人気ブログランキング | 話題のタグを見る

浄土真宗本願寺派


住職の池田行信です。
「昔年の異端妄説は今世の通論なり、昨日の奇説は今日の常談なり」     2025年 12月 27日
 「昔年の異端妄説は今世の通論なり、昨日の奇説は今日の常談なり」

 福沢諭吉は「昔年の異端妄説は今世の通論なり、昨日の奇説は今日の常談なり」であるから、「天下の議論を画一化してしまおうと欲してはならぬ」と述べています。

 古来文明の進歩、その初は皆いわゆる異端妄説に起らざるものなし。アダム・スミスが始めて経済の論を説きしときは、世人皆これを妄説として駁したるにあらずや。ガリレヲが地動の論を唱えしときは、異端と称して罪せられたるにあらずや。異説争論、年また年を重ね、世間通常の群民はあたかも智者の鞭韃を受けて知らず識らずその範囲に入り、今日の文明に至ては学校の童子といえども経済地動の論を怪む者なし。ただにこれを怪まざるのみならず、この議論の定則を疑うものあれば、かえってこれを愚人として世間に歯(よわ)いせしめざるの勢に及べり。
 また近く一例を挙ていえば、今を去ること僅に十年、三百の諸侯各一政府を設け、君臣上下の分を明にして生殺与奪の権を執り、その堅固なることこれを万歳に伝うべきが如くなりしもの、瞬間に瓦解して今の有様に変じ、今日と為りては世間にこれを怪む者なしといえども、もし十年前に当(あたり)て諸藩士の内に廃藩置県等の説を唱る者あらば、その藩中にてこれを何とかいわん。立どころにその身を危うくすること論を俟たざるなり。
 故に昔年の異端妄説は今世の通論なり、昨日の奇説は今日の常談なり。然ば則ち今日の異端妄説もまた必ず後年の通論常談なるべし。学者宜しく世論の喧しきを憚らず、異端妄説の譏を恐るることなく、勇を振て我思う所の説を吐くべし。あるいはまた他人の説を聞て我持論に適せざることあるも、よくその意のある所を察して、容るべきものはこれを容れ、容るべからざるものは暫くその向う所に任して、他日双方帰する所を一にするの時を待つべし。即これ議論の本位を同うするの日なり。必ずしも他人の説を我範囲の内に籠絡して天下の議論を画一ならしめんと欲する勿れ。(岩波文庫『文明論之概略』23~24頁)

 先﨑彰容氏は、当該箇所を次のように訳しています。

 古来文明の進歩は、はじめは皆いわゆる異端妄説から起こらないものはない。アダム・スミスがはじめて経済論を説いたときは、世の人びとは皆これ妄説だと批判したのではないか。ガリレヲが地動説を唱えたときは、異端とよばれ罰せられたのではなかったか。でも異説争論が年を重ねると、世間通常の群衆はまるで識者の指導を受けて知らずしらずその範囲に入って、今日の文明になると学校の児童でさえスミスの経済論とガリレヲの地動説を怪しむ者はいない。単に怪しまないばかりか、この議論の法則を疑う者がいれば、かえってこの人を馬鹿者として相手にしないようにすらなる。
 また近い例を挙げて言うと、今からわずか一〇年前、三〇〇の諸侯がそれぞれ一政府を設け、君臣上下の違いを明からにし絶対的な権利を行使し、その強固なのは永遠に伝えるはずのようだったのが、一瞬にして瓦解して今のように変化し、今日ではこれを不思議がる者はいないが、もし一〇年前に各藩士のなかに廃藩置県などの説を唱える者がいれば、その藩のなかでいったい何と言われただろうか。たちどころに身を危険に曝すことは言うまでもない。 よって昔の異端妄説は今の世の通説である。昨日の奇説は今日の常識である。であるならば、今日の異端妄説もまた必ず後に通説常識となるはずだ。学者は世論の激しい批判をものともせず、異端妄説の悪口を恐れることなく、勇気をふるって自分の所見を吐くのがよいのである。あるいはまた他人の説を聞いて自分の持論にあわないことがあっても、その意図をよく察して、受け入れるべきものは受け入れ、受け入れられない論はしばらくの間そのままにして、他日、両方の議論が一致するときを待つのがよい。これが議論の本位を同じくする日なのである。必ずしも他人の説を自説の範囲内に囲いこんで天下の議論を画一化してしまおうと欲してはならぬ。(角川ソフィア文庫『文明論之概略』24~25頁)


# by jigan-ji | 2025-12-27 00:02 | つれづれ記
「理財を談ずるは士君子の事にあらず」     2025年 12月 26日
 「理財を談ずるは士君子の事にあらず」

 かつてある勉強会でお金の話が出たとき、「お坊様は、お金の話よりも、ご法義の話をしてくださればよい」といわれました。おっしゃられた方のお気持ちは「仏法第一」ということにあることは十分理解できましたが、福沢諭吉は「経済に無知なのを恥じようともせず、かえって知っていることが恥だ」という「世間知らず」について、次のように述べています。

 古来、我国理財の有様を見るに、銭を費して事を為す者は、常に士族以上、治者の流なり。政府にて土木の工を興し文武の事を企るは勿論、都で世間にて書き読み武を講じ、あるいは伎芸を研きあるいは風流を楽む等、その事柄は有用にても無用にても、一身の衣食を謀るの外に余地を設けて、人生のやや高尚なる部分に心を用ゆる者は、必ず士族以上に限り、その品行も自から頴敏活溌にして、敢て事を為すの気力に乏しからず。実に我文明の根本と称すべきものなれども、ただ如何せん、理財の一事に至ては、数千百年の勢に従い、出るを知て入るを知らず、散ずるを知りて積むを知らず、有る物を費すを知て、無き物を作るを知らざる者なれば、その際に自から浪費乱用の弊を免かるべからず。加之、因襲の久しき遂に一種の風俗を成し、理財を談ずるは士君子の事にあらずとして、これを知らざるを恥とせざるのみならず、かえってこれを知るを恥と為し、士君子の最も上流なる者と、理財の最も拙なる者とは、二字同義なるに至れり。迂遠もまた極るというべし。(岩波文庫『文明論之概略』257~258頁)

 先﨑彰容氏は、当該箇所を次のように訳しています。

 古来、わが国の経済の様子を見てみると、金銭を費やして事業を興す者は、つねに士族以上の支配階級である。政府で土木工事を興し、文武の事業を企画するのはもちろんのこと、世間で書を読み武道を習い、あるいは芸を研鑽し、お稽古事をたしなむなど、何でも有益無益を問わず、衣食以外のことに余裕をもって人生の少し豊かな方面に心がける者は、必ず士族以上に限定されている。その性格もおのずから鋭敏で活溌、積極的に行動する気力がある。実にわが文明の根本だと言うべきなのだが、ただ困ったことに、経済の一事についてはきわめて長期の習慣にしたがって支出はわかるが収入はわからない。消費はわかるが蓄財を知らない。あるものを消費するだけで、無いものを生みだす方法がわからない人達なので、自然と浪費乱用の弊害は避けられない。そればかりか、習慣が長いので、ついには経済を論じるのは高尚な人間のすることではないという風潮になった。経済に無知なのを恥じようともせず、かえって知っていることが恥だとし、士族の最も上流の人と、経済に最も無頓着な人は同義語となるまでになった。世間知らずも甚だしいであろう。(角川ソフィア文庫『文明論之概略』286~287頁)


# by jigan-ji | 2025-12-26 00:02 | つれづれ記
「本願寺派の組織と制度」考     2025年 12月 25日
 「本願寺派の組織と制度」考

 宗門財政の改革が議論されています。「歳入の増額」や「収支構造の変更」が考えられているようですが、その前提として、これまでの「本願寺派の組織と制度」の変遷を踏まえた議論も必要に思います。
 以下に、その組織と制度の変遷の概要を記してみます。ご参照いただければ幸甚に存じます。

   1 明治時代の本願寺派の組織と制度

 明治期の本願寺派の組織と制度に関する研究は、管見によれば千葉乗隆著『真宗教団の組織と制度』(一九七八年)の他には無いように思います。
 明治時代の本願寺は、どのような組織・制度であったのでしょうか。
 一八七一(明治四)年五月の門跡寺院の廃止により、同年六月段階で本願寺は組織改革を断行し、江戸時代に形成された本願寺の家臣団四〇〇名〔『本願寺史』第三巻。以下『本願寺史(旧版)』と表記します。なお、『本願寺史(旧版)』には「本願寺家来四百名近くのもの」とあり、『明如上人伝』(一九二七年)には「家臣三百餘名」、『増補改訂本願寺史』(第三巻)には「本願寺家臣三〇〇余名近く」とあり、その職員の実数は必ずしも明確ではありません。〕は解体し、代わって本願寺の寺務は、本山改革の建議書を提出した防長(周防・長門)の島地黙雷や大洲鉄然などによって担われることになりました。
 明治維新期の本願寺の職制変更は一八七一(明治四)年一〇月、一八七三(明治六)年四月、一八七五(明治八)年一月と実施されました。一八七五(明治八)年四月編成の「諸課所人名記」(『増補改訂本願寺史』第三巻)によると、職員の構成は、事務方・法務方の「寺務所」「御堂」「昵近」と雑務方の「雇入女」「雇入男」ほかに区分し、「寺務所四六(僧侶三四・俗人一二)、御堂三九(僧侶三九・俗人〇)、昵近五(僧侶三・俗人二)」で、事務方・法務方は計九〇人でした。江戸時代の寺務は下間家を中心とした「坊官」(俗人〔寺侍〕)がおこなっていたことからみると、僧侶によって事務方が差配される体制に改編されたことが知られます。
 その後、明如宗主没年の『明治三十六年十月 本願寺職員録 枢密部編纂』によると、当時の「本山執行所」は「執行所職制」(明治三五年一二月施行)により「内局」と「奉仕局」の二つからなり、内局の下に「教学第一部」「教学第二部」「枢密部」「監正部」「庶務部」「財務部」の六部が置かれました。さらに「奉仕局職制」(明治三六年三月施行)により「法式部」と「室内部」の二部が置かれ、「大谷本廟職制」(明治三四年三月施行)により大谷本廟が運営されました。
 同本願寺職員録に記載の「執行所職制」と「奉仕局職制」「大谷本廟職制」下の職員数(顧問などの名誉職は除く)を抜き出してみますと、「執行所職制」下の内局(九名)、教学第一部(四名)、教学第二部(五名)、枢密部(六名)、監正部(五名)、庶務部(一三名)、財務部(二五名)、内局所属の「会計検査部」(五名)の計七二名。「奉仕局職制」下の法式部(九六名)、室内部(二六名)の計一二二名。そして大谷本廟(八名)で総計二〇二名となります。
 さらに、同本願寺職員録によると一九〇三(明治三六)年当時、台湾の台北別院を含めて全国に三八別院があり、そのうち一一別院は輪番が教務所長などとの兼務でした。また、全国に二九の教務所がありましたが、兼務発令の教務所長が一五、不在が一でした。


   2 明如宗主時代の諸施策

 明治初期の諸施策は、明如宗主による「寺務所の東京移転計画」(『増補改訂本願寺史』第三巻)から知られるように、明如宗主と防長(周防・長門)出身の僧侶との権力闘争があり、一時的な混乱はありましたが、その後の明如宗主の宗務は明治という新たな時代に対応した教団体制の形成・確立に貢献しました。
 その諸施策の具体例を『増補改訂本願寺史』(第三巻)よりうかがってみます。
 一八七一(明治四)年五月の門跡寺院の廃止、同年七月の廃藩置県への対応として、一八七六(明治九)年制定の『宗規綱領』に基づく、末寺の本山直末化、教区・組の編成、本山執行所などの諸改革。
 一八八〇(明治一三)の『本願寺寺法』の制定と議会開設。布教・教学体制の確立。僧侶養成のみならず広く社会の人材育成のための教育体制の全国的な整備。宗門の財政基盤の整備。鹿児島や北海道などへの布教・寺院開設、ハワイ・米国やアジアなど海外への開教。刑務教誨、社会事業などの諸施策。
 さらには、身分制に関わる諸制約・規則の社会的緩和にともなう門徒の新たな社会経済活動、多様な職業選択、人口移動などの広がりへの対応と結びついた、新たな都市・炭坑・干拓・鉄道・軽工業・重工業などの産業分野、商業活動などでの職業選択、それらに対応した「職域伝道」、新たな寺院・説教所の開設等々。
 一八七一(明治四)年から一九〇三(明治三六)までの明如宗主三〇有余年の在職期間中の諸施策は、まさに、明治政府の西洋的近代国民国家形成に歩調をあわせた、教団基盤の近代化と拡大のための諸施策であったといえましょう。


   3 本願寺派の組織・制度の変遷

 本願寺派の現在の教区・組という「統轄制度」は明治初期に制度化されました。
 江戸時代の寺院統制機構としては「本末制」と「触頭制」がありました。本末制は原則として法流にもとづいて形成され、したがって地域に限定されず、時には数カ国にわたる支配形態を形成していました。それに対して、一国一地域を区画する大名領国に応じた統制支配組織が触頭制です(『新修 築地別院史』昭和六〇年)。
 すなわち、江戸幕府は一六三五(寛永一二)年一一月「寺社奉行」を設置し、各藩もまた寺社奉行を置きました。それを受けて寺社奉行から発せられる通達を受領し、配下の寺院へ触れ達するため「触頭(ふれがしら)」が設けられました。
 江戸の触頭が受領した幕府の通達を、さらに諸国の触頭が配下の末寺に触れました。諸国の触頭は幕命だけでなく、その地の領主の命や本山の命も伝達し、さらには末寺から寺社奉行や本山へ提出する文書や免物・冥加金も取り次ぎました。
 触頭は一国あるいは一地方に限定された支配組織で、幕藩体制に適合し、次第に重視されるようになります。触頭と同種の用語に「録所(ろくしよ)」「触口(ふれくち)」がありますが、録所は重く、触頭は軽く、触口はさらに格が低く見なされましたが機能は同じでした。
 本願寺の録所は江戸・築地御坊、紀州・鷺森御坊、越前・福井御坊、亀山・本徳寺など、また触頭は摂津・大坂津村御坊、尾張・名古屋御坊、安芸・広島仏護寺など、一国に一カ寺、または二、三カ寺ずつ置かれていました。現在のいわゆる直轄寺院・直属寺院などが該当しています(以上は『増補改訂本願寺史』第二巻参照。なお、諸国におかれた本願寺の録所・触頭・触口等の詳細については、同書を参照されたい)。
 触頭制は幕藩体制下の行政組織に合致しましたが、一八七一(明治四)年の廃藩置県により三府三〇二県(現在は四七都道府県)が置かれ、本願寺の統轄地域・統制組織の改編は不可避となりました。
 一八七六(明治九)年制定の『宗規綱領』「第六編 本山末寺権義区別并諸規約」には「教区」と「組(そ)」が、次のように規定されています。

   第二款 統轄順序
    第一条
 全国ヲ分テ七大区トシ、毎区ニ各派寺務出張所ヲ置キ区内ノ末徒ヲ統轄ス
  (中略)
    第二条
 一区内各県下ニ各派末寺取締所ヲ設ケ、県内一派ノ事務ヲ弁理ス
   但、末寺取締所ハ教務所ヲ設クルノ地ニ之ヲ置キ、教導取締之ヲ兼掌スル者トス
    第三条
 各県下其地方ノ多少ニ随ヒ二十五ケ寺ヲ以テ一組トシ、毎組ニ長・副長各一名ヲ置キ、組内末派ノ事務ヲ取扱ハシム
                               (『増補改訂本願寺史』第三巻一六二頁)

 その後、一八八〇(明治一三)年、本願寺は『宗規綱領』の「第六編第二款 統轄順序」を本願寺派に限って改正しようと内務省に申請し、認可されました。
 改正後の内容は次の通りです。

    第一条
 全国ヲ分テ十八教区トシ、毎区ニ一教務所ヲ置キ、区内ノ門末興学布教及百般ノ事務ヲ管理ス
    第二条
 教務所ノ事務ハ正副管事ヲ置テ之ヲ弁理セシム
    第三条
 教区内ノ末寺ハ其多少ニ随ヒ適宜ニ組ヲ分チ、毎組正副組長ヲ置テ其ノ事務ヲ取扱ハシム                              (『増補改訂本願寺史)』第三巻一六九頁)

 一八七六(明治九)年当時の「七大区」(本願寺派が七大区を実際に実施したかは不明)から一八八〇(明治一三)年には「十八教区」となり、それ以降も修正を加え、現在の三一教区・一宗務特区となります。ここに、時代・社会の変化に応じた、「本山・教区・組・末寺」という本願寺派の「統轄制度」の基本構造が定まりました。


   4 明治新政府と本願寺の交渉・連携

 明治初期の本願寺の職制変更、教区・組という「統轄制度」の新設をはじめ、明如宗主の諸施策を可能とした最大の要因は、明治新政府の長州閥と本願寺の防長藩出身僧とのさまざまな交渉・連携にあったと推察されます。
 明治維新期、本願寺の寺務を差配したのは教団の刷新を要求した防長藩出身僧であり、その中心的役割を果たしたのが、島地黙雷・大洲鉄然・香川葆晃・赤松連城などでした。
 すなはち、島地等防長藩僧五名は一八六八(明治元)年七月三〇日、本山当局に建言書を提出、同年八月六日には直接に広如宗主に面接し改革趣旨を言上しました(『増補改訂本願寺史』第三巻)。島地等の改革要求の姿勢はきわめて強攻的で、「當時彼等は長髪帯剣、宛然藩士の風を装ひ、挙動言論また頗る激烈を極め、殆んど當るべからざるの勢ありしと云ふ」(『明如上人伝』)といわれました。時に島地黙雷は三一才、赤松連城は二八才でした。
 やがて島地等の改革建議は採用され宗門改革に着手されますが、島地等防長藩僧侶の宗務運営に対して、その後、一八七九(明治一二)年、北畠道龍等は「改正趣意書」にて「(前略)三に己れが拝命を推挙するに私ある事、我が末徒中、始めて教正に挙げる者、大洲・島地・赤松・香川四人なり、皆是防州の人、一派数万の末徒中、年臘と云ひ、学業と云ひ、品行と云ひ、才芸と云ひ、右四人を凌ぐ者幾千なるを知らず、之を措きて自ら同郷の徒のみ之に進む」(『明如上人伝』、『本願寺史(旧版)』第三巻)と批判しました。大洲等四人以外にも人材はあるだろうとの批判です。
 ちなみに、『明治三十六年十月 本願寺職員録 枢密部編纂』によると、一九〇三(明治三六)年一〇月当時、「本山執行所」の職員二〇二名中、職員の所属寺が周防・長門である職員数は八名で、必ずしも防長藩出身の僧侶が多数を占めていたとはいえないようです。しかし、「寺務所の東移事件」(『明如上人伝』)は失敗し、替わって寺法の制定、集会(宗会)の開設となり、一八八〇(明治一三)年六月一日以降「内局(現在の総局に当たる)」が組織されましたが、明如宗主時代の歴代内局は、北畠道龍に「自ら同郷の徒のみ之に進む」と批判された大洲・島地・赤松・香川等によって運営されました(『宗勢要覧』「歴代執行・総局」参照) 。
 明如宗主時代、執行長をはじめ長年内局にあった大洲鉄然は、その職を辞し田舎の自坊に帰りましたが、山口県当局の維新史編纂に対して、萩城下出身者への過褒、そしてまた周南地方、なかんずく月性(吉田松陰の事実上の師)や時習館(月性が主宰した私塾。大洲鉄然はその塾生であり、後、真武隊、護国団を組織し、第二奇兵隊参謀として幕府軍と戦う)出身者の活躍が必ずしも正当に評価されていないことに苦情を述べ、その偏向ぶりを批判したといわれます。
 また大洲鉄然は時習館の教育を、漢学が中心であったが、学問よりむしろ思想、思想より断然気魄を重視したといい、尊皇攘夷とか倒幕論が盛んであった時代、僧侶の自分があまり人後に落ちなかった、というより、その指導的な役割を果たすことができたのは、月性先生の教えを受けたお蔭であると述べていました(海原徹『月性』) 。
 「尊皇攘夷」から「尊皇倒幕」へ、そして明治新政府という近代国民国家形成への熱き思いの上に、言い換えれば、「尊皇倒幕」の心情(心的志向性)の延長線上に、大洲達防長藩出身僧による宗務運営がなされてきたと推察することも可能ではないでしょうか。 


   5 戦前・戦後の宗門組織

 『宗教団体法』(一九四〇・昭和一五年四月一日)の施行によって本願寺派は『真宗本願寺派宗制』(一九四一・昭和一六年三月三一日)を制定しました。
 戦時下の本願寺派の宗務組織は、『真宗本願寺派宗制』によると「宗務機関」として「宗務所」が置かれ、「内局」の下に「式典部」「文書部」「法制部」「審議部」「褒賞部」「監正部」「教務部」「学務部」「社会部」「庶務部」「財務部」「参拝部」「興亜部」の一三部が置かれました。さらに「内地」に二九教区、「外地及外国」に「樺太開教区」をはじめ「台湾」「朝鮮」「満州」「北支」「中南支」「南洋」「布哇」「北米」「加奈陀」など一〇の「開教区」がありました。
 敗戦を経て、一九四六(昭和二一)年九月一一日、『浄土真宗本願寺派宗法』が制定され、その後、「宗政総局職制」(昭和二二年一月二七日施行)、「宗政総局各部門職制」(昭和二二年三月二七日施行)、「宗政総局各部門職制施行条例」(昭和二四年九月一〇日施行)によって、戦後の職制変更が実施されました。
 以後、「宗政一般事務を行う」ために「教学部」「内務部」「文書部」「内事部」「秘書室」の四部一室が置かれ、さらに「法要儀式及び参拝志納等に関する事柄を行う」ために「法務部」「参拝部」「本廟部」の三部が置かれ、計七部一室で宗務が行われました。戦時中の「興亜部」や「外地及外国」の一〇の「開教区」は無くなりました。
 敗戦を経て『真宗本願寺派宗制』が改定されるとともに、宗門組織も改編されましたが、その改定・改編の必然性はどう認識されていたのでしょうか。
 戦後、新たな『宗制』『宗法』は、一九四六(昭和二一)年九月三日招集の『第百回臨時宗会』において改定されました。同臨時宗会において、菅原憲仁議員は「今回宗制宗法が改正されると云ふことは、結局負けたから改正されることであつて、勝つても改正されたか、と云ふことが第一問題であると思ふ」と質問し、それに対して朝倉執行長は「菅原さんの御質問にお答へします。戦争に負けたから斯う云ふ宗制宗法を制定するのか、一口に言へば負けたからです。それは随て宗制制定の理由は宗団法の廃止に伴つて、そんな宗団法が廃止になれば、それは宗教の自由を括ると云ふ宗団法が怪しからんと云ふが、連合軍の意向らしい(速記録は原文の「である」を「らしい」と改めている・池田注)と聴いて居ります。それを理由にしますればつまり負けたからです」と答弁しました。
 さらに同臨時宗会において「坊守職の新設」が提案されましたが、その提案に対して、「是は時代に応じて、所謂男女同権とか何とか云ふやうな、そう云ふやうな事由から考へられたのであるとしますならば、何もここ迄無理に男女同権を表はさなければならぬと云ふ筈はないのである」との意見があり、「坊守職」の新設はなりませんでした(拙稿「真宗教団における「性」をめぐる諸問題」『龍谷大学アジア仏教文化研究叢書8 現代日本の仏教と女性-文化の越境とジェンダー-』)。
 また藤音得忍元総長は「宗会九十周年 私の所感」(『宗報』昭和四六年四月号)にて、「進駐軍」の「注意」「意向」の下に戦後の『宗制』『宗法』が作成されたことに言及しています(拙著『浄土真宗本願寺派 宗法改定論ノート』)。
 戦後の『宗制』『宗法』の改定と、その職制変更の心情(心的志向性)は、「負けたから(=敗戦)」による「連合軍」「進駐軍」の「注意」「意向」という、いわば外圧による改定・変更であったことが知られます。


   6 宗門の将来を見据えた時代感覚と歴史認識

 「維新」や「敗戦」という、日本社会の全体が編成替えされてゆく状況下での宗務運営のためには、宗門の将来を見据えた時代感覚と歴史認識が要請されます。
 幕末維新時の島地黙雷、赤松連城、大洲鉄然達には《尊皇倒幕の心情》の延長線上にて、「維新」を近代国民国家形成のプロセスと認識し、「護法護国」の理念で以て宗務を運営したといえましょう。
 また、敗戦後の『宗制』『宗法』の改定と、その職制変更は、《敗戦による連合軍の意向》という、いわば「注意」「意向」という《外圧》による改定・変更と認識し、従って、敗戦後のGHQによる諸施策の延長線上にて、「宗門護持」の理念を以て宗務運営をしたといえましょう。
 しかし、今日、宗門人の多くは、過疎化・少子化・人口減少等々、宗門を取り巻く社会環境の変化に気づいていますが、「維新」や「敗戦」時のような危機意識にはなく、かえって「保守主義的な意識形態」に安住し、持続可能な宗門組織への「変革意識」の発揚には無関心であるように思います。
 かつて安丸良夫は、「伝統主義や政治的反動と区別された意味での保守主義的な意識形態」を構成する要素として、①大勢順応的、②身辺的、③日常生活的な充足性の三つを数え、次のように解説しました。

  大勢順応的というのは、理想主義や社会正義についての意識などが衰退したことであり、身辺的というのは、社会や歴史についての全体的構造的な見方への無関心が顕著だという意味です。日常的な充足性というのは、生活的な幸福を享受することに至高の価値をおく自足的な意識が蔓延してきたことを意味しています。そして、これらを総合して、伝統主義や政治的反動と区別された意味での保守主義的な意識形態と呼ぶことができると思います。  (安丸良夫『〈方法〉としての思想史』法蔵館文庫、一五九頁)

 安丸のいう「保守主義的な意識形態」の三要素、すなわち、①大勢順応的、②身辺的、③日常生活的な充足性の三つに安住した生活をしている限り、現状肯定意識が強く、現状変革を求める「変革意識」は不要でしょう。その意味において、「理想主義や社会正義についての意識」が芽生えるための教学振興への関心が薄いのも当然といえましょう。
 「維新」時であれ「敗戦」時であれ、「護法護国」「宗門護持」という理念は、宗門の危機意識を背景に、宗門人の内面的献身を要請する機能を発揮しました。二〇二三(令和五)年、「立教開宗八〇〇年」を迎えましたが、一八七六(明治九)年の『宗規綱領』の「立教開宗」も、「維新」時の危機意識を背景に主張されたといえましょう。
 その意味において、「立教開宗」という理念も、個人的価値に自足して解釈するだけでなく、宗門の将来を見据えた時代感覚と歴史認識に立って、「愛山護法」という集団目標への献身につながる解釈が、今日の教学振興の課題として要請されているのではないでしょうか。


# by jigan-ji | 2025-12-25 00:02 | つれづれ記
寺法制定以降の賦課制度 ―一律公平な賦課制度とは―     2025年 12月 24日
 寺法制定以降の賦課制度 ―一律公平な賦課制度とは―

 宗門財政の改革が議論されています。「歳入の増額」や「収支構造の変更」が考えられているようですが、その前提として、これまでの賦課制度の変遷を踏まえた議論が必要に思います。
 以下に、その賦課制度の変遷の概要を記してみます。ご参照いただければ幸甚に存じます。


   1

 本願寺派は一八八〇(明治一三)年『本願寺寺法』を制定しました。
 『本願寺寺法』制定以前の宗門財政について、その詳細な研究はほとんどありません。
 本願寺第二〇世広如宗主(一七九八~一八七一)の代、石田敬起による天保の本山財政改革で、懇志募財のほかに「三季冥加」の義務化がはかられました。なお、一八一九(文政二)年の本願寺記録から、天保以前より、正月・中元・報恩講の三つの時期に、本山に納める「三季冥加」が存在していたことが知られます(『本願寺史』第二巻、白鳥幸雄『宗教法令と用語解説』、福間光超『親鸞聖人と本願寺の歩み』)。
 石田敬起の天保改革以降、宗門の財源は、(1)門主の帰敬式、免物冥加金、志納金、その他の本願寺収入、(2)一般の自由懇志、(3)義務的懇志(三季冥加)によりました(「宗門実態調査特別審議会答申書」昭和五三年一二月二七日)。
 一八八六(明治一九)年発布の『本願寺寺法』には、「第二十四条 本山維持及興学布教ノ用度ハ派内僧侶ノ寄贈スル浄財ヲ以テ之ニ充ツ」、「第二十八条 末寺ハ集会ノ可決ニ依リ相当ノ課金ヲ出シ本山ノ経費ヲ助クヘキ者トス」とし、さらに、一八九〇(明治二三)年制定の「三季冥加ニ関スル件」にて「末寺僧侶ノ三季冥加ハ本山永禄トシテ納ムヘキ義務金ニ候」と明定しています。
 この「三季冥加」は「末寺僧侶」の「義務金」とされましたが、その算定要素は「堂班」によりました。「堂班」とは、一八七六(明治九)年四月、本願寺派・大谷派・高田派・木辺派の真宗四派が教部省に提出した『宗規綱領』にて、「従前本山ニ於テ末寺僧侶ニ授クル所ノ寺格階級ヲ改称シテ堂班」と名付けたもので、「法会式ノ席順」でした(『真宗史料集成』第一一巻)。
 その後、この「三季冥加」は、一九四一(昭和一六)年、宗教団体法による『真宗本願寺派宗制』において、その名称が「賦課金」(第七四二条)となりました。しかし、その制度は、金額又は技術的な種々の改変はありましたが、「堂班」に対する賦課(第七五五条)という基調は敗戦後まで継承されました。
 敗戦後、一九四七(昭和二二)年三月『賦課規程』が施行され「寺院」に対しては「門徒数」にて、「僧侶」に対しては「教導師」「教師」「前二号以外の僧侶」の区分にて「賦課」されました。
 一九四七(昭和二二)年四月一日施行の『宗法』第一五条には「門主が住職である寺院を除く他の寺院について、寺格等の段階を附する制度を設けない。」と明定されました。しかし、一九五一(昭和二六)年四月『宗教法人法』施行後の、一九五二(昭和二七)年三月一日の『宗法』全文改正により、この条文は削除されました。「教団の民主化」と宗門財政の確立は、今後の研究課題です。
 一九四八(昭和二三)年三月には『寺院類別査定条例』が施行され、「門徒数五〇一以上」の「第一類寺院」から「五〇以下」の「第六類寺院」の六つの「類別」にて賦課されました。
 その後、一九五五(昭和三〇)年三月二五日『類聚規程』が施行されます。同第一条には「宗門意識の昂揚を図り、宗門護持の懇念を篤くするため、一般寺院又は非法人寺院及び僧侶について寺班及び僧班の類聚を設ける。」とあり、一九五五(昭和三〇)年七月一日施行の『類聚規程施行条例』の附則において、「寺格又は永代堂班と寺班の配列」並びに「僧序と僧班の配列」が明定されました。
 一九四八(昭和二三)年よりの、「堂班」に対する賦課から、「門徒戸数」を対象とした賦課制度への移行によって、宗門の公式の届出門徒戸数は減少しました。すなわち、一九〇〇(明治三三)年当時、約一二六万戸あった門徒戸数が、一九二一(大正一〇)年から一九四一(昭和一六)年は約一一〇万戸代となり、一九四二(昭和一七年)は一一七万戸、一九四八(昭和二三)年は一〇九万戸、一九五二(昭和二七)年には八八万戸に減少しました(「宗門実態調査特別審議会答申書」)。
 なお、一九五四(昭和二九)年二月開催の第一二三回定期宗会おいて、担当総務は「お答え申し上げます。昨日も申し上げましたように昭和十七年の調査では百十七万、昭和二十三年では百九万、昭和二十七年三月末は九十六万、それから今度の宗教法人法によりますところでは九十万と、過去四回の調査は約二十七万あまり減っておりますので、一回調査するごとに七万づつ減っているというのがこの十年ばかりの宗門の門徒戸数の調査の上に現れて来ておりますところの数字の差であります。(中略)昨日申したのは水害の場合などで、不用意に出されたからかどうか知りませんが、かねて届け出てありまするところの門戸数(門徒戸数の意か・池田注)より、今度水害を受けた門徒数が何軒であるというのが報告してある戸数とは多かったという、こういう矛盾があるということを一寸昨日申し上げたのでありますが、やはり当時百五十万と申しましたのは、これはただいま門主猊下の御慶事の時に、記念の扇を御慶事の御懇志を上げて下さった門徒の方に、当時御本山から配られましたその時が、丁度百五十万ばかり出ておるそうであります。」(『昭和二十八年度(定期)第百二十三回宗会議事速記録』)と、届出門徒戸数は九〇万戸であるが、「御慶事」のお扱いの記念品は一五〇万個出たと答弁しています。


   2

 一九四八(昭和二三)年三月当初、六つの類別であった類別制も次第に戸数区割りが細分化され、一九五九(昭和三四)年当時には類別も一五を数えるまでになりました。その結果、公式統計上では、一〇〇戸以下の寺院数が、全寺院数の約七六%を占めるまでに至り、門徒戸数の実数と類別門徒戸数の届出数の格差が拡大しました。
 ちなみに、一九五九(昭和三四)年当時の類別賦課金制を表にすると、左のようになります。

  類別   門徒戸数     賦課金    一戸割   寺院数   同百分比
 第一種 1000戸以上  13000円   13円     13   0、1%
  二   800-1000  11000円  11-14    16   0、2%
  三   600-800  9000円   11-15    48  0、5%
  四  500-600   7000円  12-14     35  0、3%
  五  400-500   6000円  12-15    88    0、9%
  六  350-400   5000円  13-15   85    0、8%
  七  300-350   4500円  13-15  119  1、1%
  八  250-300   4000円  13-16  198  1、9%
  九  200-250   3500円  14-18  347  3、3%
  十  150-200   3000円  15-20  556  5、3%
 十一  100-150   2500円  17-25 1014  9、8%
 十二  50-100    2000円  20-40 2488 23、7%
 十三  31-50     1500円  30-50 1947 18、7%
 十四  11-30     1000円  33-90 2320 22、4%
 十五  10戸以下      500円  50円   1156  11、1%
   (上の表は、企画調査室嘱託・深川倫雄『本願寺教団の分析』によります)

 その後、門徒戸数と類別賦課金制の悪循環を断ち切るために、一九六六(昭和四一)年四月一日『賦課基準規程』が施行されました。同規定にて「類聚」要素が賦課に加えられる(第七条)とともに、「護持口数」(第八条)が導入され、さらに「年齢七十五年以上の僧侶には、賦課しない」(第一一条)、「護持口数」は「昭和四十五年度から起算して三年後に改めて調整を行う」(附則)とし、一九七〇(昭和四五)年度分から「護持口数」での賦課が実施されました。
 従前、宗派の賦課制度は、住職や衆徒といった寺院役職や届出門徒戸数を基準として算出してきました。しかし、高度経済成長により、大都市へ人口が集中し、それに伴い地方が疲弊し、大都市圏と地方との経済力に大きな格差が生じました。こうした大都市圏と地方との寺院収入の格差の拡大という現状を踏まえ、二〇〇〇(平成一二)年六月一九日施行の『護持口数調整委員会条例』にて設置された「中央護持口数調整委員会」での議論を経て、地域の経済格差に配慮するため「県民所得」と、寺院の収入格差に配慮するための「寺院収入」を基準要素として算出したのが「教区別目標護持口数」です。
 この「教区別目標護持口数」をもって、各教区を通じて各組に調整を依頼し(『賦課金規程』第七条五項)、寺院の申告に基づき、総局が決定したのが護持口数です。
 従来の届出門徒戸数は、各寺院の住職が届けた門徒の戸数ですが、護持口数は「県民所得」と「寺院収入」を基準要素として算出した、「教区別目標」の数値であるため、その教区別の目標の数値を、各教区内で調整する制度設計になっています。
 当初「護持口数」は寺院の申告でしたが、教区間でその申告「口数」にばらつきがあったため「教区別目標」が提示されることになりました。ですから、教区別の目標数値としてお願いした、その目標数値の、その後の実数は、四年に一度見直す。その見直しは、実数を一番承知している各教区の「教区護持口数調整委員会」で行うというものです。
 現行の賦課制度は、これまでの届出門徒戸数と、一九七〇(昭和四五)年度より新たに実施された護持口数という、「戸数」と「口数」という二つの賦課基準からなります。戸数ならば一寺院の門徒戸数が一〇戸減ったから賦課金も一〇戸分減らすと理解しやすいかも知れません。しかし、教区別目標数値に基づき算出された護持口数は、教区単位の目標数値(目標口数)ですから、一カ寺減ったからその目標数値(目標護持口数)を一ケ寺分減らすとはいかない、減った分は教区内で調整していただく制度設計になっています。


   3

 一九四九(昭和二四)年三月二〇日、従前の「本山講」の一切の権利義務を継承して『門徒講規程』が施行されました。
 そもそも門徒講の淵源は本山講にあります。一九一二(大正元)年、大谷家負債問題が起こり、その負債整理の財源として寺債二〇〇万円を募集することになりました(『増補改訂本願寺史』第三巻)。一九一五(大正四)年二月に「本山助成講」が設置され、翌年一月講名が「本山講」と改められました。一九一六(大正五)年一月の『本山講規程』の第三条には「本講ハ本願寺ノ寺債ヲ償還シ及ヒ教学資金ヲ蓄積スルヲ以テ目的トス」、第四条には「前条ノ目的ヲ達スル為メ左ノ方法ニ依リ末寺門徒及ヒ信徒ノ懇志ヲ受ク」、第五条には「前条ノ収納懇志ハ本山会計法第二十五条ニ依リ特別会計トス」と定められました。一九二〇(大正九)年には総額三五〇万円にのぼり、当初の目的であった負債償還の目的は達しました。
 一九四八(昭和二三)年四月一日施行の『本山講規程』においては、その目的が第二条「本講は、浄土真宗の門徒たる自覚を高めると共に、宗門財政の基礎を確立し、宗門の行う興学布教、厚生及びその他の事業を助成することを以て、その目的とする。」となり、第七条に「講金は、左の通り支出する。 一 宗門への回金。 二 事務所費。 三 支部への下附金。 四 分会への下附金。 五 班への下附金。」と定めています。
 敗戦後、多くの仏教教団が財政難に陥り、天台宗は「叡山講」、真言宗は「大師講」、真宗大谷派は「相続講」に依って宗門財政の立て直しをはかります。本願寺派も一九四九(昭和二四)年三月、それまでの「本山講」の一切の権利義務を継承して「門徒講」を設けました。
 一九四九(昭和二四)年三月の『門徒講規程』の第二条には「本講は、同朋教団の本旨に則り、宗門の機能を振起し、同信の自覚を高揚するとともに、教法の弘通に資するを以て、その目的とする。」、第三条「前条の目的に賛同して、本講に加入した者を講員とする。 ②講員は、常に聞法求道と、報謝の生活にいそしむとともに、仏祖の崇敬と宗門の護持に心がけることを本務とする。」とし、さらに第九条には「講金は、本講の目的を達成するために、左の通りこれを支出する。 一 宗門の一般会計への回金。 二 教区への回附金。 三 組への回附金。 四 寺院への回附金。 五 事務局費。」と定めました(『昭和二十三年度(定期)第百九回宗会議事速記録』、『浄土真宗本願寺派法規集』昭和二五年八月二五日版等参照)。
 一九五二(昭和二七)年四月一日施行の『総局各部門設置規程』にて「常設機関」として「門徒講」を所管する部門(宗派と本願寺が法的に区分される前年度、平成二十三年四月当時は、寺院活動支援部〈一般寺院担当〉が所管)が設置されました。その後、一九七〇(昭和四五)年三月に『門徒講制度調査会規程』が発布され、同規程の第一条には「賦課基準規程の施行に伴い、門徒講制度について調査検討し、その結果を総長に答申するため、門徒講制度調査会を置く。」と定められました。
 二〇一二(平成二四)年四月一日よりの宗派と本願寺の区分において、会計も区分することになりました。従前の賦課金は宗派(寺院活動支援部〈一般寺院担当〉、『宗務部門組織規程』第一八条)で扱うことになりました。しかし、門徒講〔普通講金〕(普通講金=各寺院よりの届出門徒戸数に一〇〇〇円を乗じた額)は「宗門の一般会計への回金」を目的に謳ってきた歴史的経緯を踏まえると本願寺の収入となりますが、そうなると宗派の確定財源が逼迫し、宗派の運営に重大な支障を生じてしまうため、また、門徒講〔普通講金〕の算出根拠とされる届出門徒戸数は、その数字の正確性や公平性、客観性が問題視され、さらに、護持口数と門徒戸数に依拠した宗門財政のあり方自体の見直しの必要性も指摘されている状況を踏まえ、「本則第九条の二に規定する第四種賦課金は、当分の間、従前の門徒講普通講金相当額をもって充てるものとし、平成二十八年三月三十一日までに、その賦課基準を見直すものとする。」(『賦課金規程』附則〔平成二四年二月一〇日―宗則五八号〕)との措置がとられました。
 なお、従前の門徒講〔特別講金〕(特別講金=一カ寺あたり二〇万円以上を目標とし、各寺院へ依頼された)は、本願寺の参拝教化部の所管となりました(『内局部門組織規程』第一〇条)。
 従前の門徒講〔普通講金〕は本願寺を支えることを目的とし、その事業の一つとして宗派一般会計へ回金がなされてきましたが、それはあくまでも「懇志」であり義務金ではありませんでした。ですから当時、法的には根拠のない言葉ですが、賦課金に準ずる「準義務金」とも称されていました。


   4

 森岡清美は、「堂班制にしても僧序制にしても、僧衣の席次や衣体を学徳や功績によってよりは、宗門に対する上納金の多少によって決定し、より高い席次を獲得したいという名誉心と競争心をあおることで宗門収入を確保する制度であって、凡百の弊害の一根源はここにある」と評し、さらに、「宗門の財源を直接門徒ひとりびとりの懇志において、これを組織的に吸い上げるために半ば義務的な門徒講を創立した」(赤松俊秀・笠原一男編『真宗史概説』)と論じました。この森岡の指摘は、かつて井上豊忠の指摘した真宗大谷派の課題の一つである「宗門収入が信施の性質を失い租税の性質を帯つつあること」(森岡清美『真宗大谷派の革新運動』)を彷彿させます。
 森岡は「教団の民主化」の視点から、《宗門と僧侶》は「より高い席次を獲得したいという名誉心と競争心」でつながっており、《宗門と門徒》は「門徒ひとりびとりの懇志」を「組織的に吸い上げる」関係でつながっていると主張します。
 もし「宗門財政」が、森岡のいうように僧侶の「名誉心と競争心」や門徒の「懇志」を介した《財の収奪》で成り立っているとするなら、まさに宗門は《財の収奪》機関ということになりましょう。しかし、その指摘は士農工商の身分制社会にあって、封建領主が農民から年貢米を収奪するという、いわば権力者による富の収奪という理解であり、宗門と僧侶・門徒が収奪関係にあるという宗門観は、あまりにも一方的にして一面的な、偏狭な見解に思います。
 さらに、この宗門と僧侶・門徒が収奪関係にあるという宗門観は、「本末関係」を「支配従属の関係」において捉えることになります。
 戸上宗賢は「既成仏教教団の経済的基盤」について論じる中で、圭室諦成『日本仏教史概説』(昭和一五年)の論旨を紹介し、はじめ修業と聞法の道場だった寺院は、その規模が拡大すればするほど性格を変え、運営の面でも自給自足の段階にとどまりえなくなって、次第にその形態を転化していく。その原因は寺院の内側よりみれば財政的な困窮、言い換えれば、法要儀式のたびに財施の給付を収納する経済であると指摘し、「いずれにせよ、寺院経済が潤いを増し、徐々にその基盤を築き上げる過程は、周囲の事情や歴史的背景がどのようであれ、寺院が本来あるべき姿から次第に遠ざかり世俗への接近を促進する過程にほかならなかった」と述べました(戸上宗賢「既成仏教教団の構造変化」、高橋幸八郎編『日本近代化の研究 下 -大正・昭和編-』)。
 さらに戸上は、「本末関係という支配従属の関係が寺檀関係というこれまた上下の関係と重層して、複雑な組織構造を形成するうちに財的な負担義務もまた確立されていったのである。なかんずく既成仏教教団の経済的基盤は階統的構造の底辺の広がりのなかに相当大きな割合を占めると考えられるであろう。とくに、先述のごとき有力寺院を多く持たない教団の財政的基盤はおのずからこれら末寺寺院とそれに直接結合関係をもつ檀家とが担っていると言わねばならない。」(「既成仏教教団の構造変化」)と述べています。
 戸上によれば、「本末関係」は「支配従属の関係」であり、「寺檀関係」は「上下の関係」であり、「本山」や「宗派」は「経済的な面では寺院個々、最終的には檀家の義務金分担によって支えられている」(「既成仏教教団の構造変化」)と言います。
 この《宗門と僧侶・門徒》の関係を収奪関係において捉える宗門観は、既成仏教教団の体質改善という意味においては重要な視点に思います。
 しかし、「自給自足の段階」に止まり得ない寺院経済や、さらに、「徳義だけで七〇〇〇余カ寺の一大宗門を統治していけるはずはなく、必ず一定の標準を示してその遵守を求めなければならない」(森岡清美『真宗大谷派の革新運動』)宗門組織において、こうした「本末関係」=「支配従属の関係」、「寺檀関係」=「上下の関係」など、宗門を国家に見立てた財の「収奪」という視点でもって批判することは容易いことですが、「法施に依拠した財施」「教財一如」の宗門財政を描くことは不可能に思います。
 本来、「懇志」は「報謝行」といわれ、受益も負担も構成員全体で分かち合う、いわば「御同朋御同行」の精神、すなわち、連帯と共助の精神から進納されるものに思います。しかし、お互いが助け合う連帯と共助の精神が希薄化し、「同朋教団」としての一員である意識も薄れると、本山や宗派や寺院に特別の恩恵を感じることも薄れます。また、進納した懇志が、有効に使用されていないと感じるようになると、本山や宗派や寺院の募財や懇志に応じることも苦痛になりましょう。
 持続可能な宗門のグランドデザインを描くためには、宗門組織の賦課の制度設計と共に、懇志進納に喜びと期待と納得が得られる「教学の振興」を、わたしたち宗門人一人ひとりの課題とする必要があります。


# by jigan-ji | 2025-12-24 14:28 | つれづれ記
「浄土教の教理史的発展」―「浄土に生まれ、この上ないさとりを開かせていただく」―     2025年 12月 19日
 梅原隆章氏は「社会変革と浄土教々義の発展」(初出・昭和29年、『真宗史の諸問題』1959年所収)にて、藤原時代より鎌倉時代への「浄土教の教理史的発展」を「(1)成仏教、(2)往生教、(3)往生即成仏教」と捉え、次のように述べています。

 日本浄土教の発展の歴史をあとづけるときに、源信→源空→親鸞という念仏を重視する一連の系統が見出される。そして、この三者を、それぞれ日本の古代から中世への社会の変換期における代表者と仮定して、社会情勢の変革と浄土教の教理史的発展の両者に密接な関聯のあることを発見するのである。即ち浄土教が当時の社会に何故受けいれられ且つ発達したかを解明する一つの方向をしるしづけうるのである。(中略)即ち私は、(1)藤原時代―源信(慧心)、(2)院政時代―源空(法然)、(3)鎌倉時代―親鸞(善信)という三つの時代と社会に、それぞれ三人の代表者を配分して、その浄土教理史的な発展を結びつけて考える必要があると思う。全仏教的な立場から概観して、三つの教義分類が可能であると私考する。それは即ち、(1)成仏教、(2)往生教、(3)往生即成仏教の三分類である。仏教の本来目的とするところは、転迷開悟である。転迷開悟して仏になることである。即ち成仏である。往生教の普及の教理史的な契機は末法思想である。(中略)念仏は最初、天台宗の寓宗として発達したから(中略)独立した一宗としての浄土教ではなくして、天台宗の寓宗的立場を脱することができなかったことが指摘される。観仏思想を中核とする浄土教は自性の弥陀、唯心の浄土の具体的な表現であった。(中略)しかし現実の危機意識、天災地変などにおそわれ遂に此岸における深刻なる苦悩にさいなまれ、彼岸の浄土に往生することに置きかえられて、浄土に往生するという傾向があらわれてきたのである。これは末法の世にふさわしい行きかたである。しかし成仏教という点から見ては次善の道である。そして往生の行業としての念仏に関して教理史的な発展が要請されるのである。(中略)浄土教理史の上から見れば、この院政時代後期に法然の出現があって、従来の浄土教が天台宗の寓宗的立場であったのを脱し、念仏教団の独立の宣言が行われ、既成教団と対立する念仏往生を立場とする教義が説かれる。(中略)専修念仏は成仏教でなくて純粋な往生教である。第一目的が「往生」に置かれているのである。(中略)成仏教に於ては補助的第二義的地位にあつた念仏から、念仏のみが唯一の往生の因であるという立場をとつたことに往生教の独立がある。(中略)鎌倉時代の浄土教の特徴としては、親鸞の往生即成仏教という教理史的な発展において見るべきものがある。(中略)親鸞においては、往生業である念仏が、とりも直さず成仏の因であり、念仏者は現世において正定聚不退の位に登ることを教理史的に発展させた。念仏は仏教本来の目的たる成仏の行業であることを論証し、現世に於いて正定聚不退の位に入るからもはや来迎を要期する必要を認めないという往生即成仏ということを説くのである。

 『拝読 浄土真宗のみ教え』(2009年7月15日)にも、「浄土への人生」にて「親鸞聖人は仰せになる。 臨終一念の夕 大般涅槃を超証す いのち終えるとき、すみやかに浄土に生まれ、この上ないさとりを開かせていただく。」と記されています。

# by jigan-ji | 2025-12-19 00:02 | つれづれ記