に紹介した後、次のように述べています。 閏正月十八日から始められた日録はこの二十七日を以て一応取り止めて、次は普通の叙述に還すことにする。筆者がこの十日間の出来事に限り、何故にかく詳細に記録したかということは、三業惑乱騒動が、単なる学問上の諍論ではなくて、かくも根深い汚職と陰謀、謀略の上に立ち、いつかは必ず剔抉されなければならない腫物で、言わば、俎上に乗せられた病菌の一種であったことを知っていただきたい為である。(『三業惑乱騒動―真宗安心の法難史話―』171頁) また、『増補改訂 本願寺史』は、「承応の鬩牆」について、「ちなみに鬩牆(げきしょう)とは兄弟が牆(かき)の内で鬩(せめ)ぎ合う意、兄弟げんかや内輪もめを意味している。これはこの事件が単なる法論ではなく、その本質が本願寺と興正寺の本末論争であることを表している。」(『増補改訂 本願寺史』第2巻293頁)と記し、さらに『本願寺史』は、「宗学における異説の対立が、学問上の論争ばかりでなく、ひろく宗徒の追従によって学林内外の紛擾を招くに至ったのが明和法論で、古来派内の三大法論の一に数えられている。」(『本願寺史』第2巻330頁)と記しています。 「法論」や「論争」というと、「新義」か「古義」かの「宗学における異説の対立」「学問上の論争」と思いがちですが、『増補改訂 本願寺史』も指摘するように「その本質」が、「兄弟げんかや内輪もめを意味している」「鬩牆」であったり、知切氏のいう「単なる学問上の諍論ではなくて、かくも根深い汚職と陰謀、謀略の上に立ち、いつかは必ず剔抉(てっけつ)されなければならない腫物(はれもの)」であったりするという指摘にも、留意する必要がありましょう。 ちなみに知切氏は、「現代の学匠たちのこの騒動(三業惑乱・池田注)に関する研究は、宗義の検討にすぎて、却って騒動の真相に、目を背けているていの書が多く、人間として各学匠の姿を浮彫りにしてくれない、素気なさを感じさせた。」(『三業惑乱騒動―真宗安心の法難史話―』489頁)と記しています。 【註】仏教の解釈には、「通途」(つうず・仏教一般の通説)と「別途」(べつず・特定の一宗派に限定される説)という見方があります。(『浄土真宗辞典』参照) この通途と別途について村上速水氏は、次のように指摘しています。 通途をもって仏教を貫く普遍的原理(教理)とし、別途とはその教理を基礎として構成された各宗の教義(又は教相)と理解するのが穏当ではないであろうか。つまり、通途とは抽象的な仏教教理であり、別途とはその教理に則ってその目的実現の方法を具体的に示したもの、といえるのではないか。通別の概念をこのように規定することができるとすれば、各宗の教義はすべて「准通立別」でなければならぬ。「准通」でなければ仏教としての基礎を失うこととなり、「立別」でなければ各宗としての存在の意義を失うこととなるからである。(村上速水『続・親鸞教義の研究』117頁) #
by jigan-ji
| 2026-01-07 00:02
| つれづれ記
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