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よく「信心」について語るとき「信心を得た」とか、「信心を得ていない」ということを耳にいたしますが、親鸞聖人は信心について語るとき、信心とは「獲得」得(う)るものであり、また「開発」開くものであると明かされております。
信心とは「獲得―ぎゃくとく」得るものであるという意味は、南無阿弥陀仏のみな(名号)をいただく、即ち阿弥陀仏のみ教えを聞くことによって、私というものが罪深き、地獄行きの人間であることに気づかせ・めざめさせられることを、信心を「開発―かいほつ」聞くことだと言われております。 一般には、信心とは「得る、得ない」の「損得」で理解されておりますが、浄土真宗でいう「信心」とは、そういうものでなく、なもあみだぶつのみなのいわれを聞かせて「いただく(獲得)」ことによって、私自身が罪深き、地獄行きの悪人であると気づかせ・めざめさせられる(開発)という、獲得と開発の二面にて語られるものであることが知られます。 そして地獄行きの私であることに気づかせ・めざめたならば、ますます自分の罪深き身を阿弥陀仏のみ教えを聞くことによって、反省・懺悔して、私の地獄行きの「おもい」と「おこない」とを「聞治―もんじ」すべきであると語られるのであります。(本稿は1983年6月1日こころの電話で放送したものです。) #
by jigan-ji
| 2003-06-21 01:11
| 仏教のお話
先般友人の僧の結婚披露宴に出席しました。宴会の最中、子供ができたらその子のお宮参りの衣装を無料サービスするという会場のコマーシャルがあり、さてその友人、どうするだろうかと苦笑しました。
宗教儀式が本人の意思とはかかわりなく、あまりに商業ベースになるのも考えものであります。ひどい時は佛壇のサービスに御本尊をサービスするという佛壇屋もあるという。本末転倒もはなはだしい。でも多くの国民はそれを何とも感じないらしい。喜んでいる人さえいます。 NHK紅白歌合戦に続く、ゆく年くる年を見ていても、午前零時になるまでは静寂な中にひびきわたる寺の除夜の鐘の音、午前零時になるやいなや神社の初詣のにぎわいの画面。 結婚式はキリスト教、子供ができたらお宮参り、葬式は佛教でという日本人。宗教信仰に寛容なのだという人もいるが、要は個人として自分で選んだ宗教・信仰が無いということであります。 江戸時代の檀家制度における佛教、明治時代の氏子制度における神道、戦後連合国軍におけるキリスト教のクリスマス等、いずれをとっても国家権力に許され、またはおしつけられた宗教信仰であります。 かくれ念仏、かくれキリシタンではないが、真の信仰に生きるとは、常に流罪されたる者、非国民として生きることと紙ひとえなのかもしれない。 (本稿は1984年2月11日こころの電話で放送したものです。) #
by jigan-ji
| 2003-05-22 01:10
| 仏教のお話
日本において仏教はかなりの期間、いわゆる鎮護国家仏教として伝統されてきました。
仏教は国家を鎮護するものであるというのであるから、仏法が国家・政治権力の「王法」の下におかれていたのは当然であります。 しかるに鎌倉時代になって仏法が王法に臣下の礼をとることを拒否し、王法こそが仏法に礼をとるべきが本来の仏法と王法との関係だと主張する僧があらわれました。親鸞聖人と日蓮上人がそれであります。 しかし日蓮上人においては日本を神国、つまり皇祖神としての天照大神の子孫が支配統治すべき国とみる考えを否定できませんでした。 まさに神国思想を克服し、仏法そのものに基づいた日本の国家的ビジョンを提示できたのは親鸞聖人のみでありました。それが和国であります。 それは「万国たすけの棟梁」たる仏法にもとづいた、歴史的な国家ビジョンでありました。 しかるに、この「和国」の主張は時の権力者には、神国たる日本を破壊する危険思想と映じました。それ故に親鸞聖人は越後へ流罪となったのであります。(本稿は1983年10月21日こころの電話で放送したものです。) #
by jigan-ji
| 2003-04-16 01:09
| 仏教のお話
佛教とは単に心・気持ちの問題ではないのです。煩悩の煩は「身をわずらわす」、悩は「こころをなやます」といいます。
また、歓喜の歓は「ミヲヨロコバシム」、喜は「ココロヲヨロコバシム」と訓ぜられるように、身に関わった心・気持ちの問題であります。 曽我量深先生は「往生は心にあり、成佛は身(からだ)にある」ともいわれております。 身をわずらわすとは、わが身の存在が相手に対して恨(うら)みの存在であるという、「悪人」という悲しみの自覚であります。 「悪人」という身(存在)の悲しみとは、病気や手や足がないという悲しみから、子供のこと、親兄弟・親戚のことで悩むのも、みな身の悲しみであります。わが身(存在)とは、たまわりたるものであって、自分で生まれようと決断して生まれたのではないから、人間は自分の悲しき身の存在をもてあましてしまうのであります。たまわりたる身の悲劇は、自分の責任を超えているのです。だからわが身の悲劇の原因を先祖のたたりとかにもとめたりするのであります。 しかし、先祖を否定したら、わが身をも否定しなければならない。わが身の悲劇を宿業としてわが身に担(にな)って生きるのが念佛の教えであります。 清澤満之先生は「生のみが我等にあらず。死もまた我等なり」と、念佛者は「生死を並有する」ものであるから、過去世の業をわが身に担って現在と未来とを生きるのであります。 過去・現在・未来の三世に生きるのが念仏者であります。 真の救いの道、生死いずべき道とは、三世に生きる道であります。 #
by jigan-ji
| 2003-03-21 01:02
| 仏教のお話
以前高校生に自力と他力について感想を書いてもらったことがあります。
その感想のなかに「自分でできるうちは自力で頑張り、自分でできなくなったら他力にたよるのが本当で、はじめから他力にたよるのは少し努力が足りないのではないか」という意見がたくさんありました。 いうなれば、人事を尽して天命に安んずる、というのであります。 人事を尽すことが自分を尽すことのように思われ、他力とは人事を尽すことを否定することのように思われているようであります。 しかし、他力とは人事を尽すことを否定しません。肯定するのであります。 他力における人事を尽すとは、いうなれば清沢満之先生の「天命に安んじて人事を尽す」ということであります。 人生という業縁の牢獄にあって、天命に安ずること、言いかえれば、阿弥陀如来のみ教えに生きることによって、真に自己の自由なる人事が尽せるのだというのであります。 (本稿は1983年4月1日こころの電話で放送した原稿です) #
by jigan-ji
| 2003-02-25 01:01
| 仏教のお話
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